このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

鳴尾球場

 1913年に香櫨園グラウンドが閉鎖されたので、阪神電気鉄道は競馬場内にグラウンドを設けることになった。

 
鳴尾の地には明治末期に関西競馬場があったが、明治末期の馬券売買禁止により経営が不振となった。関西競馬場は鳴尾競馬場と改名されたが、これを活用しようと考えたのが阪神電気鉄道で、1914年4月8日に阪神競馬倶楽部と土地建物賃貸契約を締結した。その後、鳴尾競馬場は飛行演技のアトラクションの会場として利用されていた。
 鳴尾競馬場は1916年3月に阪神電気鉄道が経営する鳴尾運動場に転身した。競馬場内に400mの直線コースと、一周800mのトラックをつくりあげた。トラックの外側には400mコースと並行して細い掘割があったが、これは「鳴尾タンク」と呼ばれるプールであった。トラックの内部にはテニスコートが2面あり、総合運動場の体裁を整えていた。

 鳴尾球場が競馬場内に設けられたのも1916年のことである。阪神電気鉄道側は恒久的な事業を行いたいと考え、大阪朝日新聞社に話をもちかけた。大阪朝日新聞社は1915年から豊中球場で全国中等学校優勝野球大会を開催していたが、そのころの大会は各校の自費参加であったため、大会会期が長くなるにつれて、参加校の滞在費がかさんでしまう。同社は参加校の負担を減らすため大会会期を切りつめたい一方、全国大会と銘うつからには参加校を増やしたかった。この相反する要望を満たすのは会場の倍増しかなかった。大阪朝日新聞社が野球場の併設を希望したところ、阪神電気鉄道はさっそく鳴尾競馬場に野球場を2つ建設することとなった。
 こうして鳴尾球場は、1917年から全国中等学校優勝野球大会の
会場となった。

 2面の野球場は、東側が本グラウンドで、西側がサブグラウンドであった。競馬場内にグラウンドが設けられたため、すべてに高い固定のスタンドをつけるわけにもいかなかった。本塁後方が固定スタンドとなっただけで、ほかは8段の木造の移動式スタンドを利用することになった。移動式スタンドは本塁後方から左右両翼に並べられた。当初は本グラウンドだけに配置された仮設スタンドであったが、年々増加する観客に対応するために、最終的には西グラウンドの右翼側を除いてこのスタンドがつけられるようになった。グラウンドの境には球止めの板囲いで仕切りを作った。土は淡路島の洲本付近から船で運び込んだ。

 全国中等学校優勝野球大会は2つのグラウンドで行われていたが、一方に人気チームが出場するとそちらに観客が集まり、移動式スタンドをかついで移る光景もみられた。また、1923年第9回大会の準決勝第1試合の立命館中×甲陽中では、試合開始間もなくあふれた観客が外野になだれ込んでしまい、試合続行が不可能になってしまった。そこで午後に予定されていた第2試合の和歌山中×松江中を西グラウンドで繰り上げて挙行し、観客を分散させて本グラウンドの試合を再開させた。
 このように野球熱が高まるにつれて、鳴尾球場のスタンドでは観客を収容しきれない状態となり、朝日新聞社はより大きな野球場の建設を希望した。一方、阪神電気鉄道も武庫川改修地に甲子園球場を建設することとなり、1924年からは同大会をそちらで開催するようになった。
 甲子園球場の完成と同時に鳴尾運動場は閉鎖され、1937年には阪神競馬場と改称された。

 鳴尾運動場があった一帯は、現在では西宮市枝川町の浜甲子園団地となっている。1993年には全国中等学校優勝野球大会の後身である全国高校野球選手権大会が75回目を迎えたのを記念して、鳴尾球場の跡地の一角である鳴尾浜公園内に、朝日新聞社と日本高校野球連盟によって記念碑が設けられた。この記念碑には、球児のブロンズ像と鳴尾球場での大会結果などを記したレリーフが取り付けられた。

参考文献
阪神電気鉄道株式会社臨時社史編纂室編(1955):『輸送奉仕の五十年』阪神電気鉄道,211p.
日本経営史研究所編(1985):『阪神電気鉄道八十年史』阪神電気鉄道,627p.
阪神タイガース(1991):『阪神タイガース 昭和のあゆみ〔プロ野球前史〕』阪神タイガース,122p.
武藤誠・有坂隆道編(1967):『西宮市史第三巻』西宮市役所,758p.

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