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平和の到来が過疎化をもたらした島
烏丘
中華民国(台湾)領
1949年 中華人民共和国の成立により、福建沿岸の漁民や国民党兵士が移住
1992年 烏丘地区で臨時戒厳令を解除
台湾海峡と烏丘の地図 Wu Chiu Yu(=烏丘嶼)がそれ(英語)
烏丘(大丘と小丘)の衛星写真 (google map)中華民国政府、つまり台湾政府が中国大陸沿岸に確保している「反攻大陸」のための拠点といえば、金門島と馬祖島が知られているが、実はもう1ヵ所、烏丘という拠点がある。場所は金門島と馬祖島のほぼ中間、大丘と小丘の2つの島からなり、福建省金門県の管轄下にある。
烏丘はかつては無人島で、中国大陸の漁民が立ち寄るくらいだった。1898年にイギリス人が灯台を建て、灯台守の2家族が定住するようになったが、1949年に中国大陸に共産党政権ができると、烏丘には漁民や国民党軍兵士が押し寄せ、人口はたちまち1000人を超えた。小さな島では食糧の奪い合いが起きて混乱が続いたが、朝鮮戦争が始まると台湾政府は大陸への反撃拠点としてこの島を重視し、食糧や弾薬などの補給を開始。島に残っていた兵士たちを反共救国軍というゲリラ部隊に再編成し、南日島など人民解放軍が占領している周辺の島々へたびたび上陸作戦を繰り返した。しかしこれらの作戦はせいぜい数日間占拠できただけで失敗し、台湾側は逆に浙江省や福建省沿岸で確保していたいくつかの拠点を失うことになった。
朝鮮戦争が終わると烏?には村役場が設置され、定住者のために漁業の振興が行われた。台湾海峡を挟んでにらみ合う国民党と共産党の対立で、烏丘沖でも65年11月に国共両軍の海戦が勃発し、台湾側の砲艦「永昌号」が撃沈される事件が起きたが、たいした軍事基地がなかった烏丘は、金門島や馬祖島のように大規模な砲撃にさらされることはなかった。そして70年代半ば、毛沢東や蒋介石といった国共内戦を率いた指導者が相次いで死去すると、中国と台湾の軍事対立は事実上終結。台湾では87年に戒厳令が撤廃されたが、烏丘でも少し遅れて92年に臨時戒厳令が解除され、フツーの島に戻ることになった。
ところが烏丘にとって、平和の実現はたちまち衰退をもたらした。緊張緩和によって島の周囲には大陸の漁船が押し寄せ、爆弾漁法などで魚を根こそぎ捕っていったため漁業資源は枯渇。また兵力削減で島の駐屯部隊は400人程度に縮小し、軍人相手の商店は売れ行きがさっぱりとなった。生活が苦しくなった住民は続々と台湾へ移り、島の定住者は大丘が40人足らず、小丘はわずか6〜7人にまで減っている。
こうして住民がほとんどいなくなった烏丘は、原発から出る放射能廃棄物の再処理施設の建設候補地に挙げられたが、環境団体の反対などで計画は凍結。現在の島には国共内戦前のように中国大陸の漁民が立ち寄り、駐屯している台湾の軍人もこれを黙認しているようだ。
※烏丘の丘は、正しくは「土ヘンに丘」です
●関連リンク
金門県政府 烏丘郷のHPもあって村長さんの顔が拝めます(中国語)
owoo net 烏丘を紹介する個人サイト。島の写真がたくさんあります(中国語)
電子個人報 烏丘の歴史が投稿されています(中国語)
中国軍艦博物館 烏丘海戦で人民解放軍に撃沈された「永昌」が紹介されています(中国語)
自由新聞電子網 放射能廃棄物の再処理施設の建設計画が凍結されたというニュース(中国語)
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