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隣の市で体験した阪神淡路大震災


 
記憶だけを頼りに書いています。
根本的な記述の間違い等に気づかれましたら、ご面倒でもお知らせください。
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地震が来た。
 揺れで目が覚めたのだから、ゴオーッという地鳴りは本来記憶にないはずなのだが、意識の奥の方に染みついてる。夢の中で、現実の音を把握したのかも知れない。
 地震を知覚したとき、仰向けに寝ていた僕は、思わず両手でベッドを押さえつけた。
 そんなことをしても何の役にも立たないのに、他にするべき事を思いつかなかった。ベッドから転げ落ちるかも知れないという恐怖が、自分を支えようとしたのかも知れない、などとも思うのだが、これはいいわけであって、多分、揺れを止めようとしたに違いなかった。

 大きな地震だな、とは思った。
 でも、さすがにもう止まるだろう、いままでこんな大きな地震なんか体験したことがない、これがきっと最大値なのだろう。そんなふうに何となく思っていた。
 しかし
揺れは収まらなかった。
 それどころかどんどん大きくなっていった。「さすがにもう止まるだろう」とぼんやり思っていたのが、いつの間にか「頼むからもう止まってくれ」という、祈るような気持ちに変わっていた。

 精神的な余裕はなくなっていた。怖くて飛び起きることもできない。
 隣には息子が眠っている。2歳。寝室にはタンスなどはあったけれども、幸い背が高すぎてさらにその上には何もおいていなかった。
 この時点でものが落ちてきていたら、僕の恐怖感とか行動とかまた別のものになっていただろう。
 振動の物音がすごくてそれ以外の異常音はあまり感じなかったけれども、隣の部屋あたりでガチャーンという音が何度か聞こえた。ひとつは陶器製のペン立てが机から落ちて割れた音、もう一つはガラスケースのふたが開いて、中の武者人形の飾りものが一部落っこちた音だった。その他になぜかポリバケツがひっくり返って転がる音が聞こえた。山を切り開いた新興住宅地なので、おしなべて坂道になっているから、ひっくり返れば転がるのだ。

 やがて揺れは収まった。
 妻は悲鳴を一度上げただけで、後は声を出すことが出来なかった。
 息子は起きなかった。恐怖の中で目を覚ました状態を想像すると、目覚めなくて良かったと思う。近所の犬たちが咆吼を始めた。一通り鳴き終えると、どこかの犬がまた大きく叫び、それに反応してまたあちこちで犬が鳴いた。そういうことが何度となく繰り返された。

 すぐ階下から父親が飛んできて「大丈夫か」と叫んだが、「子供が目を覚ますから叫ばないでくれ」と僕は返事したように思う。
 まだこのときは、そんな大事とは思っていなかった。
 いままで体験したことのない大きな地震が来た、それだけだった。
 これだけ大きな地震だから、きっとココが震源なのだろう、とか、あるいは他に震源があるのなら、そこではどれほどの被害が出ているのだろうか、全く思いつきもしなかった。

 そうだ、きっと、余震がくる。
 どうするべきか。僕は動かないことを決心した。
 この寝室は少なくとも安全だ。本震で何も起こらなかった。このまま、幾度かの余震がすぎるのをまとう。そう決めた。前触れの地鳴りと、そして余震がやってきた。一度目の余震はそこそこ揺れた。しかし、恐怖を感じるほどの余震はこれっきりだった。
 僕は2階の居間(1階の居間は家族全員の居間で、2階のそれはぼくたち夫婦と子供達だけの居間になっている)に行き、テレビを付けた。
 早いもので、ニュースはもう地震の事を放送している。というより地震以外の話題はない。
 しかししばらく見ていると、たいした情報がないことに気がつく。

 画面上の地図に震度いくつという数字がついたりきえたりしており、情報自身が混乱しているのだ。 しかも、同じ映像が何度も放送される。
 NHKだったと思うけれど、オフィスに備え付けのカメラが捕らえた映像。突然画面が揺れだし、宿直だったのか泊まり込みだったのか、一人の男性がガバッと飛び起きて、どこかへダダダと走り去るシーン。そればかりである。
 アナウンサーの読む原稿も全く同じ事の繰り返しである。

 どうやら神戸沖かどこかが震源らしく、それならとサンテレビを見ることにした。

 サンテレビは神戸のU局である。このときもちろんサンテレビが壊滅的な被害を受けたことなど知らなかったし、マスコミ魂というのか、社員が正しい情報を放送することを前提に自分の目で状況を観察しながら、必死になって局へ向かっている途中だったと言うことも知る由もない。
 ただ、昨日のCNNニュースの再放送を流すだけの有様に、落胆しただけだった。


 家族全員が起き出し、なんかものすごかったなあなどと話し合いながら、とりあえず父と僕はテレビを見ながら出社の準備をする。
 電車はまず動いてないだろうけれど、とにかく駅へ行ってみると、僕は家族に告げた。
 電車が被害を受けているなどとは考えていなかった。鉄道の規則で点検後でないと電車が走らせられない、だからその点検が終わればすぐに電車が動くだろう、そのために駅で待機するのだ、そんな風に思っていた。
 徐々にテレビ局にも情報が入り始め、確か兵庫県南部地震という名前が付けられた。
 阪神淡路大震災という名前が主流になったのは数日後である。

  妻の実家が神戸市東灘区なので、とりあえず電話を入れてみるが通じない。
受話器をあげると色々な現象が起きた。電話回線の麻痺というのを初めて経験した。

 何の音もしないこともあれば、受話器をあげただけですでに話し中のプープーという音がしたり、正常な発信音が聞こえるのにダイヤルすると途中で切れたり、とにかくまともに通じない。
 我が家の被害は先に述べたとおりで、あとは食器棚の食器類が一定の隅に固まったりしてるぐらいだったが、ここ兵庫県三田市は、特に僕の家は、神戸市北区まで車でわずかで5分弱の距離である。
 電話回線的には被災地の中心とほぼ状況は同じだったのだろう。

 今頃になって、ピコ(シーズー犬)のことを思い出した。息子の皮膚の発疹がひどいので、犬アレルギーなのかもしれないということで、ピコに一部屋与え、息子にはこの部屋に入らないように言ってあったのだ。
 部屋をひとつ与えられてる上に、近所の犬の騒々しさなど全く無視して静かにしてるものだから、うちのピコは静かだったねなどと言いながら、部屋を開けて驚いた。
 失禁して、腰を抜かし、放心状態だった。あの小さな犬がよくこれだけの大量の小便をしたなと思った。小便の海の中で腰を抜かしている。小便だけではない。大便もだ。僕の顔を見たとたん、大声でほえた。よほどの恐怖心を抱いたのだろう。

 幸い我が家は停電しなかった。
 実は僕は停電が一番怖い。
 我が家は新興住宅地であり、色々な製品も最新のものが設置されているからだ。
 最新と言えば聞こえはいいが、要するに種々の安全装置が付いておりそれらが電気によって制御されていると言うことである。
 ガスがきてても電気が止まれば風呂も沸かせない、料理もできない。
 不便というよりも、水道水を煮沸できないことがどれだけ恐ろしいことか、想像してしまった。

 食事を終えて、ちょうどネクタイを締めかけていると、電話が鳴った。妻の実家からだった。

「えらいこっちゃ、家、潰れてもうたわ」
 さあ大変だ。この電話で初めて、この地震の大きさを実感することが出来た。
 電車どころじゃない。
 ようやく神戸の一部で震度6マークが付き始めていた。
 僕はラフな格好に着替えながら、ご飯を炊けるだけ炊いておにぎりを作るように母と妻にたのみ、そしてコンビニへ車を走らせた。
 飲み物を確保するためである。飲み物と言ってもおばあちゃんは紅茶が好きだとか、ジュース類の確保であって、水ではない。
 今日一日なんとかすれば、炊き出しが始まるだろう、各地から自衛隊や消防が集合し、水の配給を得られるだろう、そうタカをくくっていたのである。
 しかも車で神戸入りすることを前提に考えていた。これはとても愚かなことだったが、
まさかあのような渋滞が発生するなど想像を超えていた
 そしてこれも大きな誤りだったことを後で知るのだが、とにかく数日我が家へ身を寄せてもらって、それからどうするか考えたらいいじゃないか、だから今日はうちへ来て下さい、ご飯も水もありますから、こんな風に考えていた。この認識が誤りだったと知るにはまだまだ時間がかかる。

 支度を整え、家を出たのは、12時前だったと思う。
 現地には午後2時には着いていたはずだ。
 こんなに早く現地入りできた車はほとんどなかったと思う。
 ひとつには道路が無事だったこと、そしてもうひとつは三田から神戸へは北六甲有料道路が直結していたからである。この日は料金所に「無料開放」の張り紙があり、それが数日間続き、その後この道は神戸への車の進入をさせないために通行止めになった。
 それでも確信しているのだが、おそらくこのルートがもっとも困難なく、救援道路として使える道だったろう。
 だがほとんど使われなかった。
 三田へ来ることが出来ないからだ。
 大阪方面からの国道176号は1時間に数メートル動くかどうかという状況だし、中国自動車道は通れない。もし可能なルートを探すなら日本海に沿って大きく迂回するルートになる。
 しかし本当はまだ可能なルートがあったと思われる。
 京都から国道9号線で亀岡へ、そして372号線で篠山から古市へ、渋滞の激しい176をアンダークロスして、地方道を通れば三田へ難なく入れる。
 想像だけだが、この地方道は自分で走って確かめてあるので間違いない。
 当時僕がインターネットをしていたら、必要なところへこの情報が流せただろうと思う。
 さて、
震災当日の神戸の道路はどうだったか。
 僕と妻がついた段階では、まだひどくなかった。


 神戸は東西に延びる道路(2号線、47号線、山手幹線)などが主要道路で、南北に走る道路には優先権がない。
 だから南北に走る道路からこれら主要道路を横切るときなどは、一旦停止して車がとぎれるのを待たなくてはならない。
 待てば、横切ることが出来た。

 しかし、帰るとき(午後8時頃だったと思う)には、秩序を失っていた。
 全ての道路から車が交差点に進入しており、交差点内では車が団子状態で進退窮まっていた。
 信号が消えてるからしょうがないやんか、という気持ちでみんながのろのろと少しずつ進んでいたから良かったようなものの、もし誰かが叫んだりクラクションを鳴らしたりしたらパニック状態になり、喧嘩などが頻発したに違いなかった。
 
 とにかく全ての交差点がこんな団子状態だから、神戸市の外から神戸へ入ろうとする道が動くわけがないのだ。
 もちろん消防車も動かない。
 僕が六甲の山から見た神戸の町は深刻な火災に発展するとはとても思えなかった。
 煙の筋が5本程度立ち上っているだけで、すぐに消せそうな気がしたのだ。
 だが、帰路はに見た光景は異なり、鉄筋のビルの窓が全て落ちていて、その中で火がゴオゴオと揺れていた。
 話が前後するけれど、僕はこのあと一度だけ、神戸市内に車で乗り入れたことがある。
 3カ月ぐらいたったある日だったと思う。
 5ナンバーのワゴン車で、中古の毛布を満載していた。YMCAに届けるためである。
 だが42号線には入れなかった。積み荷の中身はどうでもいい、乗用車だからだめだ、ということなのだろうか。
 ならば4ナンバーのライトバンならよかったのだろうか。
 しかし市内にはいると、必ずしも交差点で車の進入制限が行われていない。
 乗用車もガンガン走っている。
 さらに後日、空撮した国道の車を分析すると、大多数の車が救援復旧等のための車だったとか。
 もし、行政も民間も含めて、横の連絡がきちんと取れていたら、JRが貨物列車を走らせていたら、混乱のほとんどは解消されていたかもしれない、とさへ思った。

 さて、たどり着いた妻の実家は、
1階部分がきれいに傾いており、ちょうど台形の形をしていた
 古い家で家財道具がたくさんありタンスなどが天井や梁を支えていた。
 これがなかったら天井が落ちて、1階の住人は下敷きになっていた。
 2階は床が波打っていたが、1階ほどは崩壊していなかった。
 家の中は色んなものが散乱してぐちゃぐちゃだった。石や瓦もあった。

どこがどう崩壊したのか見当もつかないが、空も見えた。
 何度も何度も揺すぶられるうちに色々なところが予想外の崩壊をしたのだろう。
 とても昨日まで普通に人々が営んできた場所には見えない。
 近所の家は、潰れているものもあれば立っているものもあった。
道路に亀裂が走り、亀裂の隙間から水が噴き出していた。
 ただし、トイレと風呂はきちんと立っていた。
 地震が来ても安全と小学校で確か習ったけれどその通りだった。

 妻の実家には、妻の両親と父親の両親、そして妻の弟が暮らしている。
 祖父だけが病身で伏せっていたが、後は
オロオロうろうろと何か作業をしていた。  瓦礫を集めたり、家の中に飛散したものを適当な入れ物に収納したり、今にも崩れそうな瓦をはがして地面に落としたり、それら作業が何を目的に行われているのか誰も理解していなかったし、それでそのまま生活できるようになるまでかたづける事が出来るわけなかった。
 何しろ今にも崩れよとばかり家は傾いているのだ。
 屋根を支える支柱となったタンスになにか重要書類が入っているらしく、父は低くなった天井の下に潜り込むようにしてタンスにたどり着き、必死に引き出しを引っぱり出そうとする。
 上からの圧力でもちろん開かない。母と祖母が危険だからやめてくれと叫ぶ。

 僕は会社に連絡を付けようと、何度か公衆電話にトライした。
 災害時は一般回線より公衆電話が優先されると聴いたことがある。
 もとより妻の実家の電話は死んでいた。実は親子電話になっており、2階の受話器がはずれっぱなしになっていたためだとわかったのは、数日後である。
 もう一回線ファックスを別にひいており、こちらは利用できるが、回線が込んでいて話にならない。
 公衆電話も瀕死の状態で、どうやら利用者が殺到し、コインが貯まりすぎているのも不調の原因のようだ。もちろん誰もコインを回収に来ない。
 がんがん叩いてどうやら詰まっているコインを突き崩し、それでやっと使えるようになる。
 しかし根本的に回線が麻痺していた。
 会社にはファックスの方で連絡が取れた。

 隣のスーパーマーケットはシャッターを閉ざしたままだったが、
近所のコンビニが在庫品放出を決めたと聞き、行ってみると長い行列。
 何を買っていいのかわからず、そのまま帰ってきた。


 地震発生から今まで誰もが飲まず食わずの状態であるらしかった。妻に言って、おにぎりなどを広げさせ、みんなに一休みして食べてくれるように頼み込むが、誰も手を付けない。
 時々誰かが何かを口にするものの、結局、食事タイムは実現しなかった。
 空腹や乾きを感じさせないほどの絶望というものが、この世には存在するのだ。


 はがれた戸板の上にけが人が乗せられ、それを数人が運んでいった。
 全て外国人だった。

 救急車がこれないのか、外国人だから相手にされなかったのか、どちらかわからない。
 近所の人の噂によると、119番にレスキューを依頼したら、「皆さんで力を合わせて何とかして下さい。こちらも動けないのです」との答えだったとか。

 日が暮れ、一瞬電気がついて、そして消えた。
 復旧の兆しかと思ったが、それ以降音沙汰なしだ。
 妻の弟に電気関係の友達がいて、「あれは何かの間違い」と言った。間違いで電気がつくのか? よくわからない。

 日が暮れると、急激に気温が下がってきた。
 いつ余震が来て家がさらに崩れるかも分からないし、とにかく今夜はみんなで我が家へ来てほしい、できれば落ち着くまで滞在してほしい、何度となく繰り返し説得し、ココで寝るんだ、でないと泥棒が来るかも知れないという父も含めて、移動が行われたのは午後8時をすぎていただろうか。
 確か、僕と父と弟の3台の車に別れて、時間も多少前後したけれど、地震のあったその夜、妻の家族は全員隣の市三田へ移動した。
 風呂も飯も水も暖房もある、隣の市へ。
 しかしこれは被災者の中では例外中の例外だっただろう。

 翌日、妻の父と弟は神戸に戻っていった。
 自営業を営んでおり、仕事の段取りを手配りする必要もあった。
 自宅兼事務所は崩壊したが、店舗を構えているわけではなく、注文を受けて注文先に出かけて行く業務であったため、仕事の量に変化はあっただろうが、仕事がなくなると言うことはなかったようである。
 話が前後するが、その後の様子を記しておく。
 父と弟は仕事を回してもらっている会社の地下倉庫などで寝泊まりしながら仕事を続け、一方、家の取り壊しは遅々として進まなかった。
 一部がれきを取り除いたところにプレハブ住宅を設置して、そこが生活の拠点となった。
 一軒家だったからできたことで、集合住宅だったらまだまだ不自由を強いられていただろう。
 水の配給や炊き出しもやがて不自由することなくなった。炊き出しを目当てに、浮浪者が集まってきた。ただそこにいるだけで清潔な食べ物に無料でありつけるのだから、浮浪者天国といえた。
 嘘のような話だが、今時風呂の燃料がマキだったので、風呂を沸かすことは出来るのだが、残念ながらそこまで大量の水はない。
 妻には二人の妹がいたが、一人は旦那の仕事の関係で南港の方に引っ越したばかりで無事、もう一人は立入禁止となったマンションをさっさと契約解除してお金を取り戻している。
 遅れに遅れて家の取り壊しが行われたのは年が変わってから。
 その間に痴呆症状がひどくなった祖父は入院。
 新築が決まり、その後、家は完成したものの、祖父が死んだために入居できなくなった。
 祖父が生きていればそのまま祖父の名義で住むことが出来たのだが、死んだために相続問題が発生した。
 祖父の土地はそのまま父の土地ではあり得ない。
 誰の土地か決まらないところに家が建てられた状態になり、法律的な解決を待つより他なかったのだ。
 現在は解決しており、新しい家で初めてのお正月を迎えた。
 地震以前からスクラップ&ビルトの話は進んでおり、それに併せて個人商店から有限会社化が計画されていたから、ここまでこれたのだろうけれど、先に地震が来ていたら、どうなっていたかわからない。

 さて、時間は戻って、
地震翌日の話である。
 ニュースなどでかなり被災の様子が伝わってきており、我が家でもただごとではなくなってきていた。
 物資の不足が深刻化しそうな気配である。
 父と弟は帰ったが、母と祖父母は我が家に滞在中である。
 食料が色々な店に新たに納品されるのはまだ時間がかかりそうだし、なんとかしなくては。
 とりあえず駅の様子を見に車ででかけた。途中で手作りパンの店があり、操業中であったから、パンを確保しておこうと店に入った。
 店頭には色々なパンが並んでいたけれど、
食パンは売り切れ。今、予約したら午後4時の仕上がりだという。
 こんな時だから菓子パンなど焼かずに、全て食パンに切り替えるべきだと思ったが、店だってこんな経験は初めてで、いつもどおり仕事をしていたにすぎないのだろう。
 予約をして予定通り駅へ。
 思った通りだが、鉄道に関しては情報らしい情報は手に入らなかった。
 そのかわり別の情報が手に入った。
 車での移動は自粛が呼びかけられていたが、まだそのニュアンスは深刻ではなかったように思う。動けるものは何らかの手段で神戸から外に向かって買い出しに出ており、谷上あたりではもう何もなく、三田の物資が消滅するのは時間の問題だと誰かが会話をしていた。
 さあ、大変だ。米も缶詰もあるし、水道も無事だし、何が必要だろうか。
 よく考えなくてはダメだ。皆が先を争って買いだめをはじめたら、パニックが起こる。パニックには巻き込まれたくなかったし、もちろんその発生原因の一因に自らなるなんてもってのほかだ。よく考えろ。
 そうだ、牛乳だ。

 スーパーを回ってみると、肉や野菜などは騒ぎ立てるほどのことはなかったが、牛乳だけが売り切れ。
 三田からさらに北上し、篠山まで足を延ばして、牛乳を買う。
 ここはいつもと変わらない品揃えだった。
 ただし、パンの棚が空っぽだった。
 火も水も使えないところでは、なるほどパンが主食になるだろう。
 あきれたことに休憩中の札を本来名札をつける位置にぶら下げていた制服姿の店員が、全てのパンを買いあさっていたのだった。
 確かに僕も牛乳を少し多めに買ったけれども、よく考えて、我が家に必要のないものは買わないようにしたつもりだ。
 かつての紙不足の教訓である。

 他に市場から消えていたのは乾電池とポリタンであった。
 その後に、紙おむつとか缶詰めとかカセットコンロとかボンベとか色々なものがなくなっていくのだが、篠山の様子を見たのはこのときだけである。
 薬は常備薬がある。我が家は被災地ではないから、薬の買い足しは不要だった。
 しかしおそらく不足物資の一つではあったろうと思う。
 戻ってからもう一度スーパーを覗くと、大量の牛乳が入荷していた。
 氷上牛乳というブランドで、なるほど兵庫県北部に氷上郡という地名がある。北から南への配送は可能なのである。
 そのかわり肉や野菜、果物と言ったものが大量になくなっていた。


 予約をしたパン屋に行き、食パンを買う。
 店員と客がもめていて、原因は食パンの品不足である。
 菓子パンは相変わらず棚に並んでいるが、客は殺気立っている。
 奧から出てきた食パンを抱えた僕は、その場を逃げ出した。殴られ奪われても何の不思議もない雰囲気だったのだ。


 数日が経ち、結局三田の物資はポリタン・カセットコンロ・乾電池などといった特定のもの以外は何ら深刻な状態にはならなかった。
 福知山線がいまだに広野−塚口間で開通せず、福知山まで車で送ってもらい、京都経由で出勤した。
 上司の家に泊めてもらうことになったその直後、宝塚−広野間が開通、阪急で宝塚へ出れば鉄道だけで三田−大阪間がつながったことになる。
 阪神間はまだぼろぼろである。具体的に何日かは記録も記憶もない。
 僕の勤務先は旅行代理店の資格を持っているが、アウトドアや旅行に関するものも売っており、ざっく類が飛ぶように売れる。
 スーツを着た人が「あるだけ全部」と持っていくこともあり、会社ぐるみで救援に向かうらしかった。
 話を聞くと、梅田(大阪駅と言う呼び方をするのは、JRだけで、大阪駅と接続する全ての私鉄・地下鉄の駅は「梅田」である)から順に、本町、心斎橋とザック類が消滅しており、難波でもアウトドアショップなどでは既に手にはいらなくなっている、とのことだった。うちの場合、旅行業の看板をあげていたおかげで、それまで人が殺到することがなかったのだ。

 その日、阪急梅田駅で宝塚行きの列に並んだ。普段3列で並ぶところを、4列に並んで下さいとアナウンスがあり、無用な混雑と混乱を避けようと駅員も必死だった。
 些細な工夫ではあるが高く評価している。
 宝塚から先のJRは電車の本数そのものが少なく、情けない状況だった。
 1時間に1または2本程度の仮ダイヤが駅に張ってあった。
 地震があったのが未明であり、現在の開通区間に留置されていた車両が少なく、やりくりできないのだと思う。
 線路構造を考えれば、車両と乗務員の手当さえ付けば、少なくとも宝塚と新三田の間は15分おきぐらいには走らせられる。

 しかしすぐに福知山線は全線開通、ほぼ同時に信じがたい事だが神戸電鉄が長田まで開通した。
 ひどい被害を受けたとされる長田区だが、その中心的な被害を受けた場所と駅がどのような位置関係なのか知らないのだけれど、長田まで電車で行けるとなれば、多くの人が殺到する。
 そして
JRと神戸電鉄をつなぐ三田は交通の要となり、駅前は騒然とした。
 JRはほぼ6両編成の電車が1時間に6本三田に着く。
 都合36両である。このほかに特急がある。
 これは大阪から来る電車であり、北からもやってくる。
 一方それを受ける神戸電鉄は4両が一時間に4本しかない。完全にキャパが不足しており、それ以上に切符の販売能力が劣っていて、あっという間に行列がのび、駅前を2往復以上していた。要するに普段の神戸電鉄は定期などの客が多く、しかも始発の三田で満員になることもない。駅にはとても入れないが、外から様子を見ると、電車はそれほど混雑していない。足下は見えないからわからないが、多くの物資が床に置かれていたに違いないけれど、外から見る限り、立席スペースはまだ十分にあるようだった。翌日かその次の日か、仮説の切符売り場のテントが駅前にたった。
 何日か経ち、JRに臨時列車が走り始める。ダイヤを変更しての快速列車運転(快速の後にすぐ快速を続行運転させ、普通列車は2本の快速を待たされる)はかなり有効で、それでもさばききれなかったけれども、落ち着いてきてからの減便体制で運行された普通はがらがらだった。これはダイヤを変更せずに増便したためで、普通の後にすぐ普通が走るようになっていた。
 もうひとつ、大阪−姫路の直通列車は時間帯が悪く、ほとんど誰も乗っていなかった。定期列車を多少犠牲にしても、昼間の時間帯に定期的に走らせなくては意味がなく、これではまるでポーズだけである。スーパーはくと型車両が運休しており、これを利用すれば、快適に移動できたはずである。非電化区間があるので、電車は走れないのだ。

 中国道がなんとか開通したその日、
大阪−姫路のバスが運行開始になったが、渋滞で結局一台も目的地にたどり着けず、その日のうちに運行中止、三田−姫路間の運行となった。
 中国ハイウエイバスも三田始発で運行を再開した。
 いずれもニュースにはほとんどならず、有効に活用されたかどうか疑問である。
 京阪神のニュースネタをひらうとき、宝塚までは圏内で、三田は圏外である。その慣例がこのような異常時であっても踏襲されており、マスコミと言うところは所詮そういうものなのだと認識しなくてはなるまい。

 JRが住吉まで開通したとき、僕と妻は共通の友人を見舞いに行った。
 なにもいらないという事なので、何ももって行かなかった。
 生活の場は神社だか寺だかの大きな板の間、信者が大勢集まるときにそこを使うのだろう、というような感じのところだった。
 小学校の講堂なみの広さである。
 何となく家族ごとに固まっている様子が分かるが、敷き布団や座布団が敷きっぱなしで、すさんだ雰囲気がする。板の間だし、何かを敷かなくてはならず、かたずける場所もない。友人がこの中にいるのかどうか、ザッと見渡す。同時に避難生活を送っている人たちからの視線集中を浴びた。室内が暗く、僕たちが開けた扉から外の明るい太陽の光が差し込んだから、一斉に人々の目が集中しただけだと思うが、まるで非難の視線を向けられているように思えた。いったい何をしに来たんだ、おまえに何が出来るんだ、と言われたような気がしたのは、自分には何もできないという負い目があったせいかもしれない。
 外に出ると、運良く友人のお父さんにお会いすることが出来た。
 木材で骨格を作り、ブルーシートを張り付けただけの、仮設テント小屋に招かれた。
 もとはどこかの家の駐車場だか駐車スペースだったような感じである。
 中央にドラム缶が置かれ、その中では廃材が燃えている。ドラム缶にかけられた巨大なやかんは煤で真っ黒になっていた。テントには入れ替わり立ち替わり色々な人がやってきて、わあわあと大声で話をしたり、情報交換をしたり、ものの交換が行われたりした。廃材はどこからともなく集まってきて、燃料に事欠かない。さっき室内で向けられた視線は、どことなく絶望感が漂っていたけれど、こうして屋外で動き回っている男たちは、生き生きとしており、少し救われる気分だった。
 やがて友人もやってきて、父親も含めて、やあよく来てくれたと、お茶やお菓子を出してくれる。
 いやもうどにもなれへんわ、むちゃくちゃやと言いながら、声のトーンは低くない。
 帰りには土産まで持たされた。クルミである。皮をむいて、袋に詰めてある。ごそごそとクルミが引っぱり出された段ボールには、まだいっぱいクルミの袋詰めがある。こんなにクルミばかりもらっても仕方ないんだよ、そういわれたような気がした。
 ジャンパーやら防寒着もいっぱいあるで、持って帰っていいで。
 いや、それはきっとこれから役に立つでしょうから、ちょっともらえませんよ。固辞してまた駅まで歩いた。
 後で知ったことだが、被災地へ救援やお見舞いに行った人たちの中には、逆にこうしてものをもらって帰ったことが少なくなかったらしい。
 とにかく何かしなくてはと色々なものが送られてきたが、それがどの程度被災地の生活に役に立ったのか、難しい問題だと思う。
 厳密に計算して準備して送っていたのではきっと手遅れになっただろうし、クルミはともかく、防寒着などは必要なところへきちんと分配されていたのかどうかもわからない。
 行政を批判するのはたやすいけれど、地元の行政だって被災者なのだから、混乱の度合いは外部のものには知る由もない。

 水がないと報道されれば、宅配便で水が届けられ、紙おむつがないとマスコミがいえば、紙おむつばかりが送られてきた。
 薬は山ほど倉庫に眠ったまま、配分されることなく、期限が切れたらしい。


 やがて仮設住宅が次々建てられた。
 いろいろな問題が本格的に起きてきたのは、この仮設住宅問題からだったのではないかと思う。
 一度に建てられる仮設住宅には限りがある。だから入居は抽選である。
 当たるかどうか、今日、雨風しのげる我が家を持たない人にとって、死活問題なのに、あっさりと抽選なのだ。そして、提供される仮設住宅の数が根本的に少ない。
 そしてもうひとつは、これらの情報をどのようにして得るのだろうと思う。ラジオか何かの情報を聞き逃したらそれでおしまいである。
 仮設住宅が建てられたら建てられたで、場所的な不便さが、クローズアップされた。
 しかしこのとき僕は、被災者のわがままに憤慨したものだ。今、場所がどうのこうのいっている場合か。多少不便であろうと何であろうと、多くの人と共同生活をする学校や公民館より、ずっといいではないか。「我が家」を確保し、生活を立て直すことがまず復興への第1歩ではないのか?
 そう思っていた僕は、被災にあった人たちの気持ちを全く理解していなかったのだということを、ようやくわかり始めたような気がする。
 何とかこの場に踏みとどまっていたい。そして、復興したい。復興とは、災害以前の状態に戻ることである。
 ここを離れてしまっては、それでもう終わりである。
 みんなそれをわかっていたのだ。混乱と混沌の中で、どうすれば復興できなくなるかを。
 元通りの、必ずしも平和ではなかったかもしれないけれど、ありふれた日常生活の中に戻りたい。時間とともにきっと戻れるだろう。

 
そして3年。一つの結論がでたと思う。
 元には戻れない。復興はあり得ない。僕はそう思う。
 元の町に戻ろうとしても戻れない人たち。戻ったとしても、そこには以前のコミュティーは存在しない。 そこには新しい町や村が作られるだけである。
 人間は、自然の驚異に服従し、順応しなくてはならないのだ。社会的生活を営んできた人間が、今度は何の社会的保証もえられないまま、自分の力だけで何とかしなくてはいけなくなっている。
 仮設住宅の根本的な不足から始まった仮設問題も、数が増えてもそれは解決しなかった。場所的な問題である。しかしやがてそうした仮設住宅の入居者が増え、そしていま、徐々に仮設住宅が撤去されていく。
 仮設住宅に残された社会的弱者は、何の保証もなく、明日からどうしていくのだろうか。
 僕は地震の直後から叫び続けてきた。
 こんな時のために僕は税金を払っているのだと。


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