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中モズ球場の完成は1939年。前年に創設されたプロ野球球団・南海軍(商号は南海野球株式会社)の専用球場である。
南海鉄道(現在の南海電鉄)の開通五○周年記念事業の一つとして、沿線の開発と品位の向上、それに国民体育の向上に役立てるため、高野線・中百舌鳥の社有地約18万平方メートルに総合運動場を建設することとなった。
昭和の初めは、まだ中百舌鳥の辺りは農家がイチゴやサツマイモを栽培しており、野球場完成時も当地は堺市ではなく 、泉北郡東百舌鳥村であった1)。
総合運動場で最初に完成したのがテニスコートである。1935年にアンツーカーコート1面をセンターコートとし、ほかにクラブコート7面を設け、観衆2,500人を収容できた。テニスコートはその後も整備増設されていき、1937年からは全日本庭球選手権もここで開かれるようになった。終戦後は1946年まで進駐軍に接収され、軍需物資や資材がコートに山積みとなっていたが、1947年に再開をみた。
中百舌鳥に野球場が完成したのは1939年8月11日。落成式に先立ち、7月30日から南海×阪神が行われた。しかし同球場ではあまり公式戦が行われず、戦前の関西におけるプロ野球公式戦の野球場はほとんど甲子園球場と西宮球場に限られていた。中モズ球場はむしろ南海球団の練習場とかファーム育成の場といった趣きが強い。
戦時中に軍に入隊していた山本一人(のちの鶴岡一人)は、復員すると近畿グレートリング(南海軍の後身)の監督に就任した。山本は中モズの合宿所近くの農家から水田を借りて米を作り、合宿所まわりの空地にイモやカボチャを植えて自給自足をはじめた。選手たちをできるかぎり合宿に入れて、自分も一家そろって合宿の四畳半の間で生活した。
中モズ総合運動場にはテニスコート、野球場の他に、陸上競技場(1940年)、小運動場、相撲場、ラグビー場、サッカー場、バスケットコート、バレーコート、卓球場、体育会館、クラブハウスが設けられており、まさに総合運動場であった2)。特にテニスでは全日本選手権の開催地になるなどファンが押しよせたので、1949年7月に中百舌鳥運動場前駅が新設されるほどであった。
しかし、1960年に大阪市南部に長居陸上競技場が完成したため、主な競技大会はすべてそちらに移ることになり、南海電鉄は中モズ総合運動場廃止の意向を示した。このときは堺市や市体育協会が存続を求めたので残されることにはなったが、補修されもせず荒れるにまかされていた。
しかしながら、泉北ニュータウンへの泉北高速鉄道の建設を契機に、中モズ総合運動場は徐々に姿を消していくことになる。まず鉄軌道建設にともない、競技場に隣接している中百舌鳥ゴルフ場のうち3ホールが鉄道用敷地としてつぶされることになった。南海電鉄は当初、競技場とテニスコート用地の大半をゴルフ場の拡張にあてようと、1969年夏に陸上競技場の取り壊しにかかった。しかしその後、計画は変更されて敷地の約半分は住宅公団に売り渡された。ただし中モズ球場だけは南海ホークスの専用球場としてそのまま残された。
1988年に南海ホークスがダイエーに譲渡されて主がいなくなったが、それでもまだけなげにも存続していた。しかし、2002年3月頃、残されていたスタンドは解体された。
注
1) 堺市への編入は1942年7月1日。
2) 「中モズ総合運動場」のパンフレットには以下の記述が書かれてある。
大阪の東南方難波より約二十分、百舌鳥野の一角遥かに葛城、金剛の秀峰を仰ぐ眺望にすぐれた緑の田園約6万坪を劃する中モズ総合運動場は、大阪府下における随一のレクリエーションセンターとして各種競技場を完備するスポーツの殿堂で、運動場全体が、芝生と、緑樹と、花壇を配した緑したゝる一大公園となっており、スポーツ人は勿論のこと御家族連れでスポーツを楽しみ明日への勤労に対する静養を図る好適地である。なお、当総合運動場は、学校会社向上の体育大会は勿論一般の人が気安くゆっくりと一日を楽しめるよう万端の準備を整え皆様のお出でをお待ちしております。
参考文献
南海電気鉄道編(1985):『南海電気鉄道百年史』南海電気鉄道,723p.
南海ホークス四十年史編集委員会編(1978):『南海ホークス四十年史』南海ホークス,400p.
ベースボール・マガジン社編(1988):『さらば!南海ホークス』ベースボール・マガジン社,162p.
小和田淳編代(1971):『堺市史続編第2巻』堺市役所,1120p.
探訪記 (カイリューズ)
前日に「中モズ球場の画像」を提供していただいているシャウエッセンマンさんから以下のようなメールが届きました。
「そういえば,今日気づいたけどナカモズ球場が取り壊されていました。」
なに、中モズ球場が取り壊されている!これは一大事だ。ということで今日さっそく行ってまいりました。
地下鉄あびこ駅から片道230円、地下鉄なかもず駅に着く。そこから歩いて約10分。
到着してみて驚いた。まったく何もなくなっている!少し前までは存在していたはずのスタンドは完全にみられない。グラウンドには石の山と、工事関係者とトラックなど工事関係車で占領されている。
警備をしている人に話をきいてみた。野球場が解体されたのは2、3ヶ月前のようだ。おそらく3月のことだと思われる。その方は解体時には警備にあたっていなかったようだが、スタンドの骨組みがごつかった、複雑だったようだ。ショベルカーがつぶしている石の山がスタンドのコンクリートだったようだ。山は2つある。これらがすべてスタンドの一部を形成していたのか。野球場の左中間後方にある公園からもみてみた。わずかに残っている緑がグラウンドを偲ばせる。ライトとレフトにあったポールも消えている。センターにあったはずのスコアボードもなくなっている。
この6月1日から建築工事が始まるらしい。跡地には15階建ての団地が3棟と、併設の駐車場が造られるようだ。周辺のような公団ではなく、南海関係の住宅団地になるみたいだ。まだ南海の所有物ということなのだろう。
近くに住んでいた私も中モズ球場の解体の話を知らないので、おそらく多くの人がこのことを知らないだろう。数多くの南海ホークスの選手を育んだ名門野球場の、哀しすぎる、あまりにも哀しすぎる最期であった。
帰りに警備員の方に頼んで、元スタンドのコンクリートの破片を4ついただきました。価値にして1個115円か。地下鉄の往復運賃÷4。
(2002年5月30日)
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