このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「こんな時代もありました」

塗工  中村嘉一郎

(昭和三十八年五月十五日)

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私は昭和十九年十二月に応召し、その月末に北支に渡った。

北支で転戦した我が部隊は、翌二十年八月初旬済南を出発して満州に向かった。
八月十五日午前一時頃、部隊は公主嶺に着いた。

正午内地からのラジオ放送で終戦を知った。官舎にいた日本人たちは口々に「兵隊さん、どうしたらいいんでしょう」と言って、ただ泣くばかりであった。もちろん我々としても、どうすることも出来なかった。

やがて集合命令が下り、部隊長から訓示があったが、それは実に悲しいものであった。
部隊長は我々に向かって、「今日以後の行動は自由にする。満州に親戚か知人のいる人はそこへ行ってよろしい。又日本に帰りたい人は、自由に帰ってよろしい」とのことであった。
我々は全く途方にくれてしまった。その日我々は日本人の経営する工場(ガマの穂から綿をとる工場)に行って、ここで泊まることにした。

終戦と同時に満人の暴動が起こり、日本人と見ると棒で殴り、石を投げる。その上日本人の家屋に侵入して暴行・略奪の限りを尽くした。

官舎の中では血に染まって虐殺されたもの、外で電柱に縛り付けられて殺されたものなどあって、悲惨を極めた。こんな不安な日がおよそ二ヶ月位続いた。

主戦の翌日、ソ連軍の大型戦車が兵員を満載して進駐してきた。そして我々に武器の引き渡しを要求した。我々は剣の刃はつぶし、小銃は撃径先頭をすり減らし、使用不能にして引き渡した。これから我々の捕虜生活が始まった。

公主嶺を出発した我が部隊は、黒竜江の氷の上を徒歩で渡り、チレンホーボというところまで汽車で行った。

シベリヤの冬は早く、一面の雪の荒野を、ソ連兵に引率されて広い幕舎に収容された。直ちに身体検査を受け、持ち物一切を没収された。ここに収容されたものは二千人位だった。

翌日はソ連の軍医によって健康診断があった。体格によってABCの三階級に分けられ、体格の貧弱なC級は管内勤務、B級は軽作業(大工、鉄路の除雪作業、木材の運搬)A級は炭坑(石炭)作業を命ぜられた。

私はB級だったので大工仕事をさせられた。

食事は朝はスープ(大豆・高梁・粟のかゆ)とパンが三百g(A級は五百g)で、昼はスープだけ、もちろんこれだけでは足らないので、アカザ・タンポポなど、およそ食べられるものはスープと煮て食べた。

夜はスープとパン三百g、こんな状態だったから、栄養失調と寒さの為、死んでいくものが一日平均二・三人いた。死骸は収容所の裏の小高い丘に、穴を掘ってそこに埋葬した。この穴掘りが大変だった。

1m四方の穴を掘るのに、冬は二日くらいかかった。大地はコンクリートのように凍っているので、火を燃やし、氷をとかしながらの穴掘りだった。

とにかく捕虜にとって切実な問題は食糧だった。炊事場で捨てた生ニシンの卵(数の子)を拾ってきて洗って食べたり、時には牛の骨を拾ってきて、それをストーブの上で焼いて食べる者もあった。

又われわれは持ち物をシベリア人と密かに食料と交換したこともあった。
例えば一ヶ月に一ケづつ支給される石けんを、パンや煙草と交換した。将校の長靴はシベリヤ人が最も欲しがり、二キロパン二本と交換した。時計も彼らに好まれ、盛んに交換された。そのため日本に帰還した時は、誰一人時計を持っているものはいなかった。

給与は大工班の人で一ヶ月二十四〜五ルーブル(パン二キロが六ルーブル、煙草二十本入一箱二ルーブル)であった。

シベリヤは囚人の抑留地であるから、囚人や刑期を終わった人が多い。男子の囚人は胸に鷹や錨の絵が刺青してあり女囚は手の甲や手首に名前や生年月日を刺青してあるからすぐ分かった。

後で聞いたことだが、ソ連では食料や家畜を盗んだ者の刑罰は比較的重いということである。それは食料を盗むことは、その人の生命を脅かすことになるからだという。

われわれも空腹の時は、馬鈴薯など畑から盗んだが警官はそれを見ていても、ただ笑って見逃してくれたが、補償に見つかると大変だった。捕虜に対して警察権は管轄外だった。

最後に私が一番胸を打たれた話をしましょう。
私達が下水の土管の埋込工事に行った時のこと、私達が夕方作業を終え、**をあづける倉庫に、年の頃六十五〜六の老婆が、倉庫番としてつとめていた。この老婆には一人息子がいたそうだが、今は何処へ行ったか行方も分からず、音信さえないとのことであった。

私達はこの老婆と次第に親しくなり、そのうち毎日昼食を作ってくれるようになった。自分の息子のことを思い、遠く異国の空の下で働く私達に同情してくれたのでしょう。人情の機微には国境はないとつくづく思った。 私が内地へ帰還すると聞いて、この老婆は私に選別として五ルーブルくれた。

その後何の便りも出来なかったが、この人は今はどうしているのだろう。


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