このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

「幻のソ連」が生き続けている国

沿ドニエストル
 
首都:ティラスポリ 人口:63万3600人(2001年)

1990年9月2日 ソ連国内で沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国が、モルドバ・ソビエト社会主義共和国からの独立を宣言
1990年12月22日 ソ連政府は沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国の成立を承認せず
1991年8月27日 モルドバ共和国がソ連からの独立を宣言(ソ連は12月25日に承認)
1991年11月5日 沿ドニエストル共和国が独立を宣言。翌月から戦闘となる
1992年7月 モルドバと沿ドニエストルとの間で停戦が成立

沿ドニエストル共和国の地図  

モルドバ共和国の地図。緑は独立した沿ドニエストル共和国、
黄色は独立を断念したガガウス・イェリ自治共和国
「沿ドニエストル共和国」だなんてヘンな国名だと思う人もいるでしょうが、ドニエストル川に沿った国なんだから、しょうがありません。沿ドニエストルは川を挟んでモルドバと向かい合い、南北約200km。東西は広いところで20km、狭いところだとわずか4kmしかない。

モルドバ人とは、民族的に言ってほとんどルーマニア人。かつてルーマニアはオスマントルコに、モルドバはロシアに支配されていたが、第一次大戦から第二次大戦までの間、モルドバ(当時はベッサラビア)はルーマニア領だったこともある。

ソ連が崩壊してモルドバ(当時はモルタビア)が独立した際、モルドバ人の間では「ルーマニア民族主義」が台頭した。新生 モルドバの国旗 はほとんど ルーマニアの国旗 と同じだし、唯一の公用語となったモルドバ語(=ルーマニア語)では従来のキリル文字に代えてラテン文字が採用され、ルーマニアに併合してもらおうという主張まで現われた(現在でも、ある)。

これに反発し、危機感を抱いたのがウクライナとの国境沿い、つまりドニエストル川東岸に住んでいたロシア人たち。ドニエストル川東岸は歴史的にもルーマニア領だったことはなく、モルドバがルーマニア領だった時もソ連領(ウクライナ領)だった。ロシア人にとってみれば、ソ連時代は自分たちが「一等国民」だったのに、モルドバが独立すると「二等国民」に格下げされてしまうような感じも、実感としてあった。そこでソ連末期の90年に2回の住民投票を行った結果、96%と98%という圧倒的多数でモルドバからの独立を決定。モルドバがソ連から独立した時にも、改めて沿ドニエルトルの独立を宣言したが、沿ドニエステルはモルドバのGDPの40%を占め、電力の90%を供給する重要地帯だったため、モルドバ側が独立を認めるはずはなく、戦闘になった。

ドニエストル川東岸に駐屯していたロシア軍が独立軍を支援したため、半年に及んだ戦闘で独立軍は東岸を確保したうえ、首都ティラスボリ周辺では西岸の一部(ベンデル)も確保して停戦が実現。その後もロシア軍が平和維持軍として駐留し続け、沿ドニエストル共和国は実効支配を続けているが、ロシアも含めて沿ドニエストル共和国を承認した国は存在しない。現在ではモルドバ側が沿ドニエステルの経済封鎖を宣言したり、これに対抗して沿ドニエステル側がモルドバへの電力の供給をストップしたりという事件はあるが、両国の国民は身分証明書の提示だけで自由に行き来をしているようだ。

沿ドニエステルの住民で一番多いのは実はモルドバ人で、民族別の人口はモルドバ人40%、ウクライナ人25%、ロシア人23%の順。一方でモルドバではモルドバ人65%、ウクライナ人14%、ロシア人13%で、両国に極端な差があるわけではない。沿ドニエステル独立の原因は、民族的な対立というより体制のあり方をめぐる対立で、ルーマニアと接近し欧米式の改革をしようというモルドバ側に対して、沿ドニエステルではロシアとの密接な関係を続けて旧来の体制を維持しようと指向した。

沿ドニエステル共和国では独自の通貨(沿ドニエステル・ルーブル)を発行しているが、コインには旧ソ連の「鎌トンカチ」の徽章が描かれ、沿ドニエステル政府が発行するパスポートには、CCCP(ソ連の略称)と銘記されている。つまり沿ドニエステル政府は、現在でも「ソ連の一員」のつもりらしい。

沿ドニエステル共和国では、いずれ住民投票を実施してロシアへの併合を求める動きがあるらしい。実現したら第二の カリーニングラード のようなロシアの飛び地が出現することになるが、モルドバでは親露派の共産党政権が誕生してロシアとの関係改善の兆しもあるし、ロシアが「併合要請」を受け入れるとはまず思えないですね。

●関連リンク

在ウクライナ日本大使館 モルドバ概観  
旅人の沿ドニエストル共和国(ПМР)についてのホームページ
(旧)ユーゴだより  モルドバから沿ドニエステルへの訪問記

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