このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

京阪グラウンド

 関西私鉄五社は阪神、阪急、南海、近鉄とプロ野球チームを有していたが、唯一京阪だけは持っていなかった。しかし京阪電気鉄道も他の電鉄会社と同じく沿線にグラウンドを有していた。これが京阪グラウンドである。所在地から寝屋川グラウンドともよばれた。

 京阪電気鉄道は1910年に天満橋−五条を開通した。京阪電気鉄道は沿線開発と旅客誘致のために、香里に住宅地を開発し、枚方には遊園地を開設するなどした。その一環として、沿線に総合的な大運動場を建設することになった。
 1921年12月、寝屋川付近の豊野村に約5万m2の土地を入手し、1922年1月から陸上競技場の建設に着手した。運動場は「京阪グラウンド」と命名された。運動場の位置は寝屋川駅から600mあまり京都よりになるので、運動場利用者のために新たに駅を設け、「運動場前」と名付けた。陸上競技場は1922年4月21に竣工した。フィールドのなかに、1周400mのトラック、100mの直線、200mのセパレートコースを設けた立派なもので、簡易ではあるが観覧用スタンドも設けられた。
 4月22日にはさっそく、朝日新聞社主催の第3回東西対抗競技大会関西予選大会がこの運動場で開かれた。陸上競技だけでなく、サッカー、ラグビーなどの試合にも利用されるようになり、京阪グラウンドは一躍にして日本の陸上競技会の名所となった。

 京阪電気鉄道は野球場とテニスコートも併設することになり、1922年5月に着工、8月末に完成した。野球場では大学の定期戦や、学校や実業団などの大会および練習試合が連日開かれた。1924年の第10回全国中等学校優勝野球大会の大阪大会は京阪グラウンドで開かれた。
 この年の本大会は新しく完成した甲子園球場で行われたが、はじめての本格的球場の出現に、京阪電気鉄道も野球場のあり方について真剣に考えざるをえなくなった。本格的球場に改装することも考えられたが、運輸本業に関して建設拡張のさなかであったので、運動場に関する拡充整備の問題は見送られた。

 実は会社内では1924年からはじまった全国センバツ中等学校野球大会をここへ呼ぶという計画もあった。しかし、運輸課から「選抜野球の開催は春だから、春の京阪電車は遊覧客の輸送だけで手一杯なのに、これ以上に野球の客を運ぶとなると車両を新造せぬかぎり、責任ある輸送はできない」という申し入れがあり、結局この計画はお流れとなった。

 1942年6月23日、京阪電気鉄道は京阪グラウンド用地を住宅用として日本住宅営団へ売却した。1943年1月20日には運動場前駅を「豊野」と改称した。豊野駅は1963年5月15日に廃止された。

 京阪グラウンドの跡地は現在、完全に住宅地となっている。場所は寝屋川市豊野町の西半分。廃止された豊野駅は京阪電鉄本線が高架橋から地上におりたところにあった。都市地図や住宅地図などで見ると、豊野町が平池町にくいこんでいるので、駅があったところがよくわかる。

参考文献
京阪電気鉄道史料編纂委員会編(1960):『鉄路五十年』京阪電気鉄道,772p.
京阪電気鉄道編(1980):『京阪70年のあゆみ』京阪電気鉄道,509p.

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