このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

ワニを獲らせろと、左右両派の元ゲリラたちが「友情」の名の下に一致団結

アイレク共和国

人口:5000人

1995年6月26日 独立を宣言
1995年6月28日 ニカラグア軍が占領

ニカラグアの地図  ニカラグア湖やサン・ジョアン川の南にコスタリカとの国境線が引かれています
ニカラグアの内戦マップ(1987年)  赤が政府軍、緑が反共ゲリラ(コントラ)の支配地域

中米といえば、カリブ海の島々のみならず大陸部分も小さな国に分かれています。この一帯は1823年にスペインの植民地から中米諸州連合(中米連邦)として独立しましたが、すぐに内紛が起きて41年までにグアテマラ、エルサルバドル、ホンジェラス、ニカラグア、コスタリカに分裂。その後何回か再統一に向けた動きがありましたが、成功しませんでした。

さて、ニカラグアとコスタリカの地図を見ると奇妙な一角が。。。。国境線は一般に湖や川を境に引かれることが多いのに、両国の国境線はニカラグア湖やサン・ジョアン川の少しだけ南に引かれていて、湖や川の両岸はすべてニカラグア領になっている。そしてこのアヤシイ一角では、1995年にアイレク共和国が独立を宣言した。

アイレク共和国として独立を宣言したのは面積約440平方kmで、ほとんどが湿地帯のジャングル。ここにはもともと100軒足らずのコスタリカ人が住んでいて、細々と農業を営んでいたが、1980年代末から90年頃にかけてニカラグアからの移住者が流入し、人口は5000人に増えた。なぜまたこんな場所に移住して来る人がいたのかといえば、森林を伐採し、湿地帯に生息するワニを捕まえて皮を輸出するためだった。

しかしニカラグア政府は90年に湖の南岸を自然保護区にしたため、森林の伐採やワニの捕獲が禁止されしまう。そこで移住者たちを中心にアイレク共和国の独立を宣言して、ロドリゲスを大統領に選出。アイレクとは現地のインディオの言葉で、「友情」を意味するとか。

実はアイレグ共和国の場所は、そもそもニカラグアの領土ではなかったのだ。

ニカラグアでは1855年に傭兵出身のアメリカ人ウィリアム・ウォーカーが、内紛に乗じて国を乗っ取ってしまい、翌年大統領に就任して奴隷制を実施。さらに中米を支配すべく周辺各国に攻め入った。これに対してコスタリカは他の中米諸国と連合軍を組み、アメリカの鉄道王・バンタービルトの資金援助も得て、ウィリアム・ウォーカーの軍勢を撃退。58年のカナス-ヘレス条約でニカラグアとの国境線を決め直した。この条約によって国境線はニカラグア湖とサン・ジョアン川の3・2km南に引かれることになり、湖と川の南岸はニカラグア領になった。

なぜまたコスタリカは戦争に勝ったのに湖と川の南岸をニカラグアに譲ったのかといえば、コスタリカの戦費調達に資金援助をしたバンタービルトの意向だったから。

当時アメリカはゴールドラッシュの真っ最中で、東海岸からカリフォルニアへ一攫千金を夢見た人たちが詰めかけていたが、大陸横断鉄道はまだ開通しておらず、カリフォルニアへ行くにはロッキー山脈を駅馬車でゴトゴト越えるよりも、いったん船でパナマへ行き、パナマ横断鉄道で太平洋側へ出て再び船に乗るのが安全で快適なルートだった。バンダービルトはこれに対抗してニカラグア横断ルートを開発したが、将来運河を掘る際にもパナマ運河よりニカラグア湖を利用したルートの方が建設が容易で適していると考え、運河予定地の両岸を支配できるように準備しておいたのだ(※)。

※1914年に開通したパナマ運河では、運河の両岸5マイル(約8km)は パナマ運河地帯 として1999年までアメリカが租借し、直接支配していた。ニカラグアでも運河建設に備えてアメリカは1914年に条約を結び、(1)運河建設の独占権、(2)大西洋側出口にあたる 大小コーン島 の99年間租借権、(3)太平洋側出口にあたるフォンセカ湾での海軍基地設置、などを獲得したが、結局運河は建設されず、1970年に条約は破棄された。
こうして国境線は決められたが、ワニが棲んでいる湿地帯なので現地調査はなかなか行われず、1905年になってようやく測量が実施された。ところがその時は増水期でニカワグア湖の水が溢れ、湿地帯にはワニはおろか毒蛇までうじゃうじゃいたので測量隊は国境線に近寄れず、湖の南岸から約9km、つまり本来の国境線より南へ5・7km離れた場所に国境を示す石標を建てて帰ってしまった。測量隊のイイカゲンな仕事ぶりはいつしか忘れられ、国境石標は両国の政府に正確なものだと誤解されるようになった。

したがってアイレク共和国では、アイレクの場所はもともとニカラグア領ではないし、一方のコスタリカ政府も140年近くにわたって領有権を放棄しているからコスタリカ領でもなく、独立する権利があるのだと主張した次第。しかしもとから湿地帯に住んでいた農民たちはアイレク共和国として独立したことなど知らず、それどころかいつの間にかニカラグア領になっていたことも知らずに、先祖代々コスタリカ人のつもりで暮らして来た人もいたという。

ロドリゲス大統領は独立を宣言すると、国連へアイレク共和国を承認するように訴えたが、国連に無視されたまま2日後にニカラグア軍によって占領された。というより、2日間なら国連に宛てて出した手紙がニューヨークへ届く前に、アイレク共和国は消滅してしまったようだ。

アイレク共和国の独立にあたって、ニカラグアからの移住者たちは「アイレクの主権を侵害する者があれば、武力で撃退する」と息巻いていたが、結局は抵抗しないまま占領された。しかし「武力で撃退」というのは単なる脅しではなく、移住者たちの多くはサンディニスタやコントラの元ゲリラ兵士たちで、アイレク共和国はAK−47自動小銃やロケット砲などで武装し、かなりの兵力を擁していたらしい。

サンディニスタはニカラグアの親米独裁政権と戦っていた左翼ゲリラで、79年に独裁政権を倒して革命政府を樹立。一方コントラとはアメリカの支援を受けて革命政府を倒すために設立された反共ゲリラ。両者は88年に和平協定を結んで内戦を終結させ、コントラは解散、サンディニスタも8万人の兵力を1万5000人へ縮小した。こうしてリストラされたゲリラ兵士たちが、新たな生活の糧を求めて湿地帯へやって来たのだ。それまでは敵味方に分かれて戦ってきた左右両派の元ゲリラたちだが、ワニを獲らせろ木を切らせろで一致団結し、「友情」の名の下に独立国を作ろうとしたということ。

アイレク共和国の独立騒ぎは、コスタリカ政府にも衝撃を与えた。自国の領土が140年近くにわたってニカラグアに不法占領されていたことが明らかになり、「ニカラグアに奪われていた領土を取り戻すべき」という声も挙がったが、結局コスタリカ政府は長年の既成事実を認めて、「イイカゲンな国境石標」をもとに正式な国境線とすることを了承。国境線をより明確にするために、石標を増やす作業を始めたが、その結果これまでコスタリカ領とされてきた国境近くの町・メキシコ・デ・ウパラは国境線によって二分されてしまった。コスタリカ政府は新たに「ニカラグア領」と確認された部分に住んでいた住民2500人に対して移転するように命令したが、これまで何の疑いもなくコスタリカの町だと思って暮らして来た住民たちは、思わぬとばっちりに反発して、移転を拒否している人が多いようだ。

一方、アイレクの移住者たちの間では、最近はワニの捕獲に代わってニカラグアからコスタリカへの牛の密輸が活発らしい。2003年には国境地帯で密輸を調査していたコスタリカの警官隊が、爆弾で襲撃される事件が起きている。コスタリカ政府はニカラグア政府へ元ゲリラの取り締まりを要求したが、100年以上にわたって宙ぶらりんになっているニカラグア運河の建設計画を国際入札を実施してスタートさせたいニカラグア政府は、「ニカラグア湖の周りでこれ以上騒がれたくない」と消極的だ。

移住者たちは「牛をコスタリカへ売りに行くのは生活のために必要だ」と、コスタリカ政府が誤ったまま認めてしまった国境線を本来の場所に戻してアイレクをコスタリカ領として認めることを要求し、さもなくば再びアイレク共和国として独立すると言い出している。わずか2日間で消えたアイレク共和国だが、「独立紛争」は今後もまだ続きそうだ。
 
 

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(最終更新:2006・10・15)

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