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旧国鉄中央本線(猿橋−鳥沢間)〜〜むかし規格の鉄道跡

 

 

 中央本線はごくレベルが低い鉄道である。こう記すと語弊はあるが、事実である。

 確かに、幹線ではある。幹線でありながら線路の規格が低いというところに、中央本線の悩みと課題がある。

 原因ははっきりしている。高尾以西、平地はごく少ない。谷は深く、山々は急峻。道をつけるとすれば、杣道のような細道にならざるをえない。

 さらに悪いことに、中央本線は鉄道の黎明期に建設されてしまった。黎明期、とは響きのよい言葉であるが、技術や資本が未熟な原初の時代と形容しても間違いではあるまい。むしろ、その方が実相をよく表しているとさえいえるだろう。

 中央本線は幹線であるがために早い時期につくられた。結果として、極端な急勾配こそないものの、急曲線が随所に介在する低レベルの鉄道になってしまった。そればかりではない。中央本線は普通の車両が入線できない路線なのである。当時断面が大きいトンネルを掘削できなかったことが、今でも足枷となっている。

 振子機能を搭載したE351系が上すぼまりの奇妙な車体になったのも、原因はそれである。ものをつくる人間は常に将来を考えるべきだという教訓の、好例であろう。

 

 余談になるが、中央自動車道もまた悪路である。急勾配と急曲線が続き、運転していてまことに疲れる。特に上り線の談合坂から相模湖までの間はきつい。

 この区間に限らず、中央自動車道では事故が多いように思われる。客観的な統計データではなく感覚にもとづく話になるが、やはり、多いのではないか。あれだけ条件の悪い道を、普通の高速道路と同じ気分で運転すれば、高い率で事故が発生しない方がおかしい。事故が多いという意味における、現代の険路である。あるいは、蜀の桟道にも匹敵するのではないか。

 考えなければならないのは、中央自動車道ができたのはごく近年であるということだ。鉄道の黎明期とは比較にならないほどの技術と資本の蓄積があったというのに、できた道は決して立派とはいえない。少なくとも、走りやすい道ではない。

 この国では交通事故は発生者の責任という認識が通用している。そうでなければ、道路公団の「製造者責任」はもっと非難されなければなるまい。料金のプール性よりもよほど深刻な話だと思うが、どうだろうか。

 

 ともかく、険路である。どれだけ険しい道であるかは、笹子峠前後の駅を見ればわかる。初狩・笹子・初鹿野1)・勝沼2)と4駅も続けてスイッチバック駅が連なるのだから、凄いとしかいいようがない。  もっとも、今ではスイッチバックは全く機能していないに等しい。笹子・初鹿野・勝沼では設備そのものが撤去され、初狩でも採石工場への引上線としての役目を果たしているだけにすぎない。機関車牽引列車から電車に変わり、勾配途上からの発進ができるようになった結果である。つまり、勾配という障害は既に克服されている。

 あとは急曲線にどう対処するか、である。E351系の投入により、大幅な時間短縮が実現しても、所詮は姑息な対症療法にすぎない。根本的には急曲線を解消するべきなのである。即ち、旧き道を捨て、新しい線路を敷かなければならない。

 電化・複線化という段階を経て、中央本線は細々と線路を改良してきた。まったく細々としか形容のしようがなく、そのように印象されるというのは、老い朽ちた設備の代替という意味あいが濃かったためであろう。あるいは、電化・複線化工事そのものが、改良とみなされていたせいかもしれない。

 そんな中で、鳥沢−猿橋間では希有な改良がなされた。旧い線路は放棄され、別ルートの新線が建設されたのである。旧線は相模湖以西桂川3)の左岸を走り続け、猿橋の直前で右岸に渡る。新線は鳥沢を出た直後に桂川を越え、猿橋に至る。たった一区間の改良とはいえ、大トラス橋の架設やトンネルの掘削など、工事量は豊富である。短縮された距離も案外ばかにならない。

 今回辿るのは、その旧線の跡である。辿るといっても大袈裟な話ではない。旧線は国道20号線(甲州街道)とほぼ並行しているし、気軽な散歩のようなものである。もっとも、筆致がどうなるかについては保証の限りではない。

  注1)現在の甲斐大和。
  注2)現在の勝沼ぶどう郷。実をいうと、本稿執筆当時既に改名されているのだが、
    わたしはまだ新しい駅名になじめない。初鹿野という素晴らしい響きを持つ駅名
    が失われたのは惜しいと思うし、また、「ぶどう郷」などというどこかふざけた
    趣のある命名に対しては反発を禁じえない。
  注3)相模川のこと。都留や大月のあたりではこう呼ぶ方が通りがよい。

 

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 桂川の流れに葛野川が合するところに猿橋はある。ふたつの川が削りに削った谷の底、人馬時代の大難所である。

 日本三奇橋に数えられる、桂川の断崖に架かる甲州街道の橋こそが、地名の由来である。なるほど、猿の身軽さがなければ、あのような橋は架けられないであろう。

 猿橋の街は橋よりやや上流にある。川と山の間のわずかな平台に、人は住む。一所懸命にならざるをえまい。このあたりのひとびとは、異様なまでに土地に執着する。よそ者が割り込みにくいせいか、社会は閉ざされている。

 小さな街ではあるが、往来は激しく、賑々しさは感じられる。たとえ通り過ぎるだけにせよ、人が多いと気配が違う。

 駅舎はこぢんまりとしている。猿橋だけではなく、このあたりの中央本線の各駅に共通する特色である。最近になって改築したものらしく、造作が新しく、小綺麗である。ここ猿橋、貨物列車の待避線がある。谷筋を行く路線だけに、本線以外の線路があると段違いに広く感じられる。

 中央本線は街の裏を抜けて桂川の右岸を進む。旧線との分岐の位置ははっきりしない。街道や市街地とのとりあいを考えれば、ルートはおのずと限定されるはずなのだが。元祖猿橋を横目に見つつ、国道20号線の新猿橋を渡る。対岸でも線路の跡はわからない。首を傾げながら先に進む。

 しばらく進んで振り返る。あった。レンガを積んだトンネルの坑門。時を経てきただけではなく、使われていないという事実にもとづくさびた色が、萌える緑の中に浮いている。トンネルを出たあと、線路は国道をまたいでいる。橋という主を失った石づくりの橋台が、狛犬のごとく道の両側に鎮座している。

 国道の右手に築堤が迫る。今はレールも枕木もなく、草のむすままにたたずんでいる。道を行く人々は、この土の堆積がなにものであったのか、知らずに過ぎてしまうだろう。また、知る必要もあるまい。

 線路跡は再び国道を越える。線形から推察するに、国道を渡ってすぐトンネルに入ったようである。いずれにせよ、ここでは国道が幅を拡げたため、痕跡は皆無に近い。先ほどのように橋台もなく、坑門も見あたらない。

 猿橋−鳥沢間の現中央本線を三角形の底辺とすると、ちょうどこのあたりが頂点である。つまり、途は既に半ばまできたわけだ。一区間という距離のなんと短いことか。

 前方に鳥沢の大トラス橋が見える。その構えの大きさには周囲を圧倒するものがある。風景としてみる際の、中央本線の名所の一つであろう。山の端を巡り、沢に出会う。眼下に東京電力の水路橋が見える。そのほかは、深い緑に霞んでなにも見えない。

 さらに進み、跡がわかるようになる。線路の跡は国道の左手やや上側を鳥沢へと続いている。痕跡そのものは明瞭でない。宅地だったり、畑だったり、あるいは公園だったり。細長い平場と、いかにも古くさい石積みなどで、それとわかる程度である。

 鳥沢に近づき、線路跡は国道と別れる。畑やアパートに姿を変えても、鉄道独特の線形を辿ることはたやすい。ちゃんとした道がついているから、気がねは要らない。鳥沢駅の構内にきて途端に道が狭くなる。猫の大通りである。張り出した垣木が体に当たり、前夜の雨露が飛び散る。

 小径を抜けたその先に、鳥沢の駅舎がある。クリーム色に塗られた木造のもので、猿橋駅舎よりはるかに長い時を重ねている。それでいて古くささはない。現役の有人駅の強みであろう。人がいると、なんの設備であれ、荒廃しにくくなるものだ。

 長居をしても意味がない。さっそく引き返すことにする。帰り途、猿橋のあたりで再度痕跡探しを試みたが、皆目見当がつかない。もしかすると、国道20号線の新猿橋がかつての橋梁に重なっているのかもしれない。新猿橋右岸側の橋台付近から中央本線へと連なる住宅群が線路跡だとすれば、答はそれ以外に考えられない。資料なしの探索であるから、推測の域を出ないが。

 

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 さて、中央本線のこと。中央本線の歴史はそのまま、改良の積み重ねであった。鳥沢−猿橋間では全くの別線がつくられたことは先に記した。

 この旧線、棄てざるをえない。桂川の流れに忠実に沿う大回りな道であるうえ、山肌が特に険しい区間である。単線から複線にするためには、つまるところ、もう1本トンネルを掘らなければならない。同じような手間暇がかかるなら、腹付線増よりショートカットの新線をつくった方がよほどよい。当然なる選択により、旧き道は廃された。

 中央本線の弱みは、改良に改良を重ねてきた線形が依然として低規格なところにある。トンネル断面が小さいことなど、ほとんど致命的でさえある。曲線が多い点も見逃せない。在来線に曲線が多いのは珍しくないとはいえ、弱点であることに違いはない。設備の老朽化も問題になる。初期の建造物は劣化が急激に進行する頃合である。レンガを巻き立てたトンネルは、偏圧を受ければ簡単に変状する。日常の維持管理には相当な苦心が伴うはずだ。

 今日の中央本線が開業時の負の遺産をひきずっていることは、最前から記している通りである。そして、未来の中央本線が今日の負の遺産を引きずる可能性もある。いまここで多くは記さないけれど。

 

 

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執筆備忘録

訪問及び元原稿執筆:平成 6(1994)年初夏

改稿及び再編集  :平成17(2005)年春

 

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