このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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昔:関所の町、いま:酒が飲める町

ダマン

旧ポルトガル領

1557−1559年 クジャラートの貴族がポルトガルに割譲
1961年 インドが軍事侵攻し併合

ダマンとダドラ・ナガールアベリーの位置関係図(1956年)
ダマンの地図
植民地時代のインドの地図  黄色でマークしてある都市がポルトガル領
ダマンの衛星写真  (google map)

ダマンは古い歴史のある町で、ダマンガンガ川の河口の港として紀元前後から存在していたらしい。しかしポルトガルがここを占領したのは16世紀半ばすぎになってからで、当時インド西岸にたくさんあったポルトガル植民地の中ではかなり遅いほうだ。

それというのも、ポルトガルがダマンを占領したのは、ここで貿易を行うためというより、哨戒基地とするためだったから。ポルトガルは西洋とインドとを結ぶ貿易を独占した後は、沿岸貿易を含む全ての海上貿易を支配下に置くことを目指し、インドの海岸を行き来する地元の船にもカルタス(通行手形)を購入させ、ポルトガルに関税を支払うよう求めていた。当時、インド西部の大国だったクジャラートの貿易中心地はガンベイ湾。ディウに続いてダマンを占領すれば、ガンベイ湾の封鎖線が完成して、クジャラートに出入りする船にカルタス購入を強要することができるというわけ。ポルトガルはダマンを獲得するために攻撃をしかけたり、はたまた王に使節を送ったりと、手を替え品を替えて働きかけていたが、1557年にクジャラート王国の内紛に付け込んで、地元の貴族に割譲させ、2年がかりでエチオピア人の守備兵を追い払って占領した。

ポルトガルの海上覇権は、オランダの進出によって17世紀には早くも崩れるが、18世紀後半にはダマンの内陸部にあるダドラとナガルアベリーが飛び地として加わり、この一帯で産出する木材の積み出し港となった。ダドラとナガルアベリーの面積はダマン(72平方km)の7倍で、1930年代の人口はダマン1万7500人に対して、ダドラとナガルアベリーは3万5000人だったが、1954年にダドラとナガルアベリーはインド人に実力占拠されてダマンは風前の灯となり、61年にはインド軍に占領された。

インド併合の後、ダマンやディウは地元のクジャラート州には編入されず、連邦直轄地として別個の行政区分になったが、おかげでダマンは「空前の繁栄」をしているらしい。というのはクジャラート州は法律で酒を禁止しているが、ダマンはクジャラート州じゃないので禁酒法が適用されない。そこでディウともども「酒が飲める町」として地元じゃ有名になっているとか。

そういえば中国返還後のマカオも、特別行政区としてカジノと風俗産業で賑わっています。東ティモールでも カジノで国づくり という構想がありましたが、ポルトガルの旧植民地ってロクな発展の仕方をしないですね・・・。宗主国が「産業を育成する」という能力に著しく欠けているとこういうことになるのでしょう。ま、結果的に「不健全な産業」でも潤っているんだから、それはそれで良いんだけど。

●関連リンク

Portuguese flavour at Daman ダマンの教会の写真があります(英語)
Daman ダマンのあちこちの写真があります(英語)
 
 

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