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「聖戦」の碑に思い交錯

寄付呼び掛けられ「ピンとこない」
知らぬ間に「ひめゆり」刻まれた
  [朝日新聞・2000/8/15]
 金沢市の石川護国神社に今月四日、「大東亜聖戦人碑」と刻まれた高さ十二mの石碑が建った。アジア各地を侵略した人平洋戦争を「聖戦」と銘打つ碑はほとんど例がない。建立を呼びかけた元軍人らは、この二文字にこたわった。この言葉に、一歩引いた人たちもいた。敗戦から五十五年たった夏。賛否が渦巻く光景が生まれた。
 石碑は、御影石が積み上げられ、最上部には日の丸をイメージした赤みがかった石盤がはめ込まれている。事葉費は一億円を超えたという。
 関東軍作戦参謀たった草地貞吾さん(96)と、地元の会社社長の中田清康さん(七七)が中心となって、一九九六年末、建立委員会をつくって募金を呼びかけた。草地さんは、シベリア抑留経験者でつくる「朔北会」の会長。中田さんもシベリア抑留経験がある。
 建立委員会には、戦者らが名前を連ねた。
 草地さんは「あの戦争でアジアが解放された。まさに聖戦という名にふさわしい」。「聖戦と銘記しなければ、戦没者はいつまでたっても犬死にだ」と中田さんは言う。
 戦友会や遺族会など四百近い団体と約二千三百人からは、八千万円以上の寄付が集まった。中田さんも約四千万円を出した。
 草地さんによると、当初は東京・九段の靖国神社や皇居前広場への建立を希望していた。しかし「今の時代じゃ、そううまくはいかない」と、中田さんと知り合いの石川護国神社の鏑本芳樹宮司(六七)に依頼した。
 神社の責任役員会は、満場一致で受け人れを決めた。
 鏑本宮司は言う。
 「私自身も二度と戦争はご免で、美化するつもりはない。こんな呼び方をなぜするのか、若い人たちが考えるきっかけになってくれればいい」
   ■
 寄付を呼びかけられた人たちには戸惑いもあった。
 石川県軍恩連盟のうち寄付に応じた支部は半分以下だった。斉藤農夫副会長(八四)は「私自身は銘文に違和感はないが、三人寄れば三通りの意見が出る話。有志がする形を取取った」と説明する。
 石川県遺族連合会も一部の支部を除き、組織としての寄付は見送った。父親を沖縄戦で亡くした福田政博さん(六四)は「当時国民学校
の低学年だった私には、聖戦と言う表現はピンとこない」と語る。
 農水相時代に靖国神社に参拝した中川昭一衆院議員は、寄付を見送った。「聖戦はちょっと……。アジア地域の人々のことを考えると、そういうわけにはいかないでしよう」
   ■
 碑には、寄付をしたとされる団体や個人名なども刻まれている。戦友会などに交じって「少女ひめゆり学徒隊」「少年鉄血勤皇隊」とある。
 「なぜ、そこに名前があるのでしょうか」
 ひめゆり学徒隊の生存者の一人、石川幸子さん(七五)は驚きの声をあげた。元メンバーたちが寄付を決定したことはないという。沖縄師範学校女子部の生徒だった学徒隊は軍の看護要員として動員され、約二百二十人の半数以上が犠牲になった。
 沖縄師範学校時代に鉄血勤王隊の一員として戦場にかり出された太田昌秀・前沖縄県知事も知らなかった。
「だれがやったのか分からないが、名前を使われたのは納得できない。あの戦争が侵略戦争だったことは、まぎれもない歴史的な事実だ」
 中田さんによると、沖縄の関係者を通じて両団体名で寄付を受けたという。



 「アジア解敗の 聖戦でしたか」[朝日新聞・2000/8/18]
   無職竹中優子 (東京都千代田区 72歳)

「大東亜聖戦大碑」が金沢市に建立された。建立委員会の中心となった元関東軍参謀にお尋ねしたいのです。参謀ならば、関東軍の行為に責任があるはずです。思い出して下さい、五十余年前に何を思い、どう行動したのかを。敗戦を知った関東軍は、足手まといになる一般日本人を見捨てて、逃げ出したのではありませんか。多敗の戦争孤児を生んだ大きな一因でした。
 戦争に駆り出され、家族への思いを抱いて死んでいった人々は、「聖戦」と名付けられれば恨みが晴れるのでしょうか。逆らうことの出来ない 国民が、生命を失ったのは戦地でだけではありません。沖縄を、サイパン島を思って下さい。一般人の死は、日本軍の命令によるものでした。
 原爆や空襲で死んだ人々も「聖戦」と呼べば無意味な犠牲ではなくなるのですか。私の身内や友人の死は、日本の民主化、世界平和の礎だったと思います。戦争美化の「聖戦」とされては犬死にです。
 アジア解敗の「聖戦」ならば、植民地だった朝鮮、台湾を解放しなかったのは、なぜですか。解放してあげたはずのアジア諸国にこそ、建立の募金を呼びかけ、意見を求めるべきだったと思いますが。



「開拓義勇軍の記念施設なぜ」
   会社員 黒澤 仁 (千葉県柏市 66歳)[朝日新聞・2000/8/16]

 私の社会人第一歩ぱ、船舶通信士たった。先輩の乗組員たちから出身地を尋ねられると、何のためらいもなく、「満蒙開拓義勇軍訓練所があった茨誠県の内原です」と答えたものたった。一九五三、四年ごろのことである。
 その後、中国東北部(旧満州)に取り残された日本人残留孤児の問題が話題になる度に、満蒙開拓義勇軍訓練所の存在と重なり、複雑な心境になった。あの敗戦時、関東軍に見放され、満州の地をさまよった揚げ句に家族と離ればなれになり、置き去りにされた悲劇は、すべて私の郷里、内原の訓練所に起源を発するのではあるまいか、と考えるようになったからである。
 本紙に載った「満蒙開拓義勇軍の訓練所跡に資料館建設」の記事に、思わす首をかしげた。「足跡は残したい」と希望する訓練所OBたちの思いとは、一体どんな思いなのだろうか、と。
 当時の国を思う純真な青少年の行動が、結果として、隣国への侵略行為に加担してしまったという歴史への反省、残留孤児の悲劇として、次の世紀に語り継ぐ意味の資料館ならば、それなりの意義もあるだろう。しかし、OBたちの単なる回顧趣味を満たすだけの発想なら、時代錯誤と言われても仕方ないだろう。



「無念分かれば参拝できぬ」
   元特攻隊員 信太正道さん (神奈川県 74歳)[赤旗新聞]

 神奈川在住の元特攻隊員、信太正道さんは13日夜、帰宅後に妻から小泉首相の靖国神社参拝を知らされた。  首相の「いやなことがあると特攻隊の気持ちになれと(自分に)言い聞かせる」という言葉に違和感を覚えてきた。首相が特攻隊員の無念さを本当に分かっていれば参拝しなかったはずではないか」と感じた。  海軍兵学校を卒業し、45年7月、同期200人の中から信太さんら36人が特攻隊に指名された。選ばれた者は青ざめ、外れた仲間は安堵で顔を紅潮させた  出撃を控えて遺書を書いた。上司から「(兵学校の)教育参考館に飾るから、しっかり書け」と言われ「お国のために行きます」と書いてしまった自分が情けなかった。  出撃基地に向かう途中、敗戦を迎えた。復員直後、弟に「ばかな戦争をした」と批判され、取っ組み合いのけんかをした。だから、肉親の戦死を「犬死に」と言われると反発する遺族の心情も分かるつもりだ。  でも戦死を美化してはならないと自分に言い聞かせる。  「もう二度と参拝しないでほしい」と首相に手紙を書くつもりだ。


「戦後処理なお重く・平和へ執念の活動・戦傷の体にムチ打って」
   元少年特攻兵 三浦清重さん (川口市)[朝日新聞・S58/8/14]

  「政治とは、いつも不安定きわまりない要素を持っている。核戦争の悲劇を二度と操り返さぬため、中曽根首相はじめ、世界の元首の間違いのない政治を祈り続ける毎日です」
 川口市朝日三丁目 三浦清重さんは、終戦の年、人間魚雷の特故基地で起きた大爆発で負った傷の痛みと今なお戦っている。脳皮質萎縮による四肢まひと傷害を持ちながら、いまだに所属部隊の証明が出来ず、恩給も受けられずにいる。
 「私にとって戦争はむなしいの一語に尽きる」
 と、伝道活動のかたわら、身障者の自立のため車いすでかけ回っている。
 島根県三隅町の生まれ。四人兄弟の長男で家は貧しかった。昭和一六年、尋常高等小学校二年の時、太平洋戦争に突入。敗戟色が濃くなった十九年、視力と聴力が抜群だったことから、防空監視隊に引き技かれた。大村湾にB29が近づくのを耳と目で察知するのが役目。十五歳の春のことだ。
 秋になると、郷里に志願兵の割り当てがきた。海軍飛行兵になった。逆立ちでグラウンドを一周したり、高速回転するいすを急に止められ、真っすぐ歩かされたり……。てこずると、海軍精神注入棒でなぐられた。
 ニ十年二月、愛知県知多郡の第一海軍航空隊に入隊、間もなく「特攻」隊員に。
 「君は優秀だ」とおだてておきながら、虫けら同然に扱われた。
 規則に従わないと「貴様、天皇陛下にたてつくのか」と打ちのめされた。
 二階級特進、三階級特進をちらつかせ、「栄誉ある仕事を渡す」が上官の殺し文句だった」
 つらかった十六歳をふり返る。
 二十年春、高知県住吉海岸の震洋特攻隊嵐部隊に整備兵として配属された。与えられた任務は、船首に三百五十㌔爆弾を付けたベニヤ板製のボートで敵艦に体当たりすることだった。
 終戦の翌日のの同年八月十六日夜、原因不明の事故が発生した。
「敵艦土佐沖に現る」直ちに撃破せよ」の命令で、出撃準備中のボートが次々に爆発、二百人の隊員中、百十一人が爆死した。三浦さんは至近距離で吹き飛ばされたが、九死に一生を得た。
 「火柱が何本も見える中で、松の木のてっぺんを鳥のように飛んでいたような気がする」。
 事故に対する唯一の記憶だ。全身打撲で全身やけど。近くの農家で手当ては受けたものの、意識不明がニカ月も続いた。所属部隊に送り居けてもらうと、残務整理中の男が言った。
 「戦争は終わったよ。故郷へお帰りよ」
 高熱と痛みを押し、松葉づえを頼りに郷里を目指す。台風に遭い、原爆投下直後の広島では地獄の惨状を見た。愛国婦人会が売るコップ一杯二円の水が活力源だった。
 一カ月後に郷里へたどり着く。八〇㌔あった体重は四〇㌔に減り、両親は息子と確認するのに手間どった。自宅に戻った安心感からか、二十一年から二十四年までの記憶はおぼろげである。
 通院治療で記憶を取り戻し、患者仲間のクリスチャンの影響で聖書を読み、キリスト教を信仰した。
 二十四年に受洗、二十八年、東京聖書神学院に入学。卒業後、牧師だった正子さんと結ばれた。その後、車いすのまま東京都内の教会で副牧師、三十六年に川口市に移転、牧師として活躍している。
 この十年、厚生省に軍人恩給の申請を五度出した。事故で戦友のほとんどを一度に失っため、事故を証明できる仲間がいない。病院のカルテ類もない。
 十七歳だった三浦さんの身分、軍隊での取り扱いなどは、戦争中の混乱もあって、あいまいのままという不幸もある。
 三浦さんは言う。
 「事故現場を何度も踏み、記憶をたどってみたが、断片的にしかわからない。私の戦後処理は終わっていないが、同じような生き残りがきっといるはずです」
 三浦さんは最近になって全身を針で刺されるような激痛に襲われ、眠れぬ夜も多い。しかし、牧師のほか、身障児を扱う保育園長の仕事が山積している。
 余暇には、車いすにカメラを積んで、花のカラー写真を撮り、寝たきりの障害者に贈って励ましている。

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