このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
福知山線の旧線(尼崎‐塚口)福知山線(JR宝塚線)の尼崎駅への進入口は、もともと東海道線の北側に寄り添うように本線があり、その他に線路を跨いで南側に入っていく(電車の進行方向としては、尼崎駅から出て行く下り方面の)連絡線とがありましたが、東海道線・JR東西線との直通運転の便宜のために、東海道線の間へ入っていく複線に統一され、尼崎駅北側に入っていく旧来の線路は使われないことになりました。 現在は線路も外され、線路跡は空き地として、また工場などの敷地の一部として残っています。 この日は奈良の国立奈良博物館にて2005年度の「正倉院展」の最終週を迎えており、前の晩の寝台急行で大阪へ着きました。奈良へ行くなら普通は京都駅で下車して奈良線に乗り換えるところでしょうが、せっかく関西へ行くので一ヶ所行きたいと思っていたところへ寄り道することにして、乗車券もわざわざ尼崎経由で購入していました。 行きたかったところは、この福知山線旧線、そして現在線と旧線とが分かれるあたりのカーブで起きた2005年4月25日の脱線事故現場です。 いわばこの新旧線の切り替えを行なった結果、上り線に大きなカーブが生まれることになったわけですが、鉄道としてこの程度のことが問題だとは思われません。それよりも安全装置のないような状態のままで、綱渡りのような密度と速度の運行を続けていたことが致命的な誤りだったと思います。 JR尼崎駅の北側から、かつての福知山線が分岐していました。駅西方の踏切を越えたところから、東海道線と福知山線旧線の敷地が分かれていきます。周りにフェンスが張られ、立ち入り禁止になっています(撮影当時)。現在はこの付近は新しく車道化されたようです。 反対側、尼崎駅方向を眺めて。 現在線との合流地点に向かって歩いていきます。 この直線道路は、古い航空写真で見ると、どうも福知山線と、尼崎の港湾方面とを結んでいた貨物線の跡のようですが、はっきりとは分かりません。 上の写真の地点から何百メートルか歩いたところ(元踏み切り)で、旧線跡を横切る道路から尼崎駅方面を見て撮ったもの。 反対側の塚口・伊丹方面を眺めて。幅の広い空き地が続いてはいるのですが、その先の空間が建物でふさがれています。 さらに先に行った地点で。塚口方面は新しい建物でふさがれていて、地面の盛り上がりとアスファルトの境い目が、わずかに旧軌道跡を思い起こさせます。 さらに先の、合流地点手前の交差地点にて、尼崎方面を眺める。旧線跡がそのまま駐車場の一部になっています。 そして、同じ地点から反対側の、塚口方面の合流地点を望む。左に写っているのが脱線事故で電車が衝突したマンションです。 警備員の方が、周辺に4人ほど立っていました。とても写真を撮りづらかったのですが、一枚だけ、と思って撮った一枚が失敗してしまいました。撮りなおせる雰囲気ではありませんでした。 上の写真の左端に「献花台入り口」と書かれた案内板が立っています。撮り終えてから、警備員の方に「献花だけでしょうか」と訊くと、「焼香もできます」とのことだったので、手ぶらながら(とは言っても朝8時台で、開いている花屋は無かったと思いますが)献花台まで行ってきました。ただし、マンション住民の方のお気持も考慮して、マンションや事故現場周辺の撮影は控えてほしい、とのこと。というわけで、写真はありません。 実際、車輌や自動車、それにマンション一階にあった立体駐車場の構造物など、撤去できるものは全て撤去されていました。しかし、マンションの前の駐車場のアスファルトだけを見ても、いったいどんな力が加わったらこうなるのか、にわかに想像できないくらいの大きな抉り傷が無数についていて、背筋が寒くなりました。駐車場の前に、真新しいお地蔵さんが一体置かれていました。 焼香の後、写真を撮るなら献花台の正面からだけでお願いします、と言われ、その位置から一枚撮りました。 その後、塚口駅まで歩き、伊丹駅まで行って一旦降りてから、尼崎駅までの切符を買って再び改札に入りました。 この日は東西線・片町線経由で奈良へ行くつもりで乗車券を買ってあったので、9時0分発の快速木津行きを待って乗りました。 塚口駅を通過し、事故現場のカーブに差し掛かる手前で列車は大きく減速し、まるでポイント通過で側線に入っていくかのような速度でカーブを通過していきました。 その後、東海道線を跨ぐ鉄橋の上でも減速していたので、もしかしたらこの日は尼崎駅へ進入する途中の信号の関係で、そこまで減速したのかもしれません。それでも、このカーブでの減速はこの路線に電車が走っている限り——極端なことを言えば、例えばリニア化されて減速の必要がなくなった場合でも——続けて欲しいと思いました。いわば無形の記念碑として、そのままであるべきだと思います。 犠牲者の皆様のご冥福をお祈りします。 (2005.11.12撮影)
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