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南目線、その苦闘の歴史

 2007年1月31日14時、ついに島原鉄道南目線島原外港〜加津佐間の廃止
方針が発表されました。

 島原市役所で行われた会見によれば、2007年3月30日に廃止届を提出、
2008年4月1日に廃止するとの事です。また、「沿線から存続の希望があれば
協議する」という含みも持たされていました。

 1月31日にリリースされた内容によりますと、北目線の輸送密度は1,378名、
対する南目線の輸送密度は648名となっています。これを国鉄分割民営化時の
特定地方交通線廃止を例に見てみましょう。
 島鉄でも比較的乗客の多い北目線ですら、輸送人員2,000名未満なので、第
2次特定地方交通線になります。第2次特定地方交通線では、第三セクターに
移管された路線もありますが、半数以上がバス転換されています。

 一方、南目線(今回廃止されるのは35.3km)は輸送密度から辛うじて第2次特
定地方交通線になりますが、第1次の条件が「50km以下、輸送密度500名以
下」または「30km以下の盲腸線で、輸送密度が2,000名以下」ですから、限りな
く第1次特定地方交通線に近いと言えます。ちなみに、第1次地方交通線から
民鉄や第三セクターに移管された路線のうち、弘南鉄道黒石線や下北交通、
神岡鉄道は既に廃止、さらには存廃問題が浮上している路線もあります。

 国鉄(JR)と地方民鉄を一概に比べるのは少々乱暴でもありますが、今の数
字だけを見てしまうと国鉄路線だったら20年前に廃止されてもおかしくなかった
北目線が、第一次特定地方交通線に近い南目線をカバーしていた、とも言えま
す。

 既に、当サイトをご覧いただいている方ならご存知かとは思いますが、今回廃
止される路線は、1943年に島原鉄道に吸収されるまでは、口之津鉄道として
営業していた路線です。この口之津鉄道は、1928年2月に島原湊(現南島原)
〜加津佐間が全通し営業を開始しましたが、当初から営業成績は良くなく、苦
難の歴史でもありました。

 当時の口之津鉄道では、「昇給」などということは考えられず、それどころか賞
与すら支給されないほど、困窮していたようです。そのため、沿線にある浦田観
音の縁日などになると、懸賞付き往復乗車券を企画し、社員が総出で山の中ま
で切符を売り歩いたそうです。さらには口之津鉄道では、秩父が浦で人寄せの
ために花火大会を開催し、7000名の乗客を集める、といった涙苦しい努力もし
てきました。こうして、1943年に島原鉄道に合併されていったのです。

 しかし、島原鉄道に合併されても安定していたとは言えない歴史が続きます。
終戦後の混乱期を乗り越えても、海にへばりつくように線路があるゆえ、幾度と
なく自然災害の脅威に晒されてきました。とりわけ、「諫早大水害」としても知ら
れる1957年7月の大水害では全線が被災し、復旧まで50日あまりを要していま
す。その際にも社内では「とても復旧できない」という声も漏れてきたそうです
が、「盲人重役」としても知られる宮崎康平常務が中心となり、中央政府にまで
働きかけ復旧を果たしています。ちなみに、同じ水害で壊滅的被害を受けた熊
本県の山鹿温泉鉄道は、その後全線廃止の運命を辿ってしまいました。

 全社員が一丸となり、大水害を切り抜けた後は、国鉄よりデラックスな車両を
新造し、国鉄線へ乗り入れ、遠く長崎、佐世保、博多、小倉へと足を伸ばしてい
きました。まさに「黄金時代」とも言える時代になりましたが、今度は「モータリ
ゼーション」の足音が聞こえてきて、次第に南目線も輸送人員が少なくなってき
ました。1972年2月には、南目線の廃止を決意し、沿線との協議に入っていま
すが、このときは沿線の反対の声が強く、路線を継続することとなりました。

 このときも、水害の後と同じように、血が滲むような努力を重ね、1986年3月に
は1985年度の決算で、鉄道部門が単独で黒字を出す、という快挙を成し遂げて
います。これには赤字で喘ぐ各地の鉄道から注目を浴びることとなりました。続
いて1988年6月28日には、累積赤字も一掃し全国から注目を浴びることとなり
ます。

 しかし、それもつかの間1991年6月4日には普賢岳災害により南目線は分断
され、土石流による被災と復旧を繰り返すこととなりますが、安中地区で大々的
な災害復興工事が施されることとなり、島鉄も長期不通を余儀なくされることと
なります。このときは、さすがに分断された南目線の利用者もまばらで、「廃線」
の文字が浮かんでくる有様でした。

 しかし、当時の島鉄社長や県知事の働きかけにより、高架橋を新たに設置し
南目線が全線で復旧することとなりました。1997年4月のことです。1993年の最
後の運休から実に4年が過ぎていました。このときもあそこまでの被害を受けた
ローカル鉄道が復旧するということで、全国から注目を浴びることとなりました。
しかしながら、このときの長期不通が尾を引く形で、利用者は戻らず、次第に南
目線も厳しい状況に置かれていったわけです。

 もちろん、手をこまねいていたわけではなく、割引乗車券や国鉄色キハ20復
活などのイベント、そして目玉商品とも言える「トロッコ列車」などを運転して、何
とか活性化しよう、とする姿勢がありました。

 廃止の発表を受け、南目線の歩みを簡単に振り返ってみましたが、幾多の困
難を乗り越えて今日まで路線を維持してきた島原鉄道さんには、頭が下がる気
持ちでいっぱいです。とはいうものの、あの加津佐に近づくと車窓いっぱいに広
がる天草灘の景色を愛でることが、もうまもなく出来なくなってしまう(可能性が
高い)ということは、一抹の寂しさを感じてしまうものです。

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