淵野辺駅、古淵駅付近には、太平記に名を連ねる淵野辺氏とその関連建築物等があります。
その史跡を歩いて、当時に思いを馳せました。(2005/ 1/16) |
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淵野辺良博居館跡の碑(相模原市淵野辺本町3−26)
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淵野辺良博の居館跡は、
旧家天野氏の敷地にあります。
上の写真左の手前は、天野家ご先祖のお墓です。
碑の裏側に『26代天野重男之建』とあります。
淵野辺氏が姓を変えて、いつからか天野氏を
名乗っておられるのだと思います。
淵野辺良博の名前は『太平記』に出てきます。
足利良直の命令で、
後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を
殺害したと言われる人物です。 | | 大塔宮護良親王 | | 後醍醐天皇の親政のおり、征夷大将軍に
任命されるが、足利尊氏の讒言により、
鎌倉に幽閉され、後に殺害される。
護良親王については、
こちら
もご覧下さい。
| 足利直義 | | 足利尊氏の弟で、尊氏とともに北条氏、
後醍醐天皇等と争うが、後に兄とも離反する。 |
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| | 相模原から中里橋を経て
町田街道へ抜ける道の途中にあります。
今は新中里橋ができて、
町田街道へは一直線なのですが、
中里橋へは、途中右に曲がらなければなりません。
中里橋は、縁切り橋とも呼ばれます。
淵野辺良博は、
足利直義に護良親王を殺すよう命ぜられ
実際に殺したという説と
殺すに忍びず鎌倉から領地に連れてきて匿い、
その後、石巻(宮城県)に逃がしたという説が
水戸光圀編纂の『大日本史』に
書いてあるそうです。
護良親王を石巻の送るとき、この榎の下で妻子、
家来と縁を切って、縁切り橋を渡ったというーー。
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縁切り榎(東淵野辺2−30)
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右は、かつては縁切り橋と呼ばれた
境川にかかる中里橋。
中里橋の向こうは町田市になります。
道幅が狭いので、不便だったのですが、
今は新中里橋ができたので、
車の通行はめっきり減りました。
この橋の上で淵野辺良博は、妻子・家来と
別れを告げて、石巻に落ちていったそうです。
相模原は台地です。
矢部良兼の館も
淵野辺良博の館も境川近くにあるのは、
水の便が良かったからでしょう。
因みにこの二つの館は、
歩いて20分くらいの距離です。 |
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| | 1307年、鎌倉幕府将軍久明親王の執権北条貞時が
僧となって淵野辺にやってきていました。
このとき、近くの池(境川)に大蛇が住み着いて、
付近の住民を食べるので皆難渋しました。
貞時は、現日枝神社のある位置にある小高い丘に
山王大権現を祈願して、
淵野辺良博に大蛇退治を命じました。
淵野辺良博は、見事大蛇を退治して、
その後、日枝神社は数々の歴史を経て
今日に至っています。
現在の社殿は、昭和40年に再建されたものです。
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日枝神社(淵野辺本町1−36−16)
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| | 淵野辺良博が
境川に住んでいる大蛇を退治したとき、
大蛇の身体が三つに分体したので、それぞれを奉る
3寺を作ったが、そのうち残った1つが龍像寺。
1338年〜1341年の頃だそうです。
龍像寺だけ1556年に再建されたそうですが、
現在の龍像寺は、美しくかなり裕福なお寺に見えます。
左の写真は、残された古い門。
1556年のものでしょうか。
このお寺の裏の洞窟に
護良親王を匿った洞窟があると
聞いて探してみたのですが、見つかりませんでした。
良博が退治した龍の骨と良博の使った矢尻と板碑が
龍像寺に残っているそうです。 |
龍像寺(東淵野辺3−25)
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境川に沿って小淵方向に歩いていくと、
ファミリーマートが角にある境川橋に出ます。
大日堂は、ファミリーマートの裏にあります。
元は南側の崖下にあったものを江戸時代に
この場所に移築したとか。
鎌倉幕府最後の執権北条高時の息子の時行と
足利直良が1335年、高時死後2年経って、
この地で合戦しました。
時行は直良軍に連戦連勝するが、
後に足利尊氏に破れた。
大日堂の縁起は諸説あるようですが、
時行と直良の合戦での戦死者を弔うために
作られたというのが定説になっているようです。 |
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| | 大日堂(古淵1−34)
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| 鹿島神社(古淵1−33)
| 新田義貞が鎌倉攻めの祈願のために作ったとも、
淵野辺良博の息子の良喬が作ったとも言われる
鹿島神社。
大日堂のある坂を少し上ったところにあります。 |
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