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春日原(かすがばる)は、夜須野原、曽根原と並んで、「筑前三大広野」の一つにあげられる。近世から近代にかけては、松林、原野、沼地、溜池が点在する広野であった。
春日原の開発は、九州鉄道(現西日本鉄道大牟田線)の開通に始まる。当地にはもともと農業用溜池が3つあって「三つ池」と呼ばれており、開発計画では南側の2つを埋めて住宅経営を目的としていたが、不景気と緊縮政策のため野球場・競技場にすることになり、北側の池(龍神池)は遊園地にすることになった。なお、野球場(あるいは住宅地経営)は、京阪地方の宝塚や鳴尾を視察して可能性を確信したという。
1924年4月12日に路線が開通した。当日の『福岡日日新聞』は記者の試乗記に以下のように書かれている
菜黄緑麦に包まれた大橋井尻を経て、雑餉隈で鹿児島本線路上を通過すれば春日原駅、同所で下車して目下工事中の理想的運動場を拝見、福岡から一四〜五分、完成の暁には各種運動の競技と共に、さだめしファンの人出を築く盛観と春日原頭必勝を期す火の出る様な競技が予想される此のグラウンドで、一同は飽くまで春光と土の香の野趣に富んだ行楽気分に包まれて再び乗車(以下略)
観光施設として、納涼場と遊園地が龍神池とその周辺の山林に設置された。龍神池には貸ボートが浮かび、桟橋が架かり、仁和加、芝居、活動写真場があり、ゆしず張りの茶店が立ち並んだ。春は桜、秋はすすき、冬は料亭の弦歌と風流人を喜ばせたが、1933年限りで閉鎖された。
野球場の完成は1924年10月30日である。『福岡日日新聞』は以下のように報じた。
東洋一を以て誇る春日原大運動場は漸く竣工に近づいた。なかでも五○○○の観衆を容れて余りある大スタンドを有する野球場は愈々竣工した。本社ではこの機会に於て目下来朝中の在米最強の邦人チームを以て自他共に認めているフレスノ野球団、日本に於ける唯一の職業チームとして環視の中心にある宝塚協会球団、現在これ以上のメンバーを揃えることは絶対に不可能であるとの確信の下に集結された九州最初の強チームを迎えて、(以下略)
10月30日、31日、11月1日の3日間、ネット裏1円、その他50銭の入場料で開催された。
『躍進西鉄 創業50周年を迎えて』のp.72には春日原球場の様子が写真で載っているが、本塁とバックネットの間がものすごく広い。
開場以来、九州野球のメッカとして、少年野球、中等学校野球、大学高専大会、都市対抗などが催された。主要な大会には電車運賃の割引が行われた。
シーズンオフには仮設スタンドを設け、オートバイ競走、武道大会が催された。
野球場の周辺には様々な運動施設があった。野球場の南側には400mトラック、土盛スタンド、更衣室をもつ競技場が設けられた。このほか、テニスコート(1924年10月25日開設)、バレーコート、バスケットコート、相撲場などもあり、毎年小学児童から国際大会まで、あらゆるクラスの競技会が催された。
戦時中は滑走路がつくられて荒廃し、戦後になって再整備されたが、福岡都心・平和台に競技場ができたので、住宅地に転用された。
九州鉄道は1942年に福岡県内の他の鉄道会社4社と合併し、西日本鉄道となった。西日本鉄道のプロ野球球団といえば西鉄ライオンズだが、実は戦前にも球団経営を行ったことがあった(1943年)。このときは福岡県で公式戦が行われることはなかった。
西日本鉄道は1949年11月26日にパシフィック・リーグに加盟し、西鉄クリッパースと名乗った。福岡には他にセ・リーグ所属の西日本パイレーツがあった。同じ都市に2チームが競合していることもあり、平和台球場は完成されてはいたが、独占して使用することはできず、かわりに春日原球場を用いることになった。なお1950年末に両チームは合併し、西鉄ライオンズが誕生した。
春日原球場ではその後も年間数試合ほど行われていたが、公式戦は1953年を最後に行われなくなった。
春日原の運動場施設群は西鉄不動産により解体され、、龍神池の一部も埋め立てて、22ha600区画の宅地を造成分譲した。その後も1968年から1972年にわたり、3.7ha87区画も造成分譲し、あわせて26.7ha687区画となった。もともと住宅地として計画されていたので、ようやく本来の目的が達成できたということになろうか。
野球場・運動場跡地は現住所では春日市春日原北町・春日原東町・春日原南町にあたる。春日原北町には龍神池がさびしく残っている。
参考文献
春日市史編さん委員会編(1994):『春日市史 中巻』春日市,1115p.
西日本鉄道編(1958):『躍進西鉄 創業50周年を迎えて』西日本鉄道,108p.
年 | 月 | 日 | チーム | 安 | 本 | 点 | 点 | 本 | 安 | チーム |
1948 | 8 | 1 | 南海ホークス | 6 | 0 | 2 | 1 | 1 | 6 | 中日ドラゴンズ |
1948 | 8 | 2 | 阪急ブレーブス | 7 | 1 | 2 | 1 | 0 | 7 | 急映フライヤーズ |
1950 | 8 | 15 | 西鉄クリッパース | 5 | 0 | 3 | 2 | 1 | 3 | 東急フライヤーズ |
1950 | 8 | 23 | 西鉄クリッパース | 3 | 1 | 1 | 5 | 2 | 13 | 阪急ブレーブス |
1950 | 9 | 5 | 阪神タイガース | 7 | 0 | 2 | 5 | 0 | 15 | 大洋ホエールズ |
1950 | 9 | 9 | 西鉄クリッパース | 9 | 1 | 4 | 5 | 1 | 8 | 毎日オリオンズ |
1950 | 9 | 10 | 西鉄クリッパース | 5 | 0 | 1 | 11 | 3 | 13 | 毎日オリオンズ |
1950 | 9 | 30 | 西鉄クリッパース | 5 | 2 | 3 | 5 | 1 | 12 | 近鉄パールス |
1950 | 10 | 1 | 西鉄クリッパース | 17 | 2 | 12 | 7 | 1 | 11 | 近鉄パールス |
1950 | 10 | 22 | 西鉄クリッパース | 11 | 3 | 15 | 4 | 2 | 7 | 南海ホークス |
1951 | 4 | 22 | 西鉄ライオンズ | 10 | 1 | 7 | 1 | 0 | 1 | 毎日オリオンズ |
1951 | 8 | 16 | 西鉄ライオンズ | 16 | 1 | 8 | 7 | 2 | 7 | 毎日オリオンズ |
1951 | 8 | 16 | 西鉄ライオンズ | 7 | 1 | 4 | 3 | 1 | 7 | 近鉄パールス |
1951 | 9 | 16 | 西鉄ライオンズ | 4 | 1 | 3 | 2 | 0 | 9 | 毎日オリオンズ |
1952 | 3 | 21 | 西鉄ライオンズ | 12 | 3 | 5 | 1 | 0 | 4 | 近鉄パールス |
1952 | 4 | 6 | 西鉄ライオンズ | 9 | 1 | 2 | 3 | 0 | 2 | 南海ホークス |
1952 | 5 | 11 | 西鉄ライオンズ | 11 | 4 | 6 | 2 | 1 | 7 | 大映スターズ |
1952 | 5 | 11 | 西鉄ライオンズ | 13 | 2 | 7 | 5 | 2 | 5 | 大映スターズ |
1952 | 6 | 4 | 西鉄ライオンズ | 11 | 3 | 10 | 3 | 0 | 13 | 大映スターズ |
1952 | 6 | 4 | 西鉄ライオンズ | 4 | 1 | 4 | 1 | 0 | 6 | 大映スターズ |
1952 | 8 | 10 | 西鉄ライオンズ | 11 | 1 | 7 | 8 | 0 | 11 | 東急フライヤーズ |
1952 | 8 | 10 | 西鉄ライオンズ | 13 | 2 | 9 | 4 | 0 | 9 | 東急フライヤーズ |
1952 | 8 | 16 | 西鉄ライオンズ | 7 | 1 | 2 | 4 | 0 | 7 | 南海ホークス |
1952 | 9 | 21 | 西鉄ライオンズ | 10 | 0 | 5 | 4 | 0 | 7 | 南海ホークス |
1952 | 10 | 5 | 西鉄ライオンズ | 4 | 0 | 1 | 2 | 1 | 7 | 大映スターズ |
1952 | 10 | 5 | 西鉄ライオンズ | 7 | 0 | 3 | 1 | 0 | 4 | 大映スターズ |
1953 | 8 | 21 | 西鉄ライオンズ | 7 | 3 | 4 | 3 | 1 | 8 | 東急フライヤーズ |
1953 | 10 | 11 | 西鉄ライオンズ | 11 | 4 | 9 | 6 | 2 | 4 | 東急フライヤーズ |
探訪記 (カイリューズ)
2001年9月2日朝、春日原球場跡地を訪ねた。実はこれは2回目の探訪で、1回目は2000年春の九州一周旅行の際に訪れたのだ。今回は当初訪ねようと思っていなかったが、時間が少しあったので行ってみることにした。
JR春日駅で降り、春日原町内を散策。野球場の跡地とは思えないほどの住宅地だ。大野城市役所付近まで歩いたのだが、なぜかといえば、『春日市史』に載っている春日原道の石碑が大野城市曙町にあるからだ。その碑には「運動場」という文字が。明らかに野球場・グラウンドのことである。しかしその石碑は見当たらず。残念。
そこから龍神池まで歩く。この池には前回も来た。実は池の周辺は少し盛り上がっており、南にむかってちょっとしたスロープになっている。おそらくこの盛り上がっているところがかつてのスタンドであり、南部の少し低いところがグラウンドであったのだろう。そう考えると、何も残されていない野球場跡地であるが、少し感慨にふけることができた。帰りは西鉄春日原駅へ。
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