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宝塚球場は時期的に豊中球場と西宮球場の間にあたる野球場である。開設したのは阪急電鉄の前身である阪神急行電鉄。わが国初のプロ野球チームである日本運動協会の後身チーム・宝塚運動協会の本拠地であり、プロ野球チーム阪急軍の最初の専用球場である。
阪神急行電鉄の前身である箕面有馬電気軌道は宝塚線を全線開業して以来、宝塚に宝塚新温泉、パラダイス、宝塚少女歌劇団、動物園、植物園を設け、大阪近郊の一大レジャーゾーンを目指した。さらに新しく大きなスポーツ施設を宝塚に設ける計画が打ち出された。それが宝塚運動場の建設である。箕面有馬電気軌道は1918年2月に阪神急行電鉄に改称するのだが、先に手がけた豊中運動場が狭く、また輸送力にも限界があったため、旅客誘致条件が整った宝塚に本格的な運動競技施設を造ろうということであった。
宝塚運動場は1922年6月15日に完成した。場所は兵庫県川辺郡小浜村川面。総敷地面積は約33,000m2で、野球場が約13,200m2、スタンドが約10,000m2、テニスコートが約1,300m2、小運動場が約8,600m2であった。観客収容人員は約13,000人で、野球場が10,000人、テニスコートが1,000人、トラックが2,000人であった。球場の観覧席は、内野がコンクリート製スタンド(25,000人収容)と芝生スタンド(4,000人収容)で、外野にはスタンドがなかったが3,500人の観客を収容できた。
その宝塚球場を本拠地とする職業野球球団が1924年2月25日に設立された。宝塚運動協会である。宝塚運動協会は同年に日本運動協会(通称芝浦協会)が解散されたものを引き継いだものである。
この日本運動協会を宝塚に呼んだのが阪神急行電鉄の小林一三であった。日本運動協会監督の河野安通志らはその呼びかけに応じて、選手たちを率いて宝塚に向かった。宝塚運動協会が設立されたのは1924年2月25日である。選手たちは宝塚に移った直後はグラウンドの本塁後方にあるクラブハウスに入っていたが、外野の後ろに合宿所ができたのでそちらに移り住んだ。宝塚はまた宝塚歌劇の本拠地でもあり、グラウンドの三塁側スタンドの後方に少女歌劇の宿舎があった。
協会チームは芝浦時代に引き続いて大陸遠征を行ったり、関西の強豪チームである大阪毎日新聞のセミプロチーム大毎野球団と定期戦を行ったりもした。1928年秋に、関西に本拠を置く大毎野球団、関西ダイヤモンド倶楽部、スター倶楽部、そして宝塚運動協会の4チームで、関西四球団連盟が結成された。しかし、1929年3月に大毎野球団が解散し、宝塚運動協会も後を追うように1929年7月31日に解散した。
宝塚球場ではその後、1936年に日本職業野球連盟に加盟した大阪阪急野球協会の球団結成式が行われた。そして西宮球場が開設されるまで1年間におよびプロ野球が開催された。日本職業野球連盟の1年目は観客動員数が期待していたほど思わしくなく、連盟や各球団でも観客動員策を講じていた。阪神急行電鉄は宝塚球場でのゲームに「レディースデー」と称する女性客無料招待のサービスを行った。
現在は宝塚運動場はなく、その跡地は宝塚ファミリーランド内の大人形館にあたる。
参考文献
阪急ブレーブス・阪急電鉄株式会社編(1987):『阪急ブレーブス五十年史』株式会社阪急ブレーブス・阪急電鉄株式会社,426p.
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