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仕事



 オーストラリアから帰って来て、はや2ヶ月。ダラダラと、オーストラリアのことばかり考えながら、はやくまた旅に出たいと考えながら 過ごした、はじめの一ヶ月半。バイトを始めて、時間に追われ、久しぶりの日本社会で働く忙しい感じに、懐かしさを覚えた2週間。将来の事を考え抜いた日々。 腰が痛い日々。
 腰痛のため、やりたい事に遠回りせずにぶつかるため、バイトを辞めた。たった2週間で。

 今はもう、「旅に出たい」と妄想に浸ることも無く、オーストラリアでの日々を糧に、この現実、日本社会で認められる人間になりたい一心。
 オーストラリアでホームページ編集のバイトをした時、PhotoShopというソフトを使って写真を処理し、自分のデザインで、やりたいように動画を作ったりする仕事が とても楽しくて、はじめて仕事が楽しいと思えた。あの時は、素人レベルで許され、趣味レベルの世界だったから、仕事としてやっていくレベルになると、もっと厳しく、 難解で、いっぱい勉強しなければいけないと思う。でも、はじめて楽しいと思えた仕事に、これから先携わって行きたいと思った。

 「DTPオペレーター」という職種が、PhotoShopやイラストレーターというソフトを使って画像処理、編集をする仕事ができるらしい。求人広告を見ると「PhotoShop、イラストレーター使える方、経験者」 「1年以上の実務経験要」と必ず記載されている。経験なんて無い。バイトは3ヶ月しかしていないし、イラストレーターというソフトは触ったことも無い。その世界のこともよく分からない。
「DTPエキスパート」という資格があり、オペレーターになるには、必要らしい。この資格を取れば経験が無くても就職できる可能性は広がると考え、資格取得のためお金を貯めてから、専門学校へ行こうと考えた。 でも、かなり遠回りだ。先の話だ。いつになったら辿りつけるのか見えない。

 最近始まったドラマで、「今を生きろ!」とかっこいい俳優が言った。今のこの一瞬を生きろ、と。今、この時を無駄にできない。今、この時を将来に繋がる時間にしよう。そして、バイト情報誌で「未経験者歓迎」の画像処理の仕事を探し、 京都だろうが、大阪だろうが、受けて行くことにした。正社員じゃなく、アルバイトでいい。経験を積もう。再び、バイトさえしていないプーに戻ったけど、はやく画像処理の仕事にありつけるように動くしかない。

つい最近、私が新卒で初々しく入社した会社の同期達と、1年ちょっとぶりに皆で再会した。皆、あの会社を辞め、新たな職場で頑張っている。前に皆で会ったのは、私がオーストラリアへ行く直前。 あの頃は、皆あの会社を辞め、新しい道を歩き出したばかりで初々しく、少し頼りなさ気に、それでも希望に満ちた顔をしていた。 あれから1年。皆は新たな場所で経験を積み、いろんな思いを抱き、着実に自分の道を築いて来ていた。

 私が皆とはじめて出会ったのは、約3年前の春。就職する気も無く、就職活動もロクにしていなかった私が、卒業直前になり、回りが内定している姿を見て焦り、やっぱり就職しようと2月から始めた遅すぎる就職活動。 自分のやりたい仕事が何であるかなんて見つける事もできず、ただ就職できればいいと思っていた。そしてマグレで受かったのが、あの会社。内定したのが3月。もうとっくに内定し、何回か顔合わせをしていた他の同期達に混ざり、 3月後半から新人研修は始まった。大阪本社の4階での研修。本社の人達に挨拶をする時、同期達が皆、大卒であること、しかも良く知れた大学卒であることに愕然とした。私だけが名も無き短大卒。ひとり、遅れて内定し、ひとり、生きてきた時間も短く、 ひとり、何もわからず、将来も見えずに会社に入ってしまった。どうして私が内定したんだろう。勤務地から実家までチャリで2分という距離のためだけだろう。絶対そうだ。 そして、会社に、皆に、引け目を感じながら日々は過ぎた。

研修も終わり、皆それぞれの配属地で働き始めた。皆、それぞれ仕事をこなしていた、でも私だけは自分でも驚くほど、仕事という仕事をしなかった。 何をしたらいいのか分からなかった。どう動けばいいのか分からず、日々繰り返される雑用だけをしていた。上司への接し方が分からず、敬語を知らず、無口で通した。 楽しくなかった。仕事も、職場の人間関係も。まわりで働く人も、楽しくなかっただろう。
たまに集まる同期達は、仕事を話をするけど、私はひとり、営業職ではなく、仕事らしい仕事もしていなかったから、いつも引け目を感じた。それでも、会社の中で同期という存在は心強いものだった。

「たった1年仕事をしただけで、その仕事に向いているかどうかなんて、その仕事の楽しさが何かなんて、分からない」と人は言う。でも、1年やらずとも、明らかに、その仕事は私に向いていなかった。 現実逃避するかのように、「逃げ」と言われるように、私は会社を辞める決意をした。ワーホリへ行くために。つまらない日々から、仕事のできない自分から、逃げ出すために。 日本社会という組織から逃げ出すために。そして、上司に辞めると言った時に知った、「短大のコネ」のようなもので入社したという事実。悔しさが爆発した。 皆との出会いから、ちょうど1年後、私はフリーターという自由でいて、不安定な存在になった。働きまくってお金を貯め、半年後にワーホリでオーストラリアへ出発した。そして1年間、オーストラリアで過ごした。 思えば、ワーホリへ行く決意をしたのも、フリーターでお金を貯めるだけの切り詰めた日々を送ったのも、オーストラリアで「帰りたいー」と思いながらも1年間過ごしたのも、そのパワーの源は、あの会社での1年間にある。

自分という存在が社会で通用しない、苛立ち、失望。
職場での人間関係がうまく行かず、酒に頼る弱い姿。
ろくに仕事もしないのに、会社にいる自分の情けなさ。何の充実感もなかった。
いつも、引け目を感じ、いつも馬鹿にされていると感じていた。
自分って一体何なんだろう、何がしたいんだろう、何ができるんだろう。こんな町内で働く日々だけで終わってしまうのか。 こんなんでいいのか。1年間の変な我慢が、自分で自分を追い込んで作ったようなストレスが、悔しさが、パワーの源となった。 多分私は、あの会社に入社していなければ、ワーホリには行かなかったと思う。

そんな事を思い出した、同期達との再会。

ワーホリへ行き、会社を辞めた事にも、自分のやってきたことにも自信を持つことができたからなのか、出会った頃の皆の年齢になったからなのか、 それぞれ違う場所にいるからなのか、私はもう皆に引け目を感じることはなかった。

それでも、皆はいつまでたっても、人生の少し先輩。
いつまでたっても、自分を写してくれる鏡、友達。

それぞれの場所で、それぞれの道へと進んでいく皆とは、同期だったあの頃のように共有する時間も思いも少ないけど、いつまでも、久しぶりに顔を合わせて 「最近どうよ?」と報告し、刺激を受け合える仲間でありたい。

次に会う頃には、やりたいと思えた仕事に就き、バリバリ仕事をこなしている自分でありたい。

はやく、社会に認められる人間になりたい。上司から仕事を認められる人間になりたい。職場での人見知りを直したい。あの1年は、トラウマとなって私の心にへばりつく。 でも、あの会社に入社して得た、ワーホリへ行くパワー、目標に突き進む生き方、そして素敵な同期達。つまらなかった、あの1年から生まれたものは大きい。
(written in 2002,1,12)

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