このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

インドの西の入口にあたるアラビア海の要衝

ディウ

旧ポルトガル領

1535年 ポルトガルが島の先端に要塞を建設
1554年 ポルトガルがクジャラート王国からディウ島全体の統治権を得る
1772年 ポルトガルがシンボール村を占領し、ディウの飛び地にする
1961年 インドが軍事侵攻して占領

ディウの地図  イラスト風色
植民地時代のインドの地図  黄色でマークしてある都市がポルトガル領「ヂウ」というのがディウです
1955年のディウ一帯の地図  
ディウの衛星写真  右側から突き出した半島がゴゴラ村(WikiMapia)

ポルトガル領インドといえばまずゴアだが、他にもいくつか飛び地があった。ディウはインド西部のアラビア海に突き出た長さ13km、幅3kmの島で、面積38.5平方km、ポルトガル植民地末期の1961年の人口は1万4280人、現在の人口は約2万3000人。インド政府によって武力併合された後は、クジャラート州には編入されずダマンとともに連邦政府直轄州となり、ディウ島と本土は現在では2つの橋で結ばれている。

ディウはインドの西の入り口に当たるアラビア海の要衝で、14世紀からはオスマントルコが支配していたが、そこに新たに乗り込んできたのがポルトガル。1509年のアルメイダ副王率いるポルトガル艦隊はディウ沖海戦でマルムーク朝(エジプト)の艦隊を打ち破り、インド洋の制海権を手にした。この海戦でポルトガル人はヨーロッパとインドの間の貿易を、アラブ人やトルコ人などイスラム教徒の手から奪うことになる。

こうしてヨーロッパとアジアとの貿易を独占したポルトガルが次に目指したのは、沿岸貿易を含む全ての海上貿易を支配下に置くことだった。ポルトガルは1510年、ゴアに本格的な拠点を築いたのをはじめ、16世紀初頭にインド西南部からペルシャのホルムズにかけて主要な港に要塞を築くとともに、それ以外の港を攻撃して焼き払ったりした。ポルトガルの支配下に置かれた港では、関税を徴収し、さらに沿岸貿易も含めてアラビア海を航行する船は、すべてポルトガルからカルタス(通行手形)を購入しなくてはならなくなった。ポルトガルの船はアラビア海を常時哨戒し、カルタスを取得していない船を発見すれば乗組員を捕らえ、積荷を没収した。ポルトガルにとってアラビア海を効率的に哨戒するためにはディウに砦を築くことはぜひとも必要だった。

しかしディウにはなかなか砦が築けなかった。ポルトガルはアルメイダの後を継いだアルブケルケ副王自らが交渉に訪れたり、はたまた何回も艦隊を繰り出してディウを攻撃したが、ディウは島の形自体が天然の要塞であって難攻不落。ディウは当時、クジャラート王国の領土だったが、ディウ総督のマリク・アヤースはポルトガル人との貿易を歓迎しながらも、要塞建設の要求に対しては「国王の許可が出ていないから、なんとも返事ができないのです・・・」とのらりくらりとかわし続けた。彼はディウでの関税徴収で大きな財産を築いていたため、ポルトガル人との貿易は利益になるが要塞建設を認めたら関税収入も奪われることがわかっていたのだ。

マリク・アヤースが1522年に死んだ後、ディウ総督を継いだ息子も同じようにのらりくらりとポルトガル人の要求をかわしていたが、宮廷の内紛に巻き込まれて失脚してしまう。そして1535年、ムガール帝国に攻撃されたクジャラートの国王バハードゥルは、ポルトガルの援軍を期待してディウに要塞を築くことを認めた。しかし、間もなくムガール帝国は攻撃の矛先を新たに台頭してきたビハールのシェール・シャーに切り替えてクジャラートから立ち去った。このためバハードゥルはディウにポルトガルの砦を築かせたことを後悔し、ポルトガル船まで出向いて要塞の取り壊しを乞うが、陸へ戻る際に海に落ちて溺死してしまう。

もっともこの時点ではポルトガルは島の先端に砦を築いただけで、ディウの町へ取引に出ても夜には必ず砦へ戻らなければならなかった。それでもいまいましく思ったクジャラート王国はポルトガル人を追い出そうと何度も攻撃を仕掛けるが後の祭り。攻防が入れ替わって難攻不落の要塞は容易に陥せず、結局クジャラート王国の内紛に付けこんで、ポルトガルは1554年にディウ島全てを占領してしまった。

その後17世紀に入るとオランダやイギリスの進出で、ポルトガルの海上支配は崩れて、カルタス発行や関税の収入は減り、19世紀にイギリスがインド支配を確立すると、ディウは貿易港としての歴史も失われてしまう。それでもイギリスはポルトガルの記念物のような飛び地を放置してくれたが、戦後独立したインドはわずかな植民地支配の残滓でも見逃すわけにはいかなかった。

アジア・アフリカで反植民地の独立運動が高まるなか、中国・エジプト・インドネシアとともに非同盟諸国の盟主を自認していたインドにとって、国内にいまだフランスやポルトガルの植民地が残っているのは面子に関わる問題だった。そこで1954年、インド人による「義勇軍」が飛び地状に散らばっていた植民地に押しかけ、ネを上げたフランスはポンディシェリーなど4ヵ所の植民地を返還。一方でポルトガル領はダマンの内陸にあった飛び地・ダドラとナガルアベリーがインド人に実力解放され、ディウでも本土側の飛び地が一部占拠されたが、ポルトガルは軍隊を出動して徹底反撃した。しかし1961年、こんどは本気になったインドが政府軍を繰り出して植民地を攻撃するとポルトガル軍はひとたまりもなく降伏。450年に及んだインドのポルトガル植民地はあえなく幕を閉じたのでした。




★ディウの飛び地:ゴゴラ村とシンボール村 

ゴゴラ村の海岸
シンボール村の海岸  要塞らしきものが遠くに見えます
シンボール村とパニコタ砦の衛星写真  (WikiMapia)

ディウには飛び地のさらに飛び地のような形で、本土側にゴゴラ村(Ghogla)とシンボール村(Simbor)があった。ゴゴラ村はディウ島の東北端と干潟で繋がっていて島の入口といえる場所。シンボール村はディウから東へ20km離れた海岸で、1772年にポルトガルが占領し、 海岸の要塞 (シマルコタ)や沖合の パニコタ砦 (海岸から海底トンネルでつながっていたらしい)、 灯台 などがあった。で、下の記事によると、シンボール村はディウより一足早くインド人が奪還したようだ。


ディウ島とその入口のゴゴラ村、右側に飛び地のシンボール村とパニコタ島(1955年)


1954年8月16日付『毎日新聞』
「シナール村」というのはシンボール村、「チョグラ村」というのはゴゴラ村のことらしい

●関連リンク

ポルトガル人のインド洋支配  かつて葡領インドで発行された記念切手。インド独立後にこんな「植民450周年切手」を出されたら、インド人が激怒するのも当たり前ですね
世界の都市  1572年のディウの絵
nt1129さんの旅行記 >  India 8/Diu   ディウの城砦や町の写真がたくさんあります
Diu Pictures  ディウの街や砦の写真(英語)
TravelBlog   ディウの町や村の写真がたくさんあります(英語)
 
 

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