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冬の日の幻想
(12月12日)

  北京の冬になると、“冬の日の幻想”という曲を思い出す。これはチャイコフスキーの交響曲第一番のことで、この曲には“冬の日の幻想”と言う名前が付いている。北京では冬になると霧がかかったようになり、あたりがもやって、風景がボンヤリして見える日が多い。朝もやを通して、赤い太陽を直接見ることも出来る。夕方の赤い太陽も、まだ太陽が高い位置にあるのに、直接見えるようになる。霧が濃い場合は昼間の太陽すら見えないことも多い。霧やもやが掛ると、猥雑な部分が隠されて見えなくなり、派手な広告の色も沈んだ色になり、あたりが幻想的に見えてくるのである。

  北京の霧は結構凄い。今年の11月の始め頃には、霧の日が何日間も続いた。高速道路も封鎖され、飛行機も欠航した。以前のことであるが、洛陽や開封のあたりへ汽車で旅行したことがあるが、汽車で一日中走っても霧は晴れず、開封に行っても、龍門の石窟を見るときも、霧は晴れることがなかった。開封にバスで向うときも、見通しの悪い霧の中をバスが無茶苦茶に飛ばすものだからとても怖かった。中国大陸の霧は広大な範囲を覆うことがある。

 霧ともやは別のものであるが、霧が発生すると、天気予報では霧が出ると予報する。しかし、もや(靄)では中国の天気予報は無視して、晴れと予報する。もやは無いかのような予報である。しかし太陽は確かに霞んでいて弱々しい。もやの予報をしないと言うことは、この存在を無視したい理由があるのかと疑ってしまう。もやの原因の一つが、空気の汚染によるからなのだろうか。かって霧のロンドンと言う言葉があったが、北京にも“霧の北京”と言う言葉が有ってもいいかもしれない。しかしながら霧の原因が空気の汚染によるものであるとすれば、北京にとってこの言葉は名誉な言葉ではない。

  北京ではいずれの季節も、靄が掛ったような光景が見られる。空気中のダストが多いからなのだろう。しかし冬のもやが掛った光景は特別である。枯れ木が寒々と聳えて、その細い枝の向こうに、真っ赤に霞んだ太陽が沈んでいく光景は、なぜかチャイコフスキーの交響曲第一番、“冬の日の幻想”にピッタリなのである。人々の様子は着脹れていて、いかにも寒そうである。このような時は風が吹いていない。空を何か(多分、逆転層)がすっぽりと覆ってしまっているような、寒い日のことである。

 “冬の日の幻想”と名前の付いた、チャイコフスキーの交響曲第一番の第一楽章は、抑揚の無い旋律が、うねうねと繰り返して続き、憂鬱な冬の光景をピッタリと表しているように思える。実はこの曲のイメージと、中国の冬の光景とが、結びついたのは、中国のもっと北の方、吉林にいたときのことである。ここには松花江が流れていて、零下20度位になると、その川霧で朝には樹氷が出来る。樹氷も奇麗であるが、それが“冬の日の幻想”と結びついた訳ではない。ここはとても寒い所であるから、人の吐く息も真っ白になって立ちの昇り、家から漏れる暖気によっても、もやはますます濃くなって、陰鬱な冬の光景となる。それに吉林では雪が積もっていた。交響曲第一番の第二楽章には「陰気な土地、霧の土地」という副題付いているらしいが、“幻想”と言うよりも“陰鬱”と言った感じに近いかもしれない。その曲がこの霧でもやった感じにピッタリであった。

  実は、最近“冬の日の幻想”をずっと聞いたことが無い。今北京にいるのでCDをも行ってきていないので聞くことができないし、CDを持って来たとしてもノートパソコンが壊れてしまって、今のパソコンではCDが再生出来ない。日本に帰ったときはCDを聞いている時間がない。それで随分長い間この曲を聞いていないと思う。しかしこの曲の第一楽章の“弱々しい冬の光が、凍てついた大地の上を転がるようなさま”は特に心に残る部分である。第二楽章もきれいであったことは覚えているが、どんなメロディーであったか? とにかくロシア民謡風の短調の曲といった感じの曲で、きれいなメロディーが沢山詰まっている曲である。

  それで、この文章を書くのにあって、インターネットで“冬の日の幻想”を検索してみた。するとYukihiro’room のホームページ に行き当たり。

http://www.sol.dti.ne.jp/~yukihiro/index.html ) 

その中にチャイコフスキーを聞くと言うページがあって、

http://www.sol.dti.ne.jp/~yukihiro/music/tchaikovsky/index.htm

その中に“弱々しい冬の光が、凍てついた大地の上を転がるような”と書かれていた。第一楽章では“このテーマがひたすら展開されてゆく”のである。第二楽章では、“非常に泣かせる旋律”、“オーボエとフルートの掛け合いは、本当に美しい”、“日本人好みの曲”、チャイコフスキーは演歌だと言い切る人もいる“と書かれていた。

  冬の北京について知っている人は、北京が“冬の日の幻想”だなんて誉めすぎだと言うかもしれない。しかし最近の北京はとてもきれいになった。いっせいに平屋を壊して、公園にしたりする。さすが共産主義の国である。古くからの公園も沢山ある。北京駅の近にも古くからの城壁があるが、これが最近整備されきれいになった。以前は建物に隠れていたのか、目立たなかったが、今ではライトアップされて良く見える様になった。このあたりの風景を、霧に霞んだ風景にしたら、もっと“冬の日の幻想”らしくなるかもしれない。北海公園の北にある前海、后海の回りも幻想的な風景に見えるかもしれない。北京大学の中の公園などもどうだろうか。実は、残念なことにそれらの地点で、霧に包まれた風景を見たことがないのであるが。
  
  霧は、見たくもないところも、きれいではない所も隠してしまう。寒い日のバス停の辺りには、人々が吐いた痰が、凍って白く点々としていたりするが、それも霧のお陰で良くみなければ分からなくなる。もやに臭いがすることもある。それは石炭の煤煙の臭いである。しかしたまにはヤキイモの匂いがしたりする。
そして焼き芋売りのおじさんの姿が、霧の向うに霞んで見えたりする。

  しかしこう言った光景は何時まで続くのだろうか。北京では石炭の生焚きは禁止であるし、許可の無い街頭の食べ物売りを、厳しく取り締まるようになった。北京名物の道端の“羊肉串”や、朝の“油条売り”も取り締まりの対象である。そのうちヤキイモ売りも、それこそ“冬の日の幻想”の様に、霧のモノトーンの世界に溶け込んで、消えて無くなくなってしまうかもしれない。


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