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大津波で断念した50年間にわたる独立闘争

アチェ

インドネシア・イスラム国アチェ構成国
アチェ・イスラム国
アチェ・スマトラ国

首都:バンダ・アチェ 人口:400万(2000年)


アチェ・スマトラ国の旗






1953年9月21日 インドネシア共和国から離脱 し、インドネシア・イスラム国の一部であると宣言
1955年9月21日 インドネシア・イスラム国アチェ構成 国の樹立を宣言
1960年2月8日 アチェ構成国がインドネシア統一共和国 への合流を宣言
1961年8月15日 インドネシア統一共和国が瓦解。ア チェ・イスラム国の独立を宣言
1962年5月 アチェ・イスラム共和国がインドネシア政府 に投降
1976年12月4日 アチェ独立運動(GAM)が、ピディ 県の山中でインドネシアからのアチェ・スマトラ国の独立を宣言
1979年3月 アチェ・スマトラ国の幹部が海外脱出。ス ウェーデンで亡命政府を樹立
2002年1月1日 インドネシア政府がアチェ特別州を「ア チェ・ダルサラーム国」州と改称
2005年8月15日 GAMがインドネシア政府と和平協定 に調印。独立放棄と武装解除に応じる

インドネシアの地図  

インドネシアで激しい独立紛争が続いていた地域の1つが、スマトラ島の西北端にあたるアチェ。他に独立紛争が続いた東ティ モール、南マルク、西パプアはいずれもキリスト教徒が多い地域で、イスラム教徒が多数派を占めるインドネシアからの独立を求めることは宗教対立の側面があ るが、アチェはといえば住民のほぼすべてが敬虔なイスラム教徒。しかし、独立運動のきっかけは、やはり宗教問題だった。

マラッカ海峡の入口に位置するアチェは、胡椒の生産や西洋やインドと東南アジアや中国とを結ぶ交易拠点として古くから栄えたが、インド ネシアで一番最初にイスラム教が伝わった地域でもあり、14世紀にはイスラム教の王国が誕生した。つまりアチェは東南アジアにおけるイスラム教の「総本山」のような存在で、それを誇りにするアチェ人たちは、戒律が緩 い「ソフト・イスラム」と呼ばれるインドネシアで、最も敬虔なイスラム教徒になった。

1511年にライバルのマラッカ王国がポルトガルに滅ぼされると、アチェ王国は アラブ商人との貿易で繁栄し、マレー半島の一部も勢力下に収めた。しかし、17世紀にオランダがインドネシアへ進出すると衰退し始め、18世紀にはイギリ スの進出でマレー半島の領土を失った。1824年の英蘭協定でイギリスがマレー半島、オランダがインドネシアと勢力圏を分けた際に、マラッカ海峡の要衝に あるアチェ王国は例外とされ、英蘭両国はアチェの独立を尊重することが定められた。つまりア チェ王国は、イギリスとフランスの緩衝地帯として独立を守ったタイのような立場になった。

そこでアチェ王国は独立を維持するために、積極的な外交に乗り出した。オスマントルコに大使館を開設したり、アメリカとの通商を促進 し、フランスとも接触して、英蘭両国の脅威から身を守ろうとしたのだが、これが裏目に出てしまう。

イギリスはせっかくオランダと協定を結んでマラッカ海峡を分割したのに、新たなライバル(特にフランス)を呼び込まれては困ると、71 年のスマトラ条約でオランダがアフリカの黄金海岸(現ガーナ)の拠点をイギリスへ売却する代わりに、オランダがアチェ王国を「処分」することを容認した。 こうしてイギリスという足かせがなくなったオランダは、1873年3月からアチェ王国の征服に 乗り出した。

アチェ王国の抵抗はオランダの予想以上に強く、オランダ軍は一時撤退を余儀なくされ、年末までに首都バンダ・アチェを占領したが、ア チェ側は内陸に退いて戦った(※)。78年にウレーバランと呼ばれる領主たちが既得権力の保障と引き換えに投降したが、84年からチック・ディ・ティロら イスラム教のウラマー(法学者)たちが農民を率いて戦闘を続け、王国防衛のための反植民地戦争は、イスラム 防衛のための聖戦(ジハード)に変わった。30年以上に及んだアチェ戦争は、100万人とも言われる死傷者を出して、1904年に終結。ア チェ王国は滅亡し、現在のインドネシアの中で最後にオランダの支配下に入るが、その後もゲリラ的な武力抵抗は1910年代まで続いた。

※アチェ王国がオランダと長期間戦えたのは、胡椒生産で得た豊富な資金で武器を購 入し、近代的な軍隊を組織できたから。その武器の調達拠点だったのが、イギリス領のシンガポール。頑強に抵抗したアチェに対して、オランダ軍は民衆を殺害 するなどしたためにアチェ人の怨みを買い、オランダによる征服後もアチェは反蘭運動の拠点になった。ほくそ笑んだのは例によって「腹黒紳士」ことイギリ ス。
1942年に日本軍がスマトラ島を占領すると、アチェ人たちは当初、日本軍を解放者として歓迎した。しかし日本軍は占領行政でオランダ同様にウレーバラン たちを登用し、しばしばイスラム教を軽視したため(※)、ウラマーたちは失望して、やがて抗日運動が始まった。
※例えば、日本軍は学校などで宮城邁拝(東京の皇居の方角に向かっての最敬礼)を 強要したため、「メッカ以外の方角を拝まさせられた」と敬虔なイスラム教徒たちの反発を招いたとか。


独立よりも「イスラム社会実現」を目指した50〜60 年代の運動

日本の敗戦に伴って、スカルノがインドネシア共和国の独立を宣言すると、アチェ人たちは「ようやくイスラムの教えに基づいた社会が実現 できる」と喜んだ。そしてオランダの手先になっていたウレーバランたちは殺され、アチェはインドネシアで唯一オランダ軍の復帰を拒み通した。

共和国軍とオランダ軍の戦争が本格化すると、アチェは共和国にとって「安全地帯」になり、48年12月の第二次警察行動でオランダ軍が 共和国の首都・ジョクジャカルタを占領し、さらなる妥協を迫るためにスカルノらを拘禁すると、スカルノはスマトラ島にいたプラウィラヌガラ厚生相に権限を 委譲して臨時政府を作らせ、プラウィラヌガラはオランダ軍が入って来れないアチェに逃げ込んだほど。こうしてアチェはインドネシア共和国の完全独立達成に 大きな役割を果たした。
 

オランダが設立した 傀儡国・地域で分割された頃のインドネシア。16がアチェ
オ ランダはスカルノらのインドネシア共和国を骨抜きにするため、各地に 傀 儡6ヵ国 や傀儡自治地域を成立させてインドネシアを分割したが、その他にもインドネシアでは48年9月に共産党がジャワ島東部でインドネシア・ソビエト共和国を、49年8月にはヒズブラ(イスラム挺身隊)などのイスラム勢力がジャ ワ島西部でインドネシア・イスラム国を樹立した。これらの政府は、時にオランダと妥協しなが ら独立を目指すスカルノの「弱腰ぶり」を批判して誕生したもので、共和国に対抗してインドネシア全土へ支配を広けることを目指していた。

インドネシア・ソビエト共和国は1ヵ月ほどで共和国軍に鎮圧され、共産党は方針を転換してスカルノ体制を支える一員となったが、インド ネシア・イスラム国はイスラム国家の成立を目指すダルル・イスラム運動として、敬虔なイスラ ム教徒が多いスラウェシ島南部やカリマンタン南部、アチェへ飛び火した。インドネシアが完全独立を達成した後もダルル・イスラムは反乱を続け、65年によ うやく鎮圧された。

一方アチェでは、スカルノ大統領が「アチェをイスラム法に基づく自治区にする」と約束し、49年12月のインドネシア独立にあたってア チェ州が設置されたが、翌年インドネシア共和国は傀儡6ヵ国を統合し終えると州再編に乗り出し、アチェ州はわずか8ヵ月後に消滅して、北スマトラ州の一部 とされた。

アチェ州の廃止にアチェ人たちは激怒した。アチェはオランダ軍の攻勢が最も激しかった時期に共和国を支えたにもかかわらず、共和国は完 全独立を達成するや否や、自治実現の約束を破ったというわけで、53年にはウラマーたちのリーダーでアチェ州の軍政長官だったダウド・ブレエが、アチェは インドネシア共和国から離脱してインドネシア・イスラム国に加わると宣言して、アチェ人将校らと共に武力闘争を始めた。やがてダルル・イスラムが劣勢にな ると、55年にインドネシア・イスラム国のア チェ構成国として独立を宣言した。

ダウド・ブレエとイスラムゲリラたち
その後、イ ンドネシアでは共産党との連携を強めるスカルノ大統領に対して、軍の一部や社会党などの野党が反乱を起こし、58年2月にスマトラ島のブキティンギでイン ドネシア共和国革命政府を樹立。60年には首都をスラウェシ島のマナドに移し、プラウィラヌガラを大統領に担いでインドネシア統一共和国政府を成立させた(※)。すると「反スカルノ」で一致したダウド・ブレエは、壊 滅状態のダルル・イスラムから乗り換えようと、アチェ構成国を解消して統一共和国に加わると宣言したが、翌年スカルノ政権によって統一共和国政府が鎮圧さ れると、アチェ・イスラム国として再び独立を宣言した。

※黒幕はスカルノの容共路線を嫌ったCIAだと言われている。
ようするに、ダウド・ブレエが率いた50年代から60年代にかけてのアチェの反乱は、「アチェでのイスラム 社会の実現」を目指したもので、その目標が達成されるのなら、インドネシアから独立しなくて も構わなかった。だからアチェは独立を宣言したかと思えば、インドネシアのさまざまな反スカルノ政府に合流したりを繰り返した。

スカルノ政権は59年にアチェ州を大幅な自治権を持つ特別州として復活させたが、ダウド・ブレエは63年にアチェ特別州へのイスラム法 の適用などを条件に、和平協定を結んで投降した。

いろいろなインドネシア政府の大統領。左から・・・
   
インドネシア・ソビエト共和国【=共産】のムソ大統領(48 年に軍によって処刑)
インドネシア・イスラム国【=回教】のカルトスウィルヨ大統 領(62年に逮捕され処刑)、
インドネシア共和国【=正統】のスカルノ大統領(65年に失 脚し、幽閉の後に70年病死)
インドネシア統一共和国【=反共】のプラウィラヌガラ大統領 (61年逮捕、66年釈放後スハルト政権の体制内批判派に。健在)

「植民地支配からの解放」を掲げた70年代以降 の運動

しかしアチェの自治は中途半端なものに終わった。自治を確約したスカルノは65年の9・30事件(※)で失脚し、権力を掌握したスハル トの下で、インドネシアは強力な中央集権化が進んだ。また容共・非同盟路線のスカルノとは違って、反共・親西側路線のスハルトが全国を固めることは、アメ リカにとっても都合が良かった。アチェでのイスラム法適用も「キリスト教徒の移住者が増えた」ことを理由に68年に廃止された。

※「共産党がクーデターを起こそうとインドネシア軍の将軍たちを殺害した」という 事件をきっかけに、インドネシア全土で共産党関係者の大量殺害の嵐が吹き荒れ、ついでに華僑も巻き添えを食って、半年間で50万人とも言われる犠牲者を出 した。これにより共産党は物理的に壊滅し、共産党と蜜月の関係にあった「建国の父」スカルノも権威を失った。
一方で、開発独裁を進めるスハルト政権によって、70年代からアチェの石油や天然ガスの資源開発が本格化した。しかし資源がもたらす利益のほとんどは中央 政府が吸い上げて、アチェにはほとんど還元されず、マラッカ海峡を挟んだマレーシアが順調に経済発展しているのに対して、アチェは貧しいままだった。こう してアチェ人の不満は再び高まり、76年にアチェ自由運動(GAM)アチェ・スマトラ国の独立を宣言して、武力闘争に入った。

ハッサン・ティロ
GAMを 率いたハッサン・ティロはかつて反オランダ戦争を率いたチック・ディ・ティロの孫にあたる人 物で、インドネシア独立当時はアメリカへ留学し、インドネシアの国連代表部のスタッフに就いていたが、後にダルル・イスラムに加わって、「インドネシア・ イスラム国の国連大使兼駐米大使」を自認した。このためインドネシアへの帰国が禁止されたが、実業家として成功し、74年に帰国を許されていた。

ハッサン・ティロは「国連大使」時代には連邦制によるインドネシアのイスラム国家実現を主張していたが、GAMを率いるにあたって国際 社会の理解が得やすいようにアチェ王国の復活を掲げ、アチェは独立を回復する権利があると主張した。つまりそもそも歴史的にアチェは独立しており、 1904年にスルタンはオランダに降伏したが、アチェ王国の併合手続きは行っておらず、またオランダは日本軍によって追い払われた後、アチェを再び支配し たことはなく、インドネシアへアチェを引き渡す権利はない・・・という論理だ。

そして「不当」に占拠しているインドネシアの統治下で、アチェは資源を奪われて搾取され、ジャワ人の大量移住によって文化も破壊され、 植民地化が進んでいると訴えた。アチェの独立運動の目的は、イスラム社会の実現から、アチェ民族の解放に変わったが、アチェが独立すればイスラム法を施行できるわけで、ダウド・ブレエらウラマーたちの支持も 得た(※)。

※アチェにはこの他、イスラム社会実現を掲げたRIA護教戦線も存在して、GAM と対立した。
インドネシア軍の弾圧によって、ハッサン・ティロは79年にスウェーデンへ脱出して亡命政府を 樹立、他の指導者たちも相次いで海外へ逃げて独立運動はいったん沈静化するが、GAMのゲリラ兵士はリビアで軍事訓練を受け、89年頃から再びアチェに 戻って戦闘を再開。これに対してインドネシア軍は、アチェを軍事作戦地域に指定し報道管制を敷きながら、一般住民を巻き込んで徹底的な掃討作戦に乗り出し た。軍はGAMと通じていると見なした住民を拷問し処刑したため、アチェ人の憎悪をかき立てる結果になった(※)。
※民間漢詩団体の報告によれば、89年から98年までの間で、インドネシア軍によ るアチェ人の犠牲者は1321人、行方不明者1958人。また一説には1万5000人が犠牲になったとも。
1998年にスハルト政権が崩壊すると、東ティモールと並んでアチェでの軍の蛮行が明るみになり、ハビビ大統領やウィラント国軍司令官がアチェ住民に対し て謝罪した。しかしインドネシアはアチェに対してイスラム法の適用や財源の拡大などを含めた自治権の拡大を認めたが、あくまで独立は 認めなかった。これは旧ポルトガル領で国連でも武力併合が非難された東ティモールはともかく、旧オランダ領のアチェ独立を認めたら、他の地域でも独立要求 が噴出してインドネシアは解体しかねないのと、海底油田があるかも知れないという東ティモールに対し、アチェは現にインドネシア有数の石油・天然ガス生産 地だったため。

インドネシア政府は、2002年にアチェ特別州をアチェ王国の名称と同じ「ネガラ・アチェ・ダルサラーム」に改称したが(※)、GAM はまやかしだと一蹴して武力闘争を続けた。しかし2004年12月のスマトラ沖大地震による津波で アチェは壊滅的な被害を受けると、GAMは即時休戦を発表。これが契機となって2005年8月にインドネシア政府とGAMとの和平協定が結ばれ、GAMは 武力闘争と独立要求を放棄する代わりに、インドネシア政府は政治犯の釈放とGAMの合法政党としての活動を認めた。

※ネガラは「国」の意味。例えばブルネイ王国の正式名称は、ネガラ・ブルネイ・ダ ルサラーム。
GAMがアチェの独立を取り下げた背景には、2001年の「9・11テロ」事件以降の国際社会の変化があった。GAMは東ティモールに続きアチェの独立運 動も国際的な支援を受けられると読んでいたが、アメリカはイスラム地域の武力闘争をテロ組織のしわざと見なすようになり、特にかつてリビアの支援を受けて いたGAMに対する風当たりは強くなった。そして内部でも70歳を超えたハッサン・ティロの後継者を巡って組織分裂が起きていた。大津波でアチェ人も GAMを支えるどころではなくなり、インドネシア軍への武力闘争を続ければ救援活動への妨害と映りかねず、GAMの武装闘争は限界に達していたのだ。

アチェでは2006年にインドネシア初の州知事選が実施され、GAMの代表の1人だったイルワンディが当選。ハッサン・ティロは08年 にアチェへ帰国したが、2年後に84歳で死亡した。
 

●関連リンク

自由アチェ運動(GAM)  スウェーデンに本拠を置くアチェ亡命政府のサイト(英語)
 

参考資料:
井上治「インドネシアの分離独立運動」 http://www.jaas.or.jp/pdf/47- 4/4-22.pdf
インドネシア専科 http: //www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page002.html
2004年スマトラ沖地震・津波 関連情報 http: //homepage2.nifty.com/jams/aceh.html
The Belgravia Dispatch Summary http: //www.belgraviadispatch.com/2005/10/summary_of_icg_report_on_the_i.html
GAM http://www.asnlf.net/
Swaramuslim.net For Izzatul Islam Wal Muslimin wal Mu'minat http://swaramuslim.net/ACEH/index.php(インドネシア語)
 
 

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