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性風習か強姦かで揺れる反乱水兵の「落人島」

ピトケアン島

イギリス領

1790年 バウンティ号反乱事件の乗組員らが上陸
1829年 イギリスが領有宣言
1897年 フィジー総督の管轄下に
1970年 フィジー独立に伴い、ニュージーランド駐在の高等弁務官の管轄下に

  

ピトケアン諸島の位置(右下の方です)
ピトケアン島の地図

「絶海の孤島」という表現が世界で最もピッタリ来る場所が、南太平洋の英領ピトケアン島だ。人口わずか45人ほど。一番近い有人島のマンガレバ島へは400km、政庁があるニュージーランドまでは5310kmも離れ、飛行場は無く、外部との交通はニュージーランドから北米へ向かう貨物船が3ヶ月に1回寄るだけというから、相当なものだ。一体なぜこんな辺鄙な場所に住みついた人たちがいるのだろうと思いきや、辺鄙な場所だからこそ住みついたのが真相。この島はバウンティ号反乱事件の首謀者たちの子孫が住む「落人島」なのだ。

時は18世紀後半のこと。イギリスはアフリカから連れて来た黒人奴隷たちを使い、北米大陸に続いてカリブ海の西インド諸島の開拓を進めていたが、アメリカ独立戦争のおかげで、アメリカから西インド諸島への食糧供給が途絶えてしまう。そこでイギリスが思いついたのがパンの木。南太平洋の島々には直径20〜30センチの大きな実のなる木が生えていて、焼けばパンそっくりな味になるという(実際はサツマイモの味と似ているらしい)。このパンの木を南太平洋から西インド諸島まで運んで植えれば、食糧問題は一挙に解決というわけで、英海軍のバウンティ号にパンの木輸送作戦を命じたのだ。

こうして1787年、イギリスを出航したバウンティ号は2年後にタヒチでパンの木の苗木を積み込んで西インド諸島へ向かったが、間もなく船上で水兵たちに反乱を起こされ、ブライ船長と彼に味方した18人の乗組員は小型ボートで追放されてしまう。反乱の原因は、水兵たちがタヒチで女に溺れて戻りたくなったとか、「パンの木さま」を枯らさないようにと乗組員の飲み水が制限されたとか、ブライ船長が何事にも厳しすぎたためと言われている。追放されたブライ船長は48日間の漂流の末、5600km離れたオランダ領インドの西ティモール(今のインドネシア)へ辿りつき、奇跡の生還を果たしたが、後に別の船でも反乱を起こされ、オーストラリアの地方総督に就任してからも「ラム暴動」という反乱事件が起きて、本国からの援軍が来るまで2年間監禁されていたというから、「反乱を起こされやすい性格」だったのでしょう。イギリスを出航した当時は弱冠34歳だったから、「若造のクセに生意気な船長め!」と恨みをかったんでしょうね。

さて、反乱を起こした水兵ちはひとまずタヒチ島へ戻ったが、当時は水兵が反乱を起こせば死刑が常識。そこで反乱の首謀者クリスチャン率いる9人は、タヒチ人の女12人と男6人、それから豚、ニワトリ、サツマイモ、タロイモなどをバウンティ号に積んで、やがて来るであろう追っ手の目につかない島を目指して出航。こうして1790年に辿りついたのが「絶海の孤島」であるピトケアン島だった。一方でタヒチに残った16人は島の傭兵となったが、91年にイギリスからやって来た戦艦に捉えられ、4人は護送途中に船が沈んで水死、イギリスまで送られた3人は絞首刑になった。

じゃあタヒチを脱出したのは正解だったのかといえば、そうでもない。ピトケアン島に上陸した一行は、証拠隠滅のためバウンティ号に火をつけて沈め、自給自足のサバイバル生活に入ったが、やがて男同士の殺し合いが始まり、文字通りの「サバイバル」になってしまったのだ。女をめぐるトラブルをきっかけに奴隷のようにこき使われていたタヒチ人が何人かの水兵を殺し、残った水兵がタヒチ人を殺し、今度は水兵同士で殺し合いを始める・・・といった有り様で、島を逃げ出そうにもバウンティ号は沈めてしまったため、それも不可能。結局、18年後にアメリカの捕鯨船が訪れた時、島で生きていたのは女10人と子供23人、そして男はジョン・アダムスただ1人だけだった。

アメリカ船は島民たちの生い立ちについてあまり関心を払わなかったようだが、1814年に島を訪れたイギリス船が、ここがバウンティ号反乱水兵の「落人島」であることを発見すると、イギリス本国ではたちまちビッグニュースとなった。アダムスは1825年にイギリス国王の恩赦で反乱の罪を許された後、29年に62歳で死んだ。島で最後に生き残った男だから、さぞや凶暴な人だったのかと思えば、そうでもなかったらしい。アダムスは女や子供たちにキリスト教を熱心に説いた。現在、ピトケアン島の人々はクレオール語と呼ばれる混成語を話しているが、これは英語を基礎にしてタヒチ語が混じったもの。10年以上にわたって島で英語を母語とするのはアダムス1人だったし、子供達はふつう母親の言語の影響を大きく受けるはずなのに、島で英語が基礎となったのはアダムスがたった1冊だけ持っていた本(聖書)をもとに、子供達に英語の読み書きを教えたためだった。

イギリス船による再発見の後、ピトケアン島にはオーストラリアとアメリカを結ぶ船が訪れるようになり、外部との完全な隔絶生活は終わりを告げた。英国の教会からは日用品などの援助物資が届くようになったが、不便な生活や水不足を心配したアダムスは島民たちをオーストラリアへ移住させてくれるように求めていた。1831年になってイギリスは軍艦を派遣して島民全員をタヒチへ移したが、ピトケアン島で生まれ育った人たちは病気に対する免疫がほとんどなかったため、バタバタと倒れてしまった。そのため半年後、島民たちは再びピトケアン島へと戻ってきた。

しかし島の人口が増え100人を超えると、再び水不足や土地不足が深刻となる。そこで今度はタヒチ移住の教訓から無人島へ移ることに決め、56年に194人の島民全員がオーストラリアに近いノーフォーク島(現在はオーストラリア領)へ移住した。ノーフォーク島ではさして不自由のない暮らしをしていたものの、やがて島民の中からピトケアン島への郷愁を抑えきれなくなる者も現れて、58年から64年にかけて6組の家族がピトケアン島へ戻っていった。このためピトケアン島から5000km離れたノーフォーク島では、現在も同じクレオール語が話されている。

ピトケアン島の人々は、農業や漁業で自給自足の生活を続けながら、島に立ち寄った船に水や食糧を売り、かわりに日用品を購入するなどして暮らしていく。やがて飛行機の時代となり、また船も大型化・高速化したことで島に寄る船は減ったが、変わって島の収入源となったのがコレクター相手に販売するオリジナルの切手。切手の売上げが落ちてきた最近では、インターネットの独自ドメイン「pn」の売り出しも図っているらしい。

島にはイギリスの政府機関はなく、フィジー総督が管轄していたが、1970年にフィジーが独立するとニュージーランドに駐在しているイギリスの高等弁務官がピトケアン島総督を兼任するようになった。つまり島民が政府に用がある時には、「外国」であるニュージーランドへ行かなくてはならないという奇妙なことになったが、ニュージーランドも英連邦なのでビザの問題はないし、島から外へ出るにはニュージーランド行きの貨物船しかないので、住民にとってはかえって好都合だ(後にそれがトンでもないことになる)。

実際に、20世紀に入ってから、高等教育を受けるにも現金収入を得られる出稼ぎをするにも、島民たちはニュージーランドに頼って暮らして来た。そのまま移住してしまう島民も相次ぎ、島の人口は1937年の233人をピークに減少を続け、68年には76人、96年には58人、そして現在では45人ほどが島に残るだけ。また島の母親たちはほとんどニュージーランドの病院で出産するため、現在では島の子供は生まれながらにしてニュージーランドの居住権を持っている。そう遠くない将来、絶海の孤島たるピトケアン島は再びもとの無人島に戻ってしまうのかも知れない。

・・・・と、思っていたら、ピトケアン島は「そう遠くない将来」どころか、近いうちに無人島化しかねない事態になってしまった。最近、少なくとも過去40年間にわたって島の成年男子のほとんどが14歳以下の少女と性行為をしていたことが明るみになり、 裁判にかけられる というのだ。事件が発覚したのは1999年にイギリスの婦人警官が研修で島を訪れた時のこと。島の女性たちと食事をしている時に、この島の「不祥事」を知り、ニュージランドで高等弁務官兼総督に報告。驚いたイギリス警察は2年以上にわたって捜査を行った結果、強姦罪や強制猥褻罪にあたるという結論を下したが、困ったのが裁判をどこで開くか。ピトケアン島にも一応名ばかりの法廷はあるが、実際に刑事裁判が開かれたことはないし、島には裁判官も弁護士もいない。そこでイギリスとニュージーランドは協定を結び、ピトケアン島の事件をニュージーランドの裁判所で扱うことに決めた。ニュージーランドは英連邦の国だしイギリス式の普通法を採用しているので問題ないということだが、これに島民達は猛反発している。

そもそも何が犯罪にあたるかは、その国や民族の文化・慣習や時代背景によって判定基準が異なる。イスラム国では酒を飲んだだけで犯罪だ。性に関しても、日本では13歳以下の少女との性行為は合意があっても強姦罪や強制猥褻罪にあたるが、10数年前から淫行条例ができて18歳未満でも犯罪になった。

同じ法律の下でも、どのケースが有罪か、どのくらいの刑罰がふさわしいかを判定するのは裁判官。10年ほど前に当時はイギリス植民地だった香港で、地下鉄の駅でいきなり女性に抱きつきキスをした男が強制猥褻罪で逮捕されたが、無罪になった事件がある。香港を含めて東アジアでは「見知らぬ女性にいきなりキス=痴漢」が常識だが、裁判官は白人だったので「キスは社交的な挨拶であり、痴漢には当たらない」と無罪にしたというわけ。ま、確かにアメリカ映画を見ていると、「ハ〜イ!」とか言いながら初対面の男女がキスしているシーンがありますね。ある民族を他の民族の判断基準で裁いてしまうところが、植民地のイカガワシイさを象徴する矛盾です。ピトケアン島の島民も「性に早熟なのはタヒチゆずりのポリネシア的性風習」だと主張して、ニュージーランドの判断基準で裁かれたらタマラナイ!と、島の事件は島で裁かせるように求めている。

もし島の男達たちに実刑が下されれば、たちまち漁業は成り立たなくなるし、沖合に停泊した貨物船と島との間を往復して生活物資の荷揚げ作業も不可能になる。島での生活はたちまち不可能になり、女性や子供達も島を離れざるを得なくなってしまう。島で研究をしているアメリカの学者は「国連に訴えて島の独立を宣言したら?」と持ちかけているらしいけど、いくらなんでも人口40数人の独立国家というのは・・・・・ですね。
 

●関連リンク

世界電脳網時任三郎家庭頁ピトケアン日記  97年にフジテレビの取材で半月に渡ってピトケアン島を訪れた時の日記。写真も多く、島の暮らしぶりがよくわかります
戦艦バウンティ号の反乱  バウンティ号の反乱事件とピトケアン島の始まりについて詳しいです(復元サイト)
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小さな島の人口問題  遠い昔、ピトケアン島に住んでいた先住民が滅んでしまった理由について書かれています(復元サイト)
Pitcairn Island Government Web Page  ピトケアン政庁の公式サイト(英語)
Pitcairn Island Web Site  ピトケアン島の最新ニュースや関連リンクが充実してます(英語)
The Island Of Pitcairn  ピトケアン島の歴史について(英語)
Norfolk Island  ピトケアン島の住民が多く移り住んだノーフォーク島のサイト(英語)
 

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