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人民解放軍の「庭先掃除」に、アメリカが蒋介石を説得して撤退

大陳列島

旧中華民国(台湾)領

1949年10月1日 中華人民共和国が成立。ただし大陳列島一帯は国民党軍(台湾政府)の支配のまま残される
1954年5月15〜20日 人民解放軍が東磯島、高島、頭門島、龍金島、雀児岱などを占領
1955年1月18日 人民解放軍が一江山島に上陸。国民党軍の守備兵は玉砕
1955年2月11日 国民党軍が大陳島から撤退完了
1955年2月14日 人民解放軍が北鹿島、漁山列島を占領
1955年2月25日 国民党軍が南鹿島を放棄。浙江省沿岸から台湾政府の支配領域は消滅する

 
1950年時点で中華民国政府が支配していた主な島々(左)

Chinese Civil War  1946〜50年の国共内戦での勢力地図(英語)

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「中国と台湾」というと別々の国みたいですが、「中華人民共和国と中華民国」と言えば、同じ国だけど政権が違うだけみたいですね。台湾問題の本質は、そんなところにあります。

1949年10月1日、毛沢東が北京の天安門で中華人民共和国の建国を宣言した時、中国大陸はすべて共産党政権の支配下に入っていたかといえばそうではなく、蒋介石率いる国民党政権の中華民国は、首都・南京は人民解放軍に奪われたものの、まだ広州で政府を構えていた。そして10月14日に広州が陥落すると重慶へ、11月30日に重慶が陥落すると成都へ・・・と転々と逃げ回り、12月7日に大陸を捨てて台湾へ移った。ところがこの時点では、北は舟山諸島から南は海南島まで、台湾のみならず中国沿岸の島々の多くは、まだ中華民国の支配下にあった。

人民解放軍はもともと農村や山岳地帯を拠点にしていた共産ゲリラだから、海軍はおろか船はほとんど持っていなかった。なにしろ49年春、人民解放軍が上海に迫って来た時に、国民党の将軍は「な〜に、解放軍は長江を渡れっこないから上海は大丈夫」だなんて、ノンキなことを言っていたほどだ。さすがに長江は漁船やポンポン船や筏を総動員し、泳げる兵士は泳いで渡って人民解放軍は上海以南も占領したのだが、旧日本軍から接収したりアメリカから援助でもらった軍艦で艦隊を擁していた国府軍(国民党軍)には、海では太刀打ちできなかった。

1950年に入って人民解放軍は海軍を作り、沿岸の島々の「解放」に乗り出した。5月には海南島や舟山諸島、桂山島(香港の沖合にある島)を占領するが(※)、10月から人民解放軍は朝鮮戦争に出兵したため作戦は中断した。

※海南島は1930年代から山岳地帯に共産ゲリラの根拠地(『紅色娘子軍』という有名な革命映画の舞台)があったため、国府軍を海岸と内陸から挟み撃ちにして占領。舟山諸島は海南島の陥落で慌てた蒋介石が、兵力を台湾に集中させるため15万の国府軍を撤退させたので占領。桂山島は国府軍から寝返った軍艦が突入して占領した。
国府軍は残った福建省沿岸の金門・馬祖島と、浙江省沿岸の大陳列島を「大陸反攻」の根拠地にして、52年から53年にかけて、南日島や東山島(福建と広東の境)、玉環島(温州の沖合)などで上陸作戦を繰り返した。同時に中国沿岸で海上封鎖を続け、国府軍の軍艦が東シナ海を制圧していたために、中国側は上海より南では海上輸送ができず、漁船もうかうか出漁できないという状態が続いた。

1953年夏に朝鮮戦争が休戦すると、人民解放軍は再び島々の「解放」に着手する。海軍の実力から言って、台湾に近い金門・馬祖島の占領はまだ無理だということで、ターゲットに選ばれたのが大陳列島。大陳列島から国府軍を追い出せば、東シナ海の制海権と上海へ出入りする船の安全は確保できるということで、人民解放軍総司令の朱徳はこの作戦を清理門戸(庭先の掃除)だと称した。

人民解放軍の作戦は、1万6000人の国府軍が駐屯する大陳島は直接攻撃せず、まず周囲の無人島を占領して足場を作り、ここから1000人の守備隊がいる一江山島を砲撃し、一江山島へ上陸・占領して大陳島へ砲撃するというものだった。こうして人民解放軍は54年5月に無人島へ上陸し、高島に快速艇基地、頭門島に砲撃基地を建設。国府軍との間で空中戦や海戦が繰り返されたが、11月に人民解放軍の魚雷艇が国府軍の駆逐艦・太平号を撃沈したことで一帯の制海権を握る。そして55年1月18日に大陳島への空爆を続ける中で、一江山島への上陸を敢行して占領、支援がなく孤立した国府軍守備隊は519人が戦死、567人が捕虜になって全滅した。

台湾政府は「一江不保、大陳難守、大陳不保、台湾垂危(一江山島が保てなければ、大陳島は守れず、大陳島が保てなければ、台湾が危うい)」と守備隊に檄を飛ばしていたが、一江山島が陥落したことで、大陳島は人民解放軍の砲撃射程距離に入り、さしもの蒋介石もアメリカに説得されて大陳島の放棄を決断。アメリカはイギリスやポーランドを通じて中国側とコンタクトを取り、2月に人民解放軍が攻撃を停止するなかで、アメリカ第七艦隊の援護により国府軍の大陳島撤退作戦が実施された。大陳島では蒋経国が撤退の陣頭指揮を取ったが、17000人の島民もすべて台湾へ強制移住させられた。台湾政府は大陳難民に住宅を与え、漁民がほとんどだった旧島民に漁船を与えたが、台湾とは漁場も違えば漁法も違い、少なからぬ旧島民が船乗りとなってアメリカへ再移住したという。

こうして人民解放軍にとっては初の陸海空軍の共同作戦で大陳列島を占領したのだが、無人島への上陸を始めてから実に9ヶ月がかりだった。中国大陸を席巻したときの破竹の勢いとは打って変わった慎重さですね。

●関連リンク

古きよき時代の大陸各地の味  大陳島から台湾へ移住した人が開く郷土の味のお店を紹介
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遊遍天下−南鹿島  南鹿島の観光案内。鄭成功も一時この島を「大陸反攻」の拠点にしていたんですね。歴史は繰り返される・・・と(中国語・簡体字)復元サイト

参考資料:
『世界年鑑 1950』 (共同通信社 1950)
『世界年鑑 1955』 (共同通信社 1955)
平松茂雄 『中国人民解放軍』 (岩波書店 1987)
『中華民国総覧:日文版』 ( 台湾研究所 1989)
王徳健 『新中国戦史』 (中国:遠方出版社 1998)
蘇澳耆老座談會(九)港口,岳明  http://suao.gov.tw/%E8%98%87%E6%BE%B3%E9%87%87%E9%A2%A8/%E7%9B%AE%E9%8C%84.htm

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