このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
軍港としても商港としてもアテが外れた租借地
威海衛
Weihaiwei
旧イギリス領
威海衛の植民地旗。1902年まで(左)の黄色の部分は清朝の国旗。右は1902〜30年
1898年 英国が清朝から威海衛を25年間の期限で租借
1930年 英国が威海衛を中国に返還し、飛び地消滅
山東半島と威海衛の地図(1921年) 右側の赤枠で囲まれた部分がイギリス租借地。その周りのオレンジ色の部分は中立地帯
中国と満州国の地図(1933年) この時点でv威海衛は返還済みです
現在の威海市の地図 赤い部分(環翠区)がかつての租借地のようです中国におけるイギリスの植民地といえば香港が有名ですが、戦前には山東半島に威海衛という租借地もありました。
威海衛はその字面からなんとなく想像できるように、古くから海軍の拠点があった場所で、1398年に明朝が倭寇の襲来に備えて要塞を築いたのが始まり。清朝末期に威海衛は北洋艦隊の基地となったが、日清戦争で威海衛は倭寇ならぬ日本軍に海と陸から攻撃され、北洋艦隊は降伏した。
威海衛をイギリスが租借したのは1898年のこと。この年、ロシアは大連・旅順などの関東州を25年間租借し極東艦隊の基地にしようとすると、イギリスは「勢力均衡」を理由に山東半島の東端にある威海衛をイギリス東洋艦隊の根拠地として租借することを計画した。威海衛は渤海海峡を挟んで関東州とは目と鼻の先だし、威海衛の方が外洋側にあるので、旅順の軍港に出入りするロシア艦隊を監視することができる位置だった。
しかし、イギリスによる威海衛の租借計画には、ドイツと日本、そして清朝が反発することが予想された。同じ山東半島の膠州湾に租借地を持つドイツはイギリスの進出を警戒したし、日本は日清戦争で獲得した賠償金の支払いなどが実行されるまでの担保として威海衛を占領中、北洋艦隊を再建しようとしていた清朝も威海衛がイギリスに奪われれば艦隊の拠点がなくなることになる。
このためイギリスは、ドイツに対して山東半島で利権を確保する意図はないことを説明し、具体的には「威海衛に鉄道を建設しない」ことを約束。日本にはイギリスが威海衛を獲得することによってロシアの南下防止に対する日本の負担が軽減される点を説明して、それぞれ説得に成功。そして清朝には「威海衛の租借期限はロシアの関東州租借と同じ25年間とし、ロシアが関東州を返還すればイギリスも威海衛を返還する」「清朝の北洋艦隊の威海衛使用を引き続き認める」を条件に、威海衛租借を認めさせた。
こうして1898年5月24日、清朝から賠償金を獲得した日本軍が威海衛から撤退すると、翌日イギリスが代わって占領した。日本軍が使用していた兵舎などはイギリス軍へ無償で譲渡され、喜んだイギリスは日本に感謝状を贈っている。
ところが威海衛は思ったより「使えないシロモノ」だった。威海衛の人口は約15万人で、231の村があったが、町と呼べる場所は城壁に囲まれた威海衛城だけで、ここは中国領のまま残された。イギリスは威海衛城の北側に碼頭街(ポート・エドワード)という新しい町を築き、政庁を設置して行政長官を派遣。湾内の劉公島には1000人のインド兵を駐屯させ、イギリス東洋艦隊の拠点として使用し始めたが、威海衛湾は入口が広く、ここを防衛するには多大な軍隊を貼り付けねばならず効率が悪いことがわかり、イギリスは方針を転換。威海衛を関税のかからない自由港(フリー・ポート)に指定し、貿易拠点として発展させようとしたが、この時すでに西側の 芝罘 (現在の煙台)が山東半島の貿易港として繁栄していたし、威海衛は「鉄道を建設しないこと」を約束させられていたので、これも将来性は見込めなかった。
かくしてポート・エドワードの町は閑散としたままで、 太古洋行(スワイヤ) 、 和記洋行(ハチソン) 、 三井 などの商社が出張所を置いたものの、中国におけるイギリス植民地や租界の金融大本営だった 香港上海銀行(HSBC) は支店を開設せず、威海衛在住の外国人は100人足らずに過ぎなかった。またイギリス東洋艦隊も威海衛に本格的な軍事基地を建設するのは止め、もっぱら夏場に避暑療養地として利用することにし、劉公島には海軍病院が作られ、内陸部の温泉場にも療養施設が建てられた(※)。
※この温泉は日本軍が占領していた時に、小橋さんという日本人が発見したらしい。1912年(大正元年)に日本の芝罘領事館が行った調査によると、威海衛在住の日本人就業者は17人で、うち温泉経営が1人、貸座敷(芸者屋)経営1人、娼婦6人。当時はまだ「からゆきさん」全盛期で、山東半島の青島、芝罘、済南などの都市でも、日本人在住者の職業は「娼婦」が圧倒的に多かった。さて、関東州は日露戦争の結果、1905年にロシアから日本の手に移り、イギリスが威海衛を租借する根拠はなくなった。イギリスとしても威海衛政庁は大幅な財政赤字が続き、軍港としても商港としても利用できない威海衛を、ホンネでは中国へ返還してしまいたいところだが、うかつに返還してしまうと中国側の租界返還要求を煽ってしまう結果になりかねず、手をこまねいていた。そんなイギリスに威海衛処分のチャンスが到来したのが、1921年から22年にかけて開かれたワシントン会議。中国は第一次世界大戦では連合国側として参戦し、戦勝国の一員だった。そこで1919年のパリ講和会議では、日本が占領してしまったドイツ租借地の膠州湾や、その他の租借地の返還を要求したが、列強諸国に拒否された。このため中国各地ではベルサイユ条約反対の運動(五四運動)が盛り上がり、租界・租借地返還や不平等条約撤廃のナショナリズムが高揚していた。
そこでワシントン会議では、中国が要求した租借地・租界の返還と不平等条約撤廃や、アメリカが提唱した中国の領土保全や門戸開放・中国進出の機会平等に調子を合わせて、イギリスは「みんなで租借地を1つずつ中国へ返そう」と言い出した。つまりイギリスは北九龍(香港の新界地区)はキープして威海衛を返還、日本は関東州をキープして膠州湾を返還、フランスは広州湾を返還すると、なんだか「三方一両損」みたいなことを呼びかけて、日本とフランスに同意させた(※)。イギリスにとって威海衛はお荷物だったし、租借期限も1923年に迫っていたわけで、返還したところでちっとも腹は痛まない。手放すつもりだった租借地をエサに、他国の租借地も手放させることに成功したわけで、例によって腹黒紳士たるイギリスの狡猾な戦術でしょう。
※いったんは広州湾の返還を発表したフランスだったが、さすがに「イギリスと日本は租借地を1つずつ残しているのに、自分だけゼロになるのはやっぱり損だ!」と考え直し、広州湾返還は結局ウヤムヤとなった。イギリスは中国と威海衛の返還交渉を始めたが、返還にあたってさまざまな条件を付けたため難航し、やがて北伐(1926〜28年)によって中国側の交渉相手が北京の北洋政府から南京の国民政府に変わって中断。新たに実権を握った国民政府は「租借地返還」の実績を国民へアピールするためにイギリスの要求に大幅譲歩し、租借期限から7年遅れの1930年に威海衛返還は実現したが、「劉公島をイギリス艦隊に10年間提供」「墓地や倶楽部、ゴルフ場などの用地を30年間無償貸与」「威海衛でイギリスが施行した各種規定の維持」「エドワード港の開放」「外国人の土地所有などの既得権維持」などの条件がついた。つまりイギリスは劉公島の軍事利用は続ける一方で、赤字経営だった威海衛の行政運営は中国側に返還しつつ、既得権はしっかり確保したことになり、「名を捨てて実を取った」ということになる。威海衛は「使えないシロモノ」だった割には、イギリスは最後まで交渉のタネとして使い倒したようだ。
中国返還後の威海衛は、中央政府直轄の 特別行政区 として「威海衛行政区」となった(※)。中国政府が威海衛を特別扱いしたのは、イギリスとの返還交渉で決まった各種の特例制度の実施と、将来的に軍港として整備する構想があったからだが、1945年に威海衛市というフツーの市になり、共産党政権樹立後は威海市に改称しています。
※国民党政権時代に「特別行政区」とされた場所には、他に1924年に接収したロシア系の 中東鉄道附属地 があった。現在、共産党政権が「特別行政区」としているのは、1997年にイギリスから返還された香港と、99年にポルトガルから返還されたマカオ。
★威海衛の中の中国領の飛び地:威海衛城 Weihaiwei Walled Cityギザギザで囲まれた威海衛城の右上が碼頭(街)1898年にイギリスが威海衛を租借した時に結んだ条約では、威海衛のうち旧来からの城壁都市だった威海衛城は租借地から除外され、中国政府の官吏が引き続き常駐して城内の行政運営を行うとされた。これは同じ年にイギリスが租借した北九龍(新界)で 九龍城砦 が租借地から除外されたのとまったく同じ。九龍城砦では翌年、中国側の官吏が「香港防衛の軍事活動の妨げになった」という難癖を付けられて追い出され、以後はどこの国の法律も適用されない無法地帯となってしまったのは有名だが、威海衛城ではイギリスはそんなインネンをつけることはなく、1930年の返還まで中国政府から派遣された役人が統治し続けた。つまり香港とは違って、威海衛はそれだけ利用価値がなかったので、イギリスとしても事を荒立ててまで中国政府の役人を追い出す意欲も湧かなかったということでしょう。もし威海衛が軍事拠点または貿易拠点として重要な場所だったら、威海衛城は九龍城砦並みに悪名を轟かせていたかも・・・さ〜て、どうでしょうね?
九龍城砦のようにならずに済んだ威海衛城の東門(1910年代)★威海衛の中立地帯
こちら を参照してください
●関連リンク
中国威海 現在の威海市の公式サイト(中国語)
中国威海 ↑の日本語版
戦史 日清戦争 威海衛の海戦と占領について
日清戦争 黄海海戦 威海衛の海戦について詳細な解説
参考資料:
伊東 祐穀『世界年鑑 第7回』 (博文社 1911)
田原天南 『膠州湾』 (満州日日新聞社 1914)
鉄道院 『朝鮮満州支那案内』 (丁末出版社 1919)
西山栄久 『改訂最新支那分省図』 (大倉書店 1921)
『標準世界地図』 (東京開成館 1922)
西山栄久 『最新支那地理』 (大阪屋号書店 1928)
植田捷雄 『支那租借地論』 (日光書院 1943)
費成康 『中国租界史』 (中国:上海社会科学院出版社 1991)
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |