このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

到津球場

 到津(いとうづ)球場の完成年はわからないが、1928年以前に設けられたのは明らかである。
 到津球場は実業団野球チーム「門鉄」のホームグラウンドであった。門鉄の野球部創設は九州鉄道管理局時代の1918年で、最初は同好の士のクラブチームとして発足した。1920年に門司鉄道管理局と改称されたとき、チーム名も「門鉄」と改めた。
 鉄道五十周年を記念して1921年から始まった鉄道省主催の全国鉄道野球大会では、第6回大会まで優勝5回、準優勝1回と抜群の成績を収めた。また1926年の第6回全国実業団野球大会と1936年の第10回都市対抗野球大会は初優勝を遂げた。
 隣の八幡に八幡製鉄野球部ができると、1925年秋から「製門戦」が行われるようになったが、大谷球場ができるまでは到津球場で行われていた。
 門鉄野球部は国鉄の合理化政策に沿って1961年から8年間休部したが、1970年に復活した。
 到津球場の方は国鉄の宿舎となり、現在はJRの公舎となっている。

参考文献
北九州市史編さん委員会編(1986):『北九州市史 近代・現代(教育・文化)』北九州市,1034p.

解説 (野球司書さん)

 はじめまして。じつは小倉にあった到津(いとうず)球場について調べているので、唐突ですが報告します。
 まず記念碑からわかることとして、大正12年完成。右翼125m、左翼85mの球場だったということ。戦前の都市対抗優勝の実績がある門司鉄道管理局(門鉄)のホームグラウンドであった。球場の歴史のハイライトは昭和9年11月29日日米野球第15戦がおこなわれルースがホームランを打っていること、です。この日米野球については朝日新聞の記事によれば午後1時50分開始、ゲームセット3時5分、8−1全米勝利。(さすが昔は試合時間が短いですね)
 次に『北九州市史』より、少し遅れた昭和3年に製鉄野球部専用の大谷球場ができてからは両球場で交互に定期戦(製門戦)がおこなわれた。製鉄野球部も門鉄が優勝した翌年に都市対抗制覇。
 『小倉市史』には到津球場についての直接の記述はないものの、戦後造られた豊楽園球場の説明の中で、「大東亜戦争以前には西鉄(当時九軌)経営の運動場があって野球場として使用され又一般競技にも利用されていたが戦時中に廃止され・・」とある。
 『小倉』という本の中にも豊楽園球場についての説明で、「球場ひとつ持たなかった北九州の中心都市小倉に、本格的な硬式野球グランドが建設される。」との記述が。
 それから昭和14年発行の『小倉市地図』には、「小倉グラウンド」と記載されていました。
 ここまでの調査を総合すると、到津球場は野球専門ではなく野球を主としたグラウンドだったと思われますが、ルースがホームランを打ち、戦前の社会人野球を代表する2チームが鎬を削った球場としてこのホームページの球場一覧に加えていただけたら幸いなんですが・・・。 
 なお、『野球小僧』創刊号のインタビューの中で、故苅田久徳氏(合掌)が「小倉球場の試合ではね、えらい雨が降ってね。」べーブ・ルースの野郎が傘をさして、長靴を履いて一塁を守ってた。(中略)そんな試合を7回までやった・・といってるんですが、新聞を見ると試合は9回成立。苅田さんの記憶違いなんでしょうか?あらためて合掌。
 以上唐突なくせに長くなりましたが報告をおわります。なんか判りましたらまた報告します。それでは、おそまつ。


 ちなみに昭和9年11月26日、小倉での日米野球はやはり大雨でした。当時の毎日新聞に「無敵軍も閉口 長靴も出る水上の珍試合ひ」という記事がありました。両軍とも泥まみれでひきあげたそうです。
 「雨」という点では苅田翁の記憶は間違ってませんでした。
 すみません。

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