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金を落とさず公害ばかり残す銅山に、島民の怒りが爆発

北ソロモン共和国
ブーゲンビル共和国

首都:アラワ 人口:17万5160(2000年)


ブーゲンビル共和国の旗。現在はブーゲンビル自治政府でも使用しています

1975年9月1日 ブーゲンビル島が北ソロモン共和国として独立宣言
1975年9月15日 オーストラリア信託統治領からパプ ア・ニューギニアが独立
1976年8月9日 ブーゲンビル島はパプア・ニューギニア 政府の支配下に入り、北ソロモン州となる
1990年5月17日 ブーゲンビル共和国が独立宣言。パプ ア・ニューギニア政府はブーゲンビル島を経済封鎖
1998年4月 ブーゲンビル革命軍(BRA)とパプア・ ニューギニア政府との間で恒久停戦合意が成立
2001年8月 自治政府の設立と独立を問う住民投票の実施 などの和平協定が締結。国連監視ミッション(UNOMB)の監視下に
2005年6月15日 国連監視下の選挙によって、ブーゲン ビル自治政府が発足 

パプアニューギニアの地図  
ブーゲンビル島の地図  すぐ隣にあるのがソロモン諸島

日本ではかつて足尾鉱毒事件というのがありました。栃木県の足尾では江戸時代から銅の採掘が行われていたが、明治に入って 近代化されて、当時「東洋一の規模」と言われるほど大々的に銅が産出されるようになると、有毒ガスで山の木はたちまち枯れ果て、鉱毒が混じった水が川に流 れて下流の田畑も被害を受けた。そこで代議士の田中正造はじめ谷中村の農民たちが抗議運動を繰り広げ、政府はようやく鉱毒対策に重い腰を上げたものの、そ の対策とは巨大な貯水池(渡良瀬貯水池)を作ってとりあえず鉱毒の混じった水が洪水にならないにするというイイカゲンなもので、ようするに抗議運動の中心 だった谷中村を水没させてしまえば、抗議運動は終息するだろうということだった。日本の公害問題の原点のような事件ですね。

谷中村の農民たちは北海道などへ移住させられ、足尾銅山はその後も採掘を続けたが、資源の枯渇と輸入鉱石との価格差拡大で1973年に 閉山。現在では日本は銅をすべて輸入に頼っているが、銅を産出している国々でも足尾鉱毒事件のような公害は起きているのかといえば、やはり起きているわけ で、鉱毒事件を契機に独立を宣言し、10年間に及んだ内戦で18万人の住民のうち1万人以上が犠牲になった悲劇の島がブーゲンビル島だ。

ブーゲンビル島はパプアニューギニアの東端にある島で、かつてはドイツの植民地、第一次世界大戦後はニューギニア島の東北部とともに オーストラリアの委任統治領になった。第二次世界大戦ではオーストラリア侵攻を目指す日本軍に連合艦隊の山本五十六司令長官が乗った飛行機が撃墜された場 所でもある。

戦前は「秘境ニューギニア」のさらに奥にある島と言うことで、開発はほとんど進まず、沿岸でわずかにココナッツ農園が開かれたくらい で、内陸のジャングルは探検すら行われず、オーストラリア政府はどんな住民が住んでいるのかも把握していなかった。ところが戦後、島で世界有数の銅鉱脈が 発見され、69年からオーストラリア資本の鉱山会社が採掘を開始した。

こうして川や海は鉱山の廃水に汚染され、魚は捕れず、島民が食糧にしていたオオコウモリは絶滅し、畑の作物も食べられなくなった。
 
 

ブーゲンビル島はパプア・ニューギニアの東端にある島だが、1975年のパプア・ニューギニア独立時に「北ソロモン共和国」、90年代 には「ブーゲンビル共和国」と、2度にわたって独立を宣言している。特に1988年から10年間続いた独立戦争では、激しい戦闘に加えて経済封鎖による食 糧・医薬品の不足で、18万人の島民のうち1万人以上が犠牲になったとも言われている。

ブーゲンビル島独立の直接のきっかけになったのは鉱山だ。島にある銅鉱山はオーストラリア資本の経営で、一時期パプア・ニューギニアの 外貨の60%以上を稼ぎ、そこから上がる税収は政府歳入の20%に達していたほどだが、豪州領時代からこれらの利益はほとんどが本国へ吸い取られ、島には わずかな地代しか還元されなかった。しかも日本でも足尾銅山の鉱毒事件があったように、川や海は鉱山の廃水に汚染され、魚は捕れず、島民が食糧にしていた オオコウモリは絶滅し、畑の作物も食べられなくなった。「金は寄越さず、公害だけ撒き散らす」じゃ島民の怒りが爆発するのも無理からぬこと。

1988年に島民が鉱山会社へ地代値上げの要求をしたのを皮切りに、デモや官庁襲撃、空港破壊、鉱山占拠などと、政府側の容赦ない弾圧 に応じてエスカレート。鉱山の地主代表だったフランシス・オナがブーゲンビル革命軍(BRA)というゲリラ組織を結成し、90年5月にはブーゲンビル共和国の独立を宣 言して大統領に就任。当時ブーゲンビル島(北ソロモン州)の知事をしていたジョセフ・カブイも独立運動に加わり、ブーゲンビルの独立は島ぐるみのものと なった。これに対して政府側は島への交通を一切遮断して、経済封鎖で対抗した。

ブーゲンビル島独立の背景には地政学的な問題もある。そもそもブーゲンビル島はソロモン諸島の一部で、ニューギニア本土へは500km 以上も離れているのに対して、ソロモン共和国の島々へはほんの数kmだ( 地図参照 )。これは民族の分布などとは関係なく、旧宗主国の国境線をもとに独立したためで、ニューギニア北東部とソロモン諸島北部はかつてドイツ領だったが、ソロ モン諸島北部は1900年にイギリスが買収し、それ以前からイギリス領だった南部と合わせて1978年に独立。ブーゲンビル島を含むニューギニア北東部 は、第一次世界大戦後(1920年)に豪州の委任統治領(後に信託統治領)となり、それ以前から豪州領だったニューギニア南東部と合わせてパプア・ニュー ギニアとして独立した(ニューギニア西部はオランダ領→インドネシア領となり、西パプア共和国としての独立運動が継続中)。つまり、島民の生活圏とは関係 なく、イギリス領か豪州領かで線引きされてしまったわけですね。

フランシス・オナ
パプア・ニューギニアが独立する際にも、ブー ゲンビル島は隣接する英領(後にソロモン共和国)のショートランド諸島を合わせて、北ソロモン共和国として分離独立しようとしたこともある。ブーゲンビル 島が10年にわたる経済封鎖でも何とか持ちこたえていたのも、ソロモンへ頻繁に密輸ボートが行き来していたからで、BRAは「かつて日本軍が捨てた武器を掘り起こして戦っている」と言われ、海外マスコミの取材陣に写真を撮らせ ていたが、実際には50年間も熱帯のジャングルで野ざらしになっていた武器が使えるはずはなく、戦闘に使っていた武器はソロモン経由で密輸していたよう だ。

政府軍はオーストラリアからの武器援助を受け、南アフリカから傭兵を雇って掃討作戦を続けたが成功せず、一方で島民側も多くの犠牲を出 して疲弊。1998年にはオーストラリアとニュージーランドの仲介で停戦合意が実現し、国連の監視下で行われた選挙によって、2005年6月にはブーゲン ビル自治政府が発足。初代大統領(※)にはジョセフ・カブイが就任し、10〜15年後を目途に住民投票を実施して、独立するかどうかを最終決定することに なった。

※ちなみにパプア・ニューギニアの中央政府には、首相はいても大統領はいない。国 家元首はイギリス国王(女王)。
しかし、妥協を認めないBRA強硬派のフランシス・オナらは、新たにメカムイ防衛軍(MDF)を作って鉱山に立て篭もり、メカムイ独立国の樹立を唱えて抵抗を続けた。2005年5月にオナは国王に即位したと宣言したが、7月にはマラリアで死亡。その後ゲリラによる抵抗活動は沈静化したよう だ。

ブーゲンビル島脱出記  山本五十六機の残骸を見にブーゲンビル島へ渡った学生が、独立暴動に巻き込まれ、ソロモン経由で脱出した顛末記
DIARY OF A RADIO MAN IN PNG  パプアニューギニアのラジオ局で働く日本人のブログ。ブーゲンビル自治政府発足の現場ルポがあります
 

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