このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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秋山 欣也

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私は戦争を知らない戦後生まれ世代である。
 戦争との直接の接点は、何もない。祖父・父母の話を通してのものだけである。

 ビルマから生還してきた父たちは、家族が何とか食えるようになると、生きて帰還出来なかった戦友たちの慰霊祭・「ビルマ七三会」を始めた。

 私が高一の時父はガンで死んだ。以後、母を連れて慰霊祭に参加し、父の多くの戦友の方々の話を父の代わりに聞いた。

 赤紙一枚で集められ、偶然同じ部隊になったというだけの父の戦友の方々に、言い表せないお世話になった。

 その「ビルマ七三会」も、平成五年・三十五回目の靖国神社での慰霊祭が最後となった。
 「命のある限り、慰霊祭を続けると約束したが、歳には勝てない。一同に集まる事は出来ないが、今後は一人一人、友の慰霊を守っていく」  九十に近い老人たちが無き戦友に涙で別れを告げていた。
 八十になった母を伴って私も参列した。昨年、母も逝った。

 靖国の帰り道、東名高速道から見えた富士山が忘れられない思い出になった。
 「富士山に登った事がない」
 そう言う母に、急ぐ旅でないからと、車を回して五合目まで登った。
 杖を突き、大山を背景に笑顔を見せる母の姿が今も、時を巻き戻してくれる。

 「ビルマ七三会」同会の会報「どりあん」のことはいずれ又の機会に書き残したい。

 そんな私が偶然二人の老人にあった。浦和市に住む中村嘉一郎さんと朝霞市の高橋秀雄さんである。
 二人は同郷の戦友同士で、シベリア抑留経験者であった。

 戦中の話は父の様を思い浮かばせ懐かしく聞く事が出来た。

 だが、彼ら二人の話を聞き進んでいるうちに、彼らの戦争体験の中に、不可解きわまる背景が見えてきた。

 一:ソ連による日本兵のシベリア抑留が、ポツダム宣言の裏で日本政府了解の元で行われた事。

 二:捕虜となった抑留者たちは、黒海やモスクワ近くまで運ばれていたこと。  

 三:ソ連による北海道分割占領の代償として捕虜生活を送っていた人たちを、戦後の日本政府は軍人恩給の対象に含めていないこと。

 四:極寒を耐え忍んで帰ってきた人たちを当時の多くの人たちが「赤狩り」の対象にされたこと。

 南洋戦線で熱病・毒蛇・飢餓と闘ってきた父たち・極寒の寒さを耐えてきた彼らの言葉には、戦争の非人間性をひしひしと思い起こさせる。

 その最中にあって、同胞と助け合い、また現地の人たちの温情をいつまでも大事にする人間性を聞くにつれ、ホッとさせられるものがある。

 しかし、日本人が日本人同胞を切り捨てるようなことが、戦前の軍国主義の時代でなく、戦後の新政府の下で行われてきたことに、言い尽くせない憤りを感じる。

 「戦後はまだ終わっていない」
 「戦争処理の不手際」

 多くの問題が他にも多くあるが、このシベリア抑留者に対する処遇には同じ日本人として恥ずかしい限りである。

 五十年、戦争経験者の近くにいたはずの私が、このことは全く知らなかった。さらに多くの若者も私と同じく、知るすべを持たないと思う。
 民族主義・日本人の誇りを考える時、同胞が同胞に何をしてきたかを考える必要がある。沖縄の惨劇もしかりである。

 このホームページが少しでも多くの人に、日本人としての自覚の発端にして欲しいと思う。

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