このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

他人に取られる前に確保しておきたかった砂漠

イフニ

旧スペイン領


スペイン領時代の旗

1476年 スペインが占領
1524年 モロッコが奪還
1860年 スペインがモロッコから奪取
1912年 フランスがモロッコを保護領にしたのに伴い、フランスとスペインの条約で境界線を確定
1934年4月 軍政府を設置。スペインの実質的な統治下に入る
1957年8月 モロッコ軍がイフニに侵入
1958年4月 スペインが南部保護領をモロッコに返還
1969年1月 イフニ返還でスペインとモロッコが合意
1969年7月 イフニがモロッコに返還され、飛び地消滅

20世紀前半のモロッコの地図  黄色がスペイン領で、上から北部保護領、イフニ、南部保護領。赤い部分はタンジール国際管理地域
イフニの衛星写真  (google map)

 
外務省『アフリカ要覧』1966年(左)、外務省なのにオトボケな感じがいいですね。三省堂『世界地図』1943年(右)、アルゼリヤ・・・(笑)

モロッコの中部にあったスペイン領の飛び地で、面積は1502平方km。ほとんど全てが砂漠で、産業といえば海岸沿いの漁業かナツメヤシの栽培、そして遊牧民の放牧ぐらい。人口は少なくほとんど価値がないような土地で、15世紀にスペインはカナリア諸島のサトウキビ農場へ送り込む奴隷の中継地としてサンタクルスと名づけた砦を築いたが、50年足らずで放棄。19世紀半ばに改めてモロッコから獲得したものの、その後は長い間放置状態が続いていた。

じゃあなぜ改めて確保したのかというと、100km沖合にはスペイン領のカナリア諸島があり、他の国に取られたくなかったから。15世紀からスペイン(カステーリャ王国)が支配したカナリア諸島は農業が盛んで、スペインから中南米へ向かう船の補給基地だった。つまりイフニ自体に価値はなくても、イフニが他の列強の手に入り、対岸のカナリア諸島が脅かされたら困るということ。実際に1830年代にはイギリスやフランスが相次いでイフニの部族と商取引を始めていた。イフニは1880年代の列強各国によるアフリカ分割でスペイン領として確認され、1912年にフランスとの間でモロッコを分割した時にも、モロッコ中部を獲得したフランスにイフニは除外することを認めさせた(※)。

※この時のフランスとの条約で境界線が画定したが、イフニの領域はそれまでの1920平方kmから縮小した。
しかしスペインのイフニ領有は、あくまで「他の国に取られたくない」が目的だったから、、他の国がスペイン領だと認めてくれたらもはやどうでも良かった。1910年代にスペインは一応イフニを占領しようと試みるが、あまりやる気がなかったので失敗し、後は野となれ山となれ・・・いや砂漠になれの状態。

かくして実質的に統治する国がないイフニは、ゲリラや密輸の拠点になり、周囲を支配していたフランスにとってははなはだ迷惑だった。そこでフランスは軍事支援をするからとスペインに半ば強引にイフニ占領を迫り、1934年4月にようやく占領して軍政府を設置。スペインが本格的にイフニを統治するようになるのは、その後フランコ将軍がスペインの総統になってからだ。

戦後はスペイン人の入植が進み、牛の放牧のほかわずかな水を利用して大麦や果物の栽培、養蜂などが行われた。1950年は人口3万8000人、64年は5万1000人と増え、その60%がスペイン人だった(※)。一方で1956年に独立したモロッコはイフニの返還を要求し、58年から61年にかけて何度か武力併合を試みるが失敗する。スペインは南部保護領を58年に返還する一方で、それまで スペイン領サハラ (現在はモロッコが占領中)と一括していた行政を切り離し、イフニに知事を置いてスペイン本土の一部として取り扱い、死守する構えを見せた。

※もっとも少なからぬベルベル人遊牧民は住民登録をしなかったので、実際の人口や民族比率は不明。スペインが支配していた西サハラでも同様で、スペイン領サハラ時代(1973年)の人口統計では5万人だったが、現実にはもっと多かったはずで、現在の人口は27万人+難民10万人。国連ではモロッコが占領中の西サハラで独立の是非を問う住民投票の実施を決めたが、投票資格がある「スペイン領時代からの住民とその子孫」が確認できないので、実施できずにいる。
なぜまた急にスペインがイフニにこだわるようになったのかと言うと、セウタとメリリャの返還を拒否するためだった。スペインは1912年にフランスとのモロッコ分割で獲得した南北の保護領は植民地なので放棄したが、セウタとメリリャは「それ以前からのスペインの固有の領土」だからモロッコに返す必要はないと突っぱねていた。イフニも一応15世紀にスペインが支配し、19世紀にも認められていたので、それと同じ扱い。イフニは返してセウタは返さないでは、スペインなりの論理が矛盾してしまいかねない。

しかしモロッコが陸上交通を遮断して封鎖したため、セウタやメリリャと違って本土から離れ、砂漠が海に面しているので大型船の入れる港がないイフニは大打撃を受けた。国連からの勧告もあって、スペインは63年から交渉に応じるようになり、69年にイフニをモロッコへ返還したが、この時の交渉でスペインはイフニを返還するかわりに、モロッコがセウタやメリリャを武力併合しないことを約束させたと言う。重要な飛び地を守るために見捨てられた飛び地だった。

イフニには現在もスペイン時代に建設された教会や町並みが残っている。しかしスペイン人が去って人口は1万5000人に減り、町は時間が止まったように寂れたままだ。
 

●関連リンク

イフニの蝶蛾切手  イフニで発行されていた独自の切手
Sidi Ifni. 1000 m2 of Spain  イフニの観光ガイド。最果ての町って感じですね(英語)
Ifni  スペイン領当時(1959年)のイフニの写真があります(英語)
Cascon Case MOS: Morocco-Spain 1956-75  イフニ返還をめぐるスペインとモロッコの交渉経過について(英語)
Asociaci? Amigos de Ifni  イフニの昔や今の写真、その他さまざまな資料があります(西語)
 
 

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