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阪神電気鉄道の有名な野球場といえば甲子園球場であるが、これ以前から阪神電気鉄道は野球場経営を行っていた。それが鳴尾球場であり、今回ここでとりあげる香櫨園グラウンドである。
阪神電気鉄道は1905年4月12日に神戸−大阪間の営業を開始したが、開通間もない頃すでに乗客誘致の一環として娯楽機関を設置する方針を決めていた。その一つとして、まず開通同年7月に打出海水浴場を開設した。
また沿線に遊園地を設置することは乗客誘致の有力な手段となるため、様々な角度から検討された。場所は夙川西岸の丘陵地で、当地は松林が生い茂り阪神間の景勝地であった。この地帯を所有していた香野蔵治は、櫨山慶次郎とともに周辺の土地を買収し、様々な施設を備えた遊園地を計画した。そして1907年4月1日に香櫨園が開園した。香櫨園とは、香野と櫨山の両姓をとって命名されたものである。
香櫨園の内部には博物館、動物園、音楽堂、運動場など、当時としては珍しい施設が設けられ、関西で最大の遊園地となっていた。阪神電気鉄道は香櫨園の開通と同時に香枦園駅を新設し、資金面でも経営を援助した。同年7月18日には打出にあった海水浴場も香枦園浜に移設された。
この香櫨園に野球用のグラウンドがつくられるようになるのは1910年のこと。同年秋にシカゴ大学が早稲田大学の招きで来日していた。大阪毎日新聞社は両校を関西に呼んで国際試合をやらせようとしたが、あいにく適当な運動場がなかった。大阪毎日新聞社は阪神電気鉄道に話を持ち込み、技術長の三崎省三と会計課長の山口覚二がこれに応じ、2週間で香櫨園内にグラウンドをつくりあげた。
ただし急造のグラウンドであったためスタンドも柵もなく、左翼の方はスロープとなっていたため、ここに飛ばされると追っかけてつかまえてもどこへ送球したらよいかわからないという状況であった。
両大学の試合は1910年10月25日から3日間、このグラウンドで行われた。阪神電気鉄道は両大学をグラウンドに輸送する電車に花電車を用いたので、シカゴ大学の選手は大いに喜んだという。グラウンドが不完全なため入場料は徴収せず、観戦申込を受けた学校団体を優先させただけで、全3試合を一般に無料開放した。3日間とも満員であったため、阪神電気鉄道は野球試合を挙行することに大きな自信を得て、のとの全国中等学校優勝野球大会の開催につながることになる。
その後、香櫨園の大部分の土地をサミユル商会が入手することになり、阪神電気鉄道に対して賃貸料の値上がをしてきた。電鉄側はその要求を退け、1913年9月に香櫨園が廃止となり、同時にグラウンドも姿を消した。もともと営業困難で廃止にしようとしていたところに、サミユル商会が地代値上げを要求してきたため、これを機会に一気に廃止となったようだ。
サミユル商会はこの地を外人向きの住宅にしようとしたが、実現しなかった。その後、香櫨園の旧地は大神中央土地株式会社の所有となり、阪急電鉄神戸線の開通と同時に夙川駅が開設され、以後高級住宅地となった。
現在の西宮市羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町の一帯が香櫨園跡地に相当する。片鉾池(内澱池)のある夙川公園が在りし日の香櫨園の面影を残しているのかな。グラウンドは園内でも西の方にあったので、おおよそ松園町あたりであろうか。
関西において野球場といえば、学校の校庭か大阪城の東にあった城東練兵場であった時代において、不完全なグラウンドではあったが香櫨園の果たした役割は大きかったといわれている。
これ以降、阪神電気鉄道の野球場経営は鳴尾球場、そして甲子園球場に引き継がれることになる。
参考文献
阪神電気鉄道株式会社臨時社史編纂室編(1955):『輸送奉仕の五十年』阪神電気鉄道,211p.
日本経営史研究所編(1985):『阪神電気鉄道八十年史』阪神電気鉄道,627p.
阪神タイガース(1991):『阪神タイガース 昭和のあゆみ〔プロ野球前史〕』阪神タイガース,122p.
大和球士(1977):『真説日本野球史《大正編》』ベースボール・マガジン社,360p.
武藤誠・有坂隆道編(1967):『西宮市史第三巻』西宮市役所,758p.
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