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ワーホリを終えて思うこと


 2001年11月15日、シドニーを出発する飛行機に乗る日。オーストラリアで生活することが当たり前となってしまった今、 日本へ帰るという実感が全くなかった。ワーホリは、オーストラリアは充分満喫した。もう充分だ。日本へ帰るのが楽しみだ。そんな心境やったのに、 実感は全くなかった。前日もCITYを歩きながら、「もうメトロに買い物に行くことも無いなんて信じられへんわ。」と友達に言っていた。 その友達達とも明日から会えなくなるなんていう実感が全くなかった。

15日も、そんな感じで、全く実感のないまま、バッパーをチェックアウトした。 全く実感がなかった。でも嬉しさが滲み出てたのだろうか、バッパーに泊まっている人に、「めっちゃすがすがしい顔してるやん」と言われた。 友達が空港まで見送りに来てくれた。泣くかなー?と思っていたけど、本当に帰るという気がしなくて、もうしばらく会えなくなるとは思えず、 最後まで「私ほんまに帰るんかなー?実感がないわ。」と笑ってしゃべってた。そして、「じゃあねー!」と笑ってサヨナラして飛行機に乗りこんだ。まるでまた明日も会うかのような別れ方。

 シンガポール航空は、けっこう快適。一人一台ずつ、イスの前にテレビ画面があって、映画やゲームが楽しめる。思い出に浸る余裕もなく、実感もないまま、私はテレビ画面の 虜となって時間は過ぎていった。約8時間後、乗り換えの地、シンガポール着。2時間待ちの間、広くて綺麗な空港中を少し歩き回り、あとは喫煙室でタバコを吸っていた。 次は大阪までタバコが吸えへんわーと思ってたら、シンガポールから乗る飛行機が、バンコク経由で、めんどくさいことにシンガポールからバンコクまで1時間半ぐらい飛行機に乗って、 またバンコクで下りて1時間待ちしなければいけなかった。でもタバコも吸えたし許す。

バンコクからの飛行機は日本人が多くて、観光客らしきおっさん達の日本語が聞こえてきて耳障りだったので オーストラリアで買ったCDを大音量で聞いていた。日本へ帰ったら皆が日本語を話していて、皆の言うことが理解できて、皆にも自分の会話が聞かれてるのが気持ち悪いと 帰国した友達が言っていた。コワイ、コワイ、そんなんコワイ、いややーいややー。日本が怖いー。帰りたいけど帰りたくない。不安、不安、不安。これから生まれ育った国、日本へ、昔からの友達の待つ 日本へ帰るというのに、オーストラリアへ行く時の飛行機に乗ってる時ぐらいの不安が押し寄せてきていた。

 そんな私の不安も知らず、飛行機は予定よりも20分ほど早く、関西国際空港に降り立った。でも、まだ実感がない。ここまで来ても。 でも、空港の中を見れば、働いてる人を見れば、みんな髪の毛の色が黒い!黒い!関空から京都駅までの特急電車はるかに乗りながら 外の景色を見る。なんて建て詰められた家々。家の隙間狭すぎ。看板が日本語や。小学生や中学生達が制服で登校してるー。変な気分で窓から外を見ていた。

京都駅から地元の駅までは普通の電車。スーツケースとバックパックという姿で乗りこむと、チラチラ見られた。そしていよいよ地元の駅へ。なつかしー。なつかしー。と ひとり言を連発。改札まで親が迎えに来てくれていた。太ったなーと笑われながら車まで歩き、久しぶりの我が家へと車は走る。我が家では、アホ犬コロが待ちうけていた。 吠えやがった。もらってきてやった私に向かって吠えやがった!!「吠えるなー!あほコロ!」と言うと、やっと思い出したのか、なついてきた。

 1年のうちに、いろんなことがありすぎて、たくさんの人に会いすぎて、オーストラリアの生活に慣れてしまっていて、 だから地元に帰ってきた時に、何も変わってなくて、普通で、相変わらずな日常があって、とても変な感じがした。我が家も、1年ぶりだけど、ずっと住んでた家なので はじめは懐かしいーと思ったけど、暮らしてみれば、普通だし、何も変わらず、オーストラリアへ行く前と何も変わらず生活している。友達とも会ったけど、めっちゃ久しぶりーという感じはなく、 すぐに普通にしゃべって溶け込んで、笑って、ファミレスで深夜までしゃべって。オーストラリアで出会った友達が、オーストラリアの1年が夢のようで、ほんまに1年過ごしたとは信じられないと 言ってたのが、ほんまに理解できた。そう、行く前と何も変わらない生活がここにはある。少し、絶望した気分になった。居心地のいい家、居心地のいい友達がいるというのに。私の目の前には絶望しか なかった。

どうして、絶望?そしてワーホリ生活をふりかえってみた。

 1人で生きていこう!親の金になんか頼らずに、人になんか頼らずに。そう思って踏み込んだ、ワーホリ生活、飛び出した、日本。 しかしオーストラリアに来たばかりの私は、自分が思うほど強くはなかった。しっかり者でもなかった。ホームシックにばかりなった。 料理なんてしたことがない。たまねぎのむき方も切り方も、にんじんの切り方も、鍋でのお米の炊き方も、卵の焼き方も、包丁の持ち方も、何も知らなかった。 洗濯も自分でしなければいけない、何もしてないのに、どうしてこんなにお腹がすくのだ、お腹が空いたら自分で何とかしなければいけない。 生きるってなんて単純作業の繰り返し、でもそれを私は今まですべて親に委ねてきたんだ。めんどくさいことをすべて。

 日本食レストランで働いて、「そんな事も知らんのかー」と馬鹿にされて覚えた包丁の持ち方、友達に教えてもらったお米の炊き方、いろんな料理の作り方、知恵。 お金がない、お金がない。はじめから言い続ける私に親が送ってくれた3万円。こんなもの使うかー!と思ってたけど、銀行残高が19ドルになった時、ついに使い、 生き延びた。
 3週間で辞めた日本食レストラン。おかみさんに「親から電話があっても、”うるさいー!””ほっとけーババー!”とかしか言わずに切る」と話したら、「それは、だめよ。 親とはこれから長く付き合って行くんやから、素直にならなくちゃ。親子同志でも言葉に出さなくては、分からないこともある。」と言われてから、親からの電話も、普通にしゃべるようにした。私の長すぎる反抗期にも終わりが見えた。

 ホームページ編集というバイト。海外で働く女性というものに憧れていた私。なんだか、‘海外で働く女性‘と言うと華々しいイメージがあった。 充実した生活があるんだろうなーと思っていた。でも、実際は日本の会社と同じだということに気付いた。海外であっても、日本であっても、職場での人間関係からは逃れられない。 上司が苦手な私自身が変わっていかなければ、何も変わらないと実感。華々しくもない。英語ができないから、よけいに引け目を感じて仕事をする。でも、充実感は少し感じた。興味の有る仕事だったから。

2つ目に働いた日本食レストランのバイト。なんやかんやとムカツクーといつも友達に愚痴っていたけど、口は悪いけど憎めないオーナー家族達。

 オーストラリアへ行った当初は、「ワーホリは馬鹿にされてる!私は日本へ帰ってからも繋がる仕事を見つけて、その経験もしてやる。英語ペラペラになってやる。 遊びに来たワーホリとは違うのよ!!」ぐらいの勢いだった。頭が固かった。だけど時間が過ぎるごとに理想通りにはいっていない自分に焦ったり、悩んだりした。シドニーを出て、 チルダーズでピッキングをしてから少しずつ考え方が変わった。英語は無理だ、でもいろんな経験をしよう、いろんなものを見て旅をしよう、いろんな人に会おう。 それは、はじめに持っていた考えを、目標を諦めたと言える。でも私はそれでよかったと思う。英語ペラペラは無理やけど、英語、外人に対する恐怖はなくなった。 何度も聞き返されてもめげない、通じなくても「なんで分からんねん!!」ぐらいの勢い。ワーホリを馬鹿にする奴は、ほっとけ!ビジネスビザ?学生ビザ?観光ビザ?そんなもので 人間の価値まで測れるはずがない。ビザの種類なんて関係ない。大切なのは、心意気。中身だ。
 仕事。興味のある仕事をシドニーでみつけた!!それを自分のものにするには日本へ帰ってからが勝負!勝負はこれから、焦らず、いきましょう。

 シドニーでは、ホームシックになって酒を飲んで暴れても懲りずに付き合ってくれた友達、生活の知恵をくれた友達、大切なたくさんの友達に出会えた。ピッキングの町、チルダーズでは大切な仲間に出会えた。そしてラウンドでは、同じ感動を一緒に味わい、語った旅人達、 たくさんの人々、友達に出会えた。今まで、それぞれの全く違った人生を歩んで来た人達に出会えた。様々な職業についていた人々に出会えた。様々な地方に住んでいた人々に出会えた。 様々な人と話すことによって、様々な世界を垣間見ることができた。様々な人生を垣間見ることができた。いろんな人がいたけど、皆、何かを求めてオーストラリアに来た人達。 目的は違っても、オーストラリアへ行くぞ!と不安を乗り越え、勇気を持ってきた人達。だから、皆、根底にはどこか似通ったものがあるように感じた。様々な人達に出会えたことが、 私のワーホリの一番の宝だと思う。旅をしてる時も、様々な出会いが自分の力となり、前へ進んで行くことができた。残念ながら私は英語が堪能にしゃべれないため、深く関わり合えたのは すべて日本人だったけど、英語で少しの会話をかわした、世界各国の旅人達や、オーストラリアの様々な街で、ただすれ違っただけで笑顔で挨拶を交わしてくれるオージー達との出会いも少なからず私に勇気をもたらした。

   いつも貧乏だったワーホリ生活。親に頼るもんかと思い続けたけど、帰りの飛行機チケット代は借りてしまった。 でも、送金で生きていく1年にはならなかった。よくやったと自分で自分を褒めたい気分だけど、それって当たり前の事。もう大人。

 いろんなことを、知らず知らずのうちに諦めて進んできた1年間。英語を諦めたことは、楽な道へ行こうとする弱い姿勢だろう。旅の最後の方で出会った人が、ふつうに、 自然に、英語圏の人としゃべって仲良くしてるのを見て(その人はとても発音もよくて英語もうまかった)、ちょっと自分の旅の仕方(無意識的に外人を避けて、 日本人とばかりしゃべっていた)に疑問を感じてブルーになったことがある。でも、出会いは、日本人だとか、外人だとか、そういうことは関係ない。私は素敵な人達に 出会えてきたのだから、幸せだ。間違っていない。そう思う。オーストラリアで出会えたすべての人に心から感謝。出会えてよかった。

 嫌というほど自分の力の無さを、自分の仕事場での人見知りしすぎるヤバさを、愚痴の多い自分を、いつも感じた。でもその反面、人と出会っていくことによって、自分の良いところも少しは発見できた。自分の強さを発見できた。苦しい状況に立っても、乗り越えて行ける自信がついた。 考えすぎる事もあるけど、即行動に移す力がついた。自分に、多少自信がついた。

 日本社会の履歴書に書けるようなことは何ひとつ無い、この1年。だから、今、日本へ帰ってきて絶望感があるのかもしれない。オーストラリアで1年過ごしたからといって、オーストラリア1周の旅をしたからと言って、ピッキングを2ヶ月半したからと 言って、そんな事、日本社会には何も通用しない。興味のない人に言ったなら、「へぇー」で終わってしまうだけのこと。感動も伝わらない。何も伝わらない。日本語なのに、伝わらない。何も。

 でも今までの22年間の人生の中で一番多くの人に出会い、一番いろんなことに出会い、一番刺激を受ける日々を送り、一番自分らしく生き、 一番濃い1年だった。アントニオ猪木氏の言葉通り、「行かなければ何も分からない。行けば、分かる。」
分かった気でいて、実は分かってないことも多い。大きな大陸オーストラリアのことだって、海外で仕事をする辛さ、喜びだって、 たった1年の滞在だけでは、実際のところは何も理解していないのかもしれない。例え分かっていないとしても、これは言えます。オーストラリアはスゴイ!ワーホリに行ってよかった! 私の1年に悔い無し!

 もし、不安に押しつぶされて、オーストラリアへワーホリで行くことを諦めていたとしたら、一生後悔しただろう。一生、「外国生活」というものは憧れだけのもので終わっただろう。 一生、小さなことで悩んでいる自分を捨て切れなかっただろう。
 想像だけで不安になって行くことを諦めてしまったら、本当に何も分からないままで終わってしまっていた。行ったからこそ実感できた、いろいろな思い。行ったからこそ実感できた、憧れとは違う現実。 行ったからこそ実感できた、世界の中の日本。もし、ワーホリに行きたい!という人がいたら、「絶対行きー!」と伝えたい。行ったことで後悔したことは何もない。辛い体験も、すべてが自分の力や強さとなったから。

 こんな風に思っているけれど、結局私の生活はオーストラリアへ行ったからと言って何も変わりなくて、だから絶望的。これから何をしよう、どうしよう。 目的のために突っ走っていた2000年4月からもう1年半以上。目的を達成してしまったから、フヌケ状態。新たな目的をしっかりと見つけて、それに向けていかなればと思う。

 でも、1年前と何も変わってないということもないかもしれない。以前は全く親と一緒にご飯も食べず、しゃべらずだった私。先日、両親と共に今後のお互いの人生を語らいながら、おでんを食べた。 少しずつ、きっと何かが変わったはず。そしてこれから、何かが変わっていくはず。何もかも、自分次第。これからが、勝負。

   

written in 2001,11,25
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