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引き揚げ時に舞鶴で頂いた励ましの葉書
五四年ぶりに小学生に戻る。
一九五四年、引き揚げ直後、引き揚げ港舞鶴の小学生たちが、
シベリアからの引き揚げ者に書き送った葉書。
引き揚げ者の皆様へ
引き上げの皆様、永らくご苦労様でした。
あの寒い寒いシベリアで四度(の冬)を
過ごしてこられたことを思いますと
私たちはまだまだ幸福です。
皆様の帰られるのを楽しみに待っています。
皆様もおからだをだいじにしてください。
そして日本のためみんなのためにつくしてください。
それではお元気でお帰り下さい。
さようなら。
舞鶴市立倉梯小学校 六−四
徳井 芳子
(京都新聞・平成十五年十月二十五日)
「家族の皆様にお元気なお顔を」
舞鶴引き揚げ者を励ました葉書が、五十四年ぶりに筆者の元に届いた
終戦後の一九四九年、海外から舞鶴に引き揚げてきた人にあてて、
小学生が真心こめて書いた激励のはがきが、五十四年ぶりに本人のところへ戻ってきた。
受け取った埼玉県の男性が長い間、心の支えにしてきたが、
「はがきは書いた人の思い出にした方がいい」と、礼状を添えて送ってきた。
はがきを書いた舞鶴市常の森下芳子さん(六六)は「長い間、大切にしてもらって感激です」と喜ぶ。
薄茶色のはがきには、当時、同市倉梯小六年だった森下(旧姓・徳井)さんの字で、
両面とも鉛筆で丁寧に記されている。
表には「引揚者の皆様へ」というあて名と、自分の学校や名前、
裏には「寒いシベリアで四度(の冬)をすごしてこられたことを思ひますと私たちはまだまだ幸福です」
など書いてある。
「家族の皆様にお元気なお顔を見せてあげて下さい」とも。
はがきは四九年九月、旧陸軍の兵士だった中村嘉一郎さん(七八)=さいたま市南区=が、
シベリアで約四年の抑留生活を経て舞鶴港に着き、舞鶴引揚援護局の寮に四日間滞在中に受け取った。
大切に持ち帰って、自宅の床の間の戸棚にお守りのように入れ、仕事でつらい時など、読み返して心の支えにした。
中村さんは「はがきの主は、私たちのことをとても心配してくれて、感動した」と、今も涙ぐむ。
倉梯小の山田雅子校長を通じて、はがきを手にした森下さんは
「どんな手順で届けたか覚えていませんが、クラスのみんなで書いたのでしょう。
ご苦労様でした、という気持ちでした」と話す。
舞鶴港は四五年十月から十三年間にわたって、海外から六十六万人余を迎え、
戦後復興のスタートラインとなったところ。
山田校長は「はがきを校内で展示して、人と人のつながりの大切さを、児頚に伝えたい」と話す。
半世紀ぶりに届いた、二度目の葉書。
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