このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください






 3月25日土曜日。この日にかねてから興味のあった、未成線戸井線跡を訪ねる機会を得ました。
函館から汐首岬を経て瀬田来・恵山へ向かい、開通される事なく放棄された路線です。
戸井線建設は旅客目的ではなく、軍事目的で作られた点が注目に値すると思います。
戸井線はJR五稜郭駅から大きくカーブして函館市内を通り、湯川温泉街の北側を抜けます。
そこから海岸線近くに転じ、函館空港と国道278号線との間を線路跡は走ります。
現在の地図を見てもそれとなく分かるのですが、五稜郭から函館空港への間に不自然に1本の道が見て取れます。
歴史と函館市内の資料は「鉄道廃線跡を巡るII」を参照願います。

 今回の調査は日帰りだった為、上記の函館市街地の調査は諦め、構造物が多く残る戸井町方面を調査。
函館空港の案内板を確認した後、函館空港滑走路側の築提らしき道を軽トラックが国道と並走。
多分そうだろうと思ったのですが、後で地図と照らし合わせて確認。そこが戸井線跡。
地図の上では滑走路と平行に戸井線跡は走っており、一方の国道の方は海岸線に合わせて曲がりくねっています。
その先の新湊町にさしかかった辺りでは、戸井線跡はハッキリしませんでした。


 ここからさらに車を進めると川にさしかかり、川を渡ると古川町に入ります。
この川は汐泊川と言い、鉄道の跡が今もなおしっかりと残っています。
ここで車を停め、実際に歩いてみました。
両対岸と川の中に残る4本の橋脚。函館側には切り通し。戸井町側には鉄道用の大きさと見える築堤を確認。
この3つ遺構から、明らかにここに鉄道が存在(未成だが)した事が証明されています。
汐泊川を背に提地区の上から戸井町方面を望むと、バスの駐車場となっている広場の少し先の築堤が広がっていました。
その広さから見て、駅の予定地だったのではないでしょうか?
更に車を進めると石崎町に入り、進行方向左手には築堤と所々に橋の跡が確認できました。


 ここから更に車を進めると道が二分します。左手には広く車線をとってある立派なバイパス。
右手には海岸近くの集落を抜ける対面通交のしずらい、狭い道路の二種類です。
まず海岸側から鉄道遺構物を探そうとするが、別れたバイパス側〜坂の上の方〜にありそうな雰囲気だけ。
実際にこのバイパスは戸井線跡を利用して造られており、切り通しを開幅した高規格な道路となっています。
バイパスは子安町と釜谷町を一気に貫き、地図からも廃線跡を偲ばせる記載は綺麗に消えています。
この二つの道路が合流してから、さらに進んで行くと進行方向左手上方に、明らかに鉄道用と思われる築堤を発見。
その雰囲気・不自然さは、鉄道用以外の何物でもないと思われました。




 更に汐首岬に近づくと築堤の先に8連のコンクリート橋が現れたが、そのスケールに圧倒される。
立地は海岸すぐを国道が走り、国道そばに民家が数件あり、その背後に山がせり立っていて、頂上には汐首岬燈台。
戸井線は汐首岬を迂回する際に海岸近くを選ばず、民家の上空の橋脚を走らせることにした訳です。
その高さといい、規模といい、50年以上も放置されている事には恐怖すら憶えました。
ましてや鉄筋コンクリートではなく、資材不足の戦時中にみられる木・竹筋コンクリート製の大アーチと伝え聞いています。
民家の直上に存在している事は、その製法とあわせて危険な感じを受けたずにはいられません。


 8連アーチ橋から少しだけ右へ視線をずらすと、同じ高さに築堤と橋脚を発見。
国道側から見て、汐首岬を挟んで左手に8連アーチが、右手に築堤と橋脚が存在。
築堤と橋脚の側を燈台へと登る階段があった。次回はここを登って、燈台側から戸井線跡を眺めてみたいと思います。


そして、汐首岬から恵山へと車を進めると、先程の8連アーチ橋とほぼ同じ高さにトンネルを2つ確認。
写真で示すのは恵山寄りの2つめのトンネルで、函館側の入口には電線の走った電柱が存在してます。
このトンネルが貫く山を道路は迂回し、その先に汐首岬よりもまとまった集落が。
この集落の上方を函館側にはトンネルが、恵山側には築堤と小型の連続アーチが存在。
相変わらず路盤は高いところに存在しており、仮にこの集落向けの駅を作ったとしても、この高低差はなんとも不便でしょう。
写真にあるように築堤の幅の狭くなっている所。ここが崩れたと聞く場所なのではないだろうか?
ここの戸井線遺構には路盤の流出を防ぐかの如く、かなり厳重に補強がなされている。
小アーチの恵山寄りには戸井線跡よりも高い所からの出水に気を使っているらしく、排水用のパイプが設置されていました。
恐らくこの辺りが鉄砲水による被害の出た所なのだろうと、資料も無しに推測。



 海岸から吹き付ける風も強く、放って置けばただ朽ち果てる一方の戸井線。
あまりにも民家に迫っている為に、そのままには出来ないと思われるが、撤去するにも費用と工法の問題が山積み。
一度函館市からの払い下げを断った経緯のある戸井町には、なんとも頭もの痛い問題なのでしょう。
我々鉄道ファンにはいつまでも残って欲しいとの願いはありますが、この現状を目の当たりにすると複雑な思いを拭えません。
戸井線全体としては、線路跡は道路などに転用されているが、目玉と言えるコンクリートアーチには、歓喜と恐怖が同居。
廃線跡ではない所為か、表立った撤去の跡は見受けられず(函館市街地を除く)、55年を経た今日でも線路跡を見ることができました。
果たしてこの先の戸井線跡は一体どうなるのか?それはまだ分かりません。願わくば、民家に影響を与えずに残って欲しいものです。
ただ、戦争の遺構を今日に伝える未成線戸井線は、今日も津軽海峡からの風をその身に受けている。


 取材を終えて
まず、「鉄道廃線跡を巡るII」(JTB出版)を一読されると、より理解が深まると思われます。
今回は、第一回未成線戸井線訪問記とします。いずれ函館市内の戸井線跡を巡るつもりです。
年内に再取材できるかは微妙ですが、全線を訪問しないことには終われないと思いました。
なお、取材は実家の札幌市北区の北料金所から高速道路を使って長万部まで走り、そこから国道5号線で函館まで向かいました。
長万部から函館に向かう途中の噴火湾沿いで、函館本線の複線化によって放棄されたトンネルを見ることができました。
ただしこの日(3月25日)は大変天候が不安定で、山沿いの道路となると国道・高速道路を問わず軒並み吹雪く天気でした。
特に長万部から函館へ向かう国道5号線は行きも帰りも酷く吹雪かれました。
帰りにはトラックが道を滑り落ち、横転寸前のところで止まっている事故がありました。

 また今となってはの話ですが、室蘭から長万部へ向かう高速道路区間は結構晴れていまして、有珠山がハッキリと見えました。
生憎と山頂付近には雲がかかっていましたが、海岸線を離れ有珠山近くを走る高速からの眺めはなかなかのものでした。
まさか6日後に有珠山が噴火するとは、25日のこの日にどうして想像できたでしょうか?
そして、先頃公開された道央自動車道有珠山周辺の区間の映像にある無残な姿は・・・言葉になりません。
路面は噴石で破壊され、道路公団の話では復旧の目処は全く立っていないとの事でした。
この傷痕が癒されるのはいつの日になるのか、まだ誰にも分りません。自然の脅威を見せ付けられた出来事でした。

 話は逸れましたが、今回の調査にはドライバーとして父が同行してくれました。
本来の目的は青函連絡船メモリアルシップで開催されていた写真展「青函連絡船 海峡の記憶」を見ることでした。
ミレニアムイベント 「語り継ぐ青函連絡船の世紀」 の一環としての写真展でした。
函館出身の写真家白井朝子さんの、終航直前の連絡船の写真展です。
写真展そのものもに大変興味がありましたが、なんと白井さんは母の小学校の同級生だと言うではありませんか。
今回の函館遠征はこの事がきっかけでした。父が函館行きを誘ってくれました。
ただし父の当初計画を大幅に変更させたのは私でした(笑)。

 今回の調査には、28〜200mmのレンズをつけたNikon F5と、20mm魚眼レンズを付けたNikon FEの2台を使用。
三脚は持っていきましたが、全て手持ち撮影です。戸井線取材時は、晴れと吹雪きが入れ替わる困った天候でした。
全般に風が強く三脚の使用を考えましたが、取りに行くのが面倒くさかったのが最大の理由です(笑)。
そしてなによりも、長時間の運転をしてくれた我が父に感謝。



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