このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


相模原市の史跡

矢部新田はどこに?
相模原市矢部新田
横浜線越しに見る米軍補給廠

この金網の中に『矢部新田』の名が残っています。

相模原市の大きな新田開発は、原清兵衛新田と矢部新田です。
清兵衛新田は、『清新』という地名が残っていますが、矢部新田は地名すら見つかりません。
ということで、探してみました。


矢部新田開発は、4代将軍徳川家国のとき、江戸の商人相模屋助右衛門によるものです。
相模屋助右衛門は甲州との往来に甲州街道を通ると雲助に会ったりするので
裏街道を使っていました。
通過点である現在の村富神社付近に宿泊施設があったら便利だろうと
幕府の許可を得て、新田開発に乗り出しました。
相模屋助右衛門は地主になるつもりはなく、開墾した土地は強力した人たちに
ただ同然に分け与えたとのことです。

実際に開墾したのは、現在の矢部1〜4丁目、富士見2、3丁目だったという話がありますが、
『矢部新田』という地名は、村富神社から直線距離400mくらい、
横浜線を挟んで村富神社の反対側にある米軍補給の中に残っています。

ちなみに村富神社のある地名は、相模原市矢部1丁目7となっています。
矢部新田開発のために創建された村富神社

村富神社は、寛文年間(1661-1672年)に新田開発のために創建された神社ですが、
元々は、街道沿いの小さな祠だったそうです。
矢部新田は、もう一つの新田開発である清兵衛新田より200年近くも前になされたもので、
4代将軍徳川家綱の時代です。
貞享元年に行われた検地では、開発面積は193町9反9畝26歩だったそうです。
村富神社はお稲荷さんなのですが、これは慶應2年に京都の伏見稲荷から分霊したからなのです。

村富神社の北東西側の八王子道には、お地蔵様や道祖神が祀ってあります。
新しいものもあるのですが、古いのは新田開発を見守ってきたものだろうと思われます。

八王子道沿いのお地蔵様

お地蔵様と直角方向にある道祖神
村富神社の北側の道は、八王子街道と呼ばれているのですが、
道を挟んだ駐車場にある桜の木はその旧道の道沿いに植えられたものです。
かつては、駐車場の中にもう1本桜の木があったのを覚えていますが、
駐車場の邪魔になるためか、切られてしまっています。
この桜の木が、八王子道がこの辺りでカーブしていたということを示していました。


お地蔵様から1ブロック北東にある八王子道の道標には、
「東南 横浜方面   西北 八王子方面」
「おもに八王子方面に向かう人々が行き来した道なので、この名があります。
また久『保沢道』『神奈川道』『横浜道』などとも呼ばれていました。
『矢部新田」はこの道に沿って開かれています。」と書いてあります。


旧道の道沿いにある桜お地蔵様から1ブロック北東にある道標
清兵衛新田開発のために分霊された氷川神社
相模原市清新4−1
氷川神社正面

本殿
赤い鳥居の向こうに福穂稲荷大神明治45年(1912年)に建てられた開墾記念碑
表面題字は徳川幕府最後の将軍徳川慶喜の書

清兵衛が奉納した石水盤

子育て地蔵
相模原市清新地区の名前の由来は、清兵衛新田を略したものです。
幕末の頃(天保14年ー1843年)、橋本の豪農原清兵衛光保は近隣の村から入植者を募り、
この辺り一帯大規模な開墾を行いました。12代将軍徳川家慶の時代です。
その際入植者のよりどころとするため、
南多摩郡上擽田村(現在の八王子)の氷川神社より分霊し、氷川神社をつくりました。

現在の清新地区は、JR相模原駅に近いことや、国道16号線が走っていることもあり、
住宅地、あるいは商業地となり、かつての新田を偲ばせるものは何もありませんが、
この氷川神社は、今も地域の人々の尊崇の対象になっています。

特筆すべきは、徳川慶喜の書による『開墾記念碑』。相模原市登録有形文化財になっています。

清新地区は、水の便がよくないところなので、新田と言っても実は畑だったそうです。
畑であったも水は必要です。境川から汲んで来たのでしょうか。
少し離れた矢部新田付近には、水汲み街道という名前が今も残っています。

大谷家旧主屋(清兵衛新田開拓農家)
相模原市清新2−15−1
清兵衛新田に最初49戸の入植者があったのが、開墾30年後には、24戸になりました。

下の写真は、唯一残っている開拓農家ですが、屋根は葺き替え、囲炉裏なども取り除かれ、
今は物置として使われているそうです。
庭には、深さ30mにも及ぶ井戸があるそうですが、
道から家を眺めるのは許可されていても、邸内に入ることはできません。


市立博物館に復元家屋があるとのこと。見学に行って、写真を撮らせていただきました。
許可を得て、ここにアップロードします。


藁葺きの屋根中は囲炉裏のあるワンルーム
八王子千人同心旧家
八王子千人同心小川家住宅(相模原市淵野辺本町3−40)
広い立派な竹藪があります。門は1つではありません。表札に『小川』とあります。

八王子市追分町に、千人同心屋敷跡があり、千人町という地名もあります。
徳川家康は、甲府に繋がる八王子を軍事拠点とし甲州街道八王子宿に千人同心をおきました。
同心の多くが武田家の国境警備隊だったのですが、
相模原市淵野辺からも出仕していた同心があると聞いて、屋敷を見に行きました。
今もこの地に住んでいらっしゃるのですが広い敷地のまわりを回らせていただきました。

千人同心は、元和以降は日光東照宮の火の番役を務めました。
また幕末には、人減らしのリストラがあって、100人ほどが蝦夷地の開拓に行ったそうです。

他に相模原からは、九沢、橋本(原清兵衛家)からも千人同心として出仕していたそうです。
磯部城跡
磯部城は、長尾景春の乱のとき、愛川町にある小沢城の支城として作られたものらしいそうです。
城の中心は、上磯部にある御嶽神社か、同じく上磯部にある能徳寺付近であったろうと言われています。
能徳寺から直線距離約600m、御嶽神社からは同じく約700mのところにある土塁(磯部90番地)は、
磯部城の付属施設であると言われていますが、土塁の近くにお住まいの人に伺った話では、
発掘調査が行われたけれど、何も出なかったとのことです。


城の中心だったと思われる御嶽神社

城の中心だったと思われる能徳寺

土塁の前景ー左は相模川はっきりと土塁が見えます。


[ エントランス ] [ 日本・短編旅行記リスト


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください