このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

入隊より帰還までの経路

中村嘉一郎

トップページ


一九四四年(昭和十九年)十二月九日
 入隊の前日、勤め先の日本車輌ワラビ工場の皆さんに別れの挨拶をして、ワラビの駅まで日の丸の旗を振り軍歌で送られ、ワラビの駅前は日本車輌の人の群れ、車窓より手を振り、再会出来ることを祈り別れる。

 翌日十二月十日、晴れ。内谷氷川神社に戦勝と無事に帰還出来ることを祈願し、親族・村の方々に挨拶をし、浦和の駅まで軍歌で送られ、浦和駅より親族・友人に世田谷の東部十二部隊まで送られ営門にて別れる。

 一九四四年(昭和十九年)一二月十日
 世田谷東部十二部隊に仮入隊となり、八日間戦地入りの準備をする。

 一九四四年(昭和一九年)十二月十八日 晴れ
 午後十時東部十二部隊を後に出発。出発に当たり上官より無言で靴の音を立てる事禁ず、との命令。
品川駅に到着。品川駅より輸送列車にて出発。行き先は不明。
車窓は鎧戸が下ろされ外は見る事も出来ず秘密。

 一九四四年(昭和十九年)十二月十九日
 早朝、関釜連絡船にて日本を出発。同日夕刻、朝鮮釜山に入港する。同日釜山より満州を通過、北支(中国)に向かう。

 一九四四年(昭和十九年)十二月二十三日
 華北河南省済源着
 第一一七師団八八旅団独立歩兵三九一大隊教育隊に入る。
   大隊長・西本弥太郎大尉
   中隊長・成島中尉
   小隊長・斉藤少尉
     北支派遣(弘)一五六二八部隊に属す。

 一期(三ヶ月)樽弾筒の弾薬手の教育を受ける。完全軍装十五Kgを身に付け毎日の演習である。
 一期(三ヶ月)衛生兵の教育を受ける。

 大隊より十一名衛生兵の教育を受ける命令が下がり、大隊長に、代表して私達十一名衛生兵の教育を受けて参ります、との報告し大隊を後に引率して行く途中、私と同じ会社(日本車輌)の池田さんと出会い、「池田さん」と声を掛けると驚いて「おぉー」と一言。
日本の何倍も広い中国で出会うとは夢にも思って居なかった。
聞けば会社の出張で今日日本に帰るとの事。

 「良かった。実は私、衛生兵になるのでその旨家に伝えてください」とお願いし、手を振り別れた。

 夕方○○駅に着き、夜行列車にて朝、新郷の駅にて下車、新郷陸軍病院の営門に入る。
次々と各大隊の同年兵が入ってくる。
よく見るとその中に戸田市美女木の小泉君が居り、肩を叩いて「小泉君、お前も衛生兵の教育を受けに来たのか。俺もだ」と喜び合った。

 その日より毎日午前中の学科は二人並んで三ヶ月の教育を受けた。
 午後は死亡した戦友の解剖、人体構造の試験、包帯術、止血、練習、軍事訓練。三ヶ月の教育が終わり中隊に復帰した。

 一五六二八部隊の懐慶療養所(伝病棟)勤務命令を受ける。敷地は広く千五百坪も有り、建物は五棟、現地人の家である。
 先輩の話によると、地下一階より幽霊が出るとの話、早速現場に案内してもらった。地下室の中は荒れ果て、家具や布団が散乱して居る。
 不思議に思い聞くと、中国人を地下室に入れ大量に殺したためとの事。

その日より夜は患者の水枕の交換の為、井戸に行くには幽霊の出るという前を通る勤務であった。

 一九四五年(昭和弐拾年)六月二十日
 旧満州国境(山海関)通過。

 七月六日
 龍江省開通県開通着。開通の師団医務室勤務の命を受ける。
 師団司令部に着くや銃を持った二人の衛兵が門に立って居る。用件を申し、門に入る。軍を指揮する所であり立派な建物である医務室も内地の病院以上に整備されている。今日よりの勤務である。

 ある日偶然、内地で知った浦和市西堀の鈴木君と合う。聞けば師団の無線兵との事。又ある日共に教育を受けた戸田市の長谷川君と会う。
 「長谷川かぁ」と声を掛けるとやはり長谷川君であった。聞けば下痢の為入院との事、私が看護してやったか、今記憶にない。

 ある日、軍事訓練を行うとの事。それはソ連軍の戦車を爆発する訓練である。私はなぜそんな訓練をするのか疑問であった。
 ダイナマイトの代わりに煉瓦を首より白い布で吊り、戦車に飛び込む事、自らを犠牲にする訓練である。なぜソ連軍と戦うのか?大変な時が来たと感じた。

 幾日かして開通発の命令が下る。

 一九四五年(昭和二十年)八月十二日
 開通発、龍江省□?南着二日間□?南に滞在し、八月十四日□?南出発行軍して奉□着、奉□にて昼食の為飯盒を持ち満鉄の職員の家で飯を炊いて貰い帰ろうとした時、「兵隊さん、今ラジオで重大ニュースがあるというので聞いて行きなさい」との事。何事かと思い聞くと、天皇よりの終戦詔勅である。
 (敗戦)

 大隊に戻ると全員広場に集合され、大隊長より「諸君、戦争は終わった。諸君の中で満州に知人・親戚の居る者は自由行動を許す」との事。
 「但し本官と行動を共にする者は、本官に従い…」との訓示が終わり、同日奉□より雨の中、無蓋車にて八月十五日、吉林省懐徳県公主嶺に着く。

 一九四五年(昭和二十年)八月二十日
 公主嶺の飛行場に於いてソ連兵の命令により武装解除となる。
 我々は戦争は勝つ事と信じてきた。なぜ負けたのか、戦地の私達は突然の事で唖然とした。今までの苦労は全て水の泡となりぬ。

 一九四五年(昭和二十年)十月二日
 丸腰となった我々は、公主嶺を出発、ソ満国境着。そこで一ヶ月滞在した。
 日本に帰る為船の都合と、皆思って居った。ところが黒竜江の凍るのを待つ事であった。

 一九四五年(昭和二十年)十月三十日
 ソ満国境を出発、滑らぬよう軍靴に縄を巻き黒竜江を歩いて渡る事になった。ソ連行きである。渡る途中、黒竜江の真ん中で大便した事は今でも覚えている。
 抑留生活に入る 。

 一九四五年(昭和二十年)十二月一日
 零下六十度、六十年来の寒さというシベリアに着く。チュレンホーボ・第六ラーゲル(収容所)に送られる。
 一面雪の原、その中に千五百人を収容する幕舎が有り、鉄線で囲まれている。惨めさを私は感じた。

 まず入るや私物の検査。私物は目の前に並べされ、ソ連兵は欲しい物は全て取る。
 一番喜ぶのは万年筆と腕時計である。彼らは私物目的の検査であるように感じた。

 点呼が終わり幕舎の中に入る。土間に藁布団一枚、毛布二枚が一人分。ストーブが幕舎の中に一個。四年間そのような所で生活するとは夢にも思っていなかった。


収容所に於いての作業内容

  ・コルホーズ(国営農場)
  ・鉄道建設
  ・大工仕事
  ・穴掘り
  ・煉瓦焼き
  ・地下炭坑作業
  ・下水道工事
  ・左官仕事
  ・石炭の露天掘り
  ・貨車の木材積み下ろし作業
  ・医務室勤務
  ・作業班付きの衛生兵

 殆どが飢餓と酷寒の中での強制労働である。

 一九四九年(昭和二十四年)八月九日
 四年間の永い抑留生活が終わり、チュレンホーボ・第六収容所を出発

 一九四九年(昭和二十四年)八月十三日
 ナホトカ着。約一ヶ月滞在する。

 一九四九年(昭和二十四年)九月十五日
 ナホトカ出発に当たり二千人を前にソ連の将校よりの注意事項が日本の通訳により発表された。

 内容はソ連の金、ソ連の女性の写真を持っている物はソ連に未練がある者として残って戴くとの事。
皆隠し持っていた金(ルーブル)写真は砂浜に埋め始める。私も帰りたい一心で三十ルーブルの金を埋める事にした。 二千人の埋めた金は膨大な金であったろう。

 身体検査が終わり上船、三日間の航海、昼は戦友の住所調べ、夜は甲板に出て月を見ながらの行水。ソ連の抑留生活を思うと天国であった。

 十七日早朝甲板より日本が見えるとの知らせがあり甲板に出ると、人・人・人で埋まってしまった。安心したのか座り込む者もいた。

 一九四九年(昭和二十四年)九月十八日
 日本・舞鶴に上陸する。駅には襷を掛けた婦人会の方、一般の方々がお茶の接待をし、歓迎して下さった。三日間舞鶴にて持ち物の検査、入浴、消毒、衣類の交換が終わり、一金二千円を渡され、大金を持ったと思ったが、あっという間に二千円は無くなり日本の物価の高いのに驚いた。残金一銭も無し。

 一九四九年(昭和二十四年)九月二十二日
 舞鶴発

 九月二十三日午前十一時
 浦和駅着。駅には水村信夫さんが迎えに来ていて下さった。
 当時は自家用車もなく水村さんの自転車の後に乗り我が家に帰る。家には母・隣組の方・戦友が喜んで迎えて下さった。
 後で気付いたが私服で警官が私の家に時々様子を見に来た事を知った。
 言論の自由という政府は戦争を反対した日本共産党をなぜに警戒するのか理解に苦しんだ。


 ソ連より帰還の時持ち帰った所持品

▼飯盒 昭和十九年北支第一線戦地よりソ連抑留期間中四年間(昭和二十四年)迄使用せし飯盒なり。
▼水筒 昭和十九年北支第一線戦地よりソ連抑留期間中四年間(昭和二十四年)迄使用せし水筒なり。
▼手造りスプーン 昭和二十年ソ連抑留中作業所に於いてアルミ線の屑を拾い、スプーンの型を土に掘り、アルミを溶かし流し入れ自分で作ったスプーンなり。
▼雑のう□? 昭和十九年北支第一線戦地よりソ連抑留期間中四年間(昭和二十四年)迄使用せし雑のう□なり。
▼ソ連製スプーン 昭和二十三年頃ソ連側より捕虜に与えたスプーンなり。
▼財布(手製) ソ連抑留中に使用せし財布なり
▼煙草入れ ソ連抑留中煙草(マホルカ)入れとして使用せし物なり。作り方は戦友・岡野曹長なり。
▼褌(ふんどし) ソ連抑留中より帰国迄使用せし褌にして帰国途中バイカル湖で洗濯せし物なり。
▼ソ連製作業ズボン 昭和二十四年ソ連に於いて作業に着用せしズボンなり。
▼ソ連製手帳
▼ソ連製歯磨き粉
▼ソ連製煙草の空箱
▼ソ連で使用せし手造り手帳

トップページ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください