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ソ連の傀儡だったから(?)中国共産党も都合良く評価
東トルキスタン共和国
首都:クルジャ
左は東トルキスタン・イスラム共和国、右は東トルキスタン共和国の旗
1944年11月12日 イーニンで建国
1946年6月16日 中国新疆省政府に合流し解散清朝末期の新疆省の地図 東 トルキスタン共和国が支配したのは、伊犂道(イリ地区)、搭城道(タルバガタイ地区)、阿山道(アルタイ地区)の3区。
東トルキスタン・イスラム共和国が存在したのは喀什道(カ シュガル地区)周辺
現在の新疆ウイグル自治区の地図 色で塗られているのは人民解放軍の「屯田兵」入植地区1949年末の中国 内戦マップ。クリックすると拡大します東トルキスタンとは、現在の中国・新疆ウイグル自治区にあたる一帯。東があれば西もあるわけで、 西 トルキスタン は旧ソ連から独立したトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン、カザフスタンなどの地域で、トルコ系民族が住 む(タジキスタンはペルシャ系)からトルキスタン。1990年代に西トルキスタン諸国がソ連から相次いで独立したのを契機に、東トルキスタンでも独立運動が活発化して、中国政府はこれを 徹底的に取り締まっているが、かつて1940年代半ばに存在した東トルキスタン共和国に関しては、「中国革命に呼応し、国民党軍閥の反動支配に抵抗した少 数民族の革命的な闘争」だとして中国政府は高く評価(※)している。一体なぜなんでしょう?
※東トルキスタン共和国の独立運動は、イリ、タルバガタイ、アルタイの3地区で起 きた革命なので、「三区革命」というのが現在の中国での名称かつてこの一帯はシルクロードの要衝として栄え、仏教・ゾロアスター教・マニ教などが広まっていたが、10世紀からはイスラム化した。東トルキスタンでは かつて匈奴や突厥なんていう世界史の授業でおなじみの国が生まれ、中国も紀元前60年の漢の時代には西域都護府、唐の時代には安西都護府を設置して断続的 に勢力下に置いたが、本格支配に乗り出したのは清朝の時代だ。1757年にモンゴル系のジュンガル王国を滅ぼして軍政を敷き、ロシアが進出してくると 1884年には辺境防衛のため新疆省を設置して直轄地とした。新疆とは「新しい辺境の領土」 という意味。しかしロシアは新疆の主要都市に 貿 易圏 という租界もどきの治外法権エリアを作り、軍隊を駐屯させたり、住民にロシア国籍を与えるなどして、勢力を強めていった。1912年に中華民国が成立すると、新疆省は実質的に中央政府の支配を離れ、漢民族の軍 閥が支配するようになったが、この時代に東トルキスタンでは2回、独立国が誕生している。1つは1933年末に独立を宣言した東トルキスタ ン・イスラム共和国、もう1つは1944年に成立した東トルキスタン共和国。どちらも似たような国名だが支配地域はまったく別で、前者はパキスタン国境に 近いカシュガルを中心とした新疆西部、後者はカザフスタン国境に近いイリ中心とした新疆北部。どちらも東トルキスタンの一部を統治下に置いただけで、消滅 してしまった。
その1:東トルキスタン・イスラム共和国
ホジャ・ニヤズ東 トルキスタン・イスラム共和国が生まれたきっかけは、1931年3月に新疆東部で起きたハミ蜂起だ。新疆では中華民国になっても、かつて清朝から任命され たウイグル人藩王が、それぞれの領地を統治する制度が続いていたが、新疆省政府を支配していた軍閥の金樹仁は、権力拡大のために藩王を廃止して自らが任命 した役人による統治に切り替えようとした。つまり新疆版「廃藩置県」の断行だが、これによって漢民族による支配が強まることに反発したウイグル人が反乱を 起こし、新疆南部に広がった。1933年初めには甘粛省にいた漢人イスラム教徒(現在の回族)軍閥の馬 仲英が新疆支配を狙って省都の迪化(現:ウルムチ)に迫り、さらに新疆省政府でも白系ロシア人(ロ シア革命時に海外へ亡命したロシア人)の傭兵部隊によるクーデターが発生して、金樹仁に代わって盛世才が権力を握った。こうした混乱の中で、1933年 11月にカシュガルで東トルキスタン・イスラム共和国の建国が宣言された。
東トルキスタン・イスラム共和国はウイグル人のウラマー(イスラム神学者)たちに率いられ、建国綱領に「コーランを謹んで遵守する」 「政府を担当する者は、コーランと現代科学に熟知していなくてはならない」と掲げられたイスラム国家を目指したが、わずか半年足らずで瓦解した。ソ連はウ イグル人の反乱に武器を供給するなどして独立を支援していたが、一転して盛世才政権を支援するために軍事介入し、ソ連軍に追われた馬仲英軍がカシュガルへ 乱入。再び混乱の中で34年5月に東トルキスタン・イスラム共和国のホジャ・ニヤズ大統領はサウド・ダッムーラ首相を逮捕し、新疆省政府に投降してしま う。
ホジャ・ニヤズはソ連の仲介で新疆省政府の副主席に就任し、盛世才政権が掲げた「民族平等政策」の広告塔となった(後に「日本の特務機 関と連絡を取って、再び独立を企てた」という容疑をでっち上げられ、粛清)。
その2:軍閥・盛世才の親ソ自治政権
盛世才時代(1943年)の地図。新疆は 「親ソ地方」(クリックすると拡大します)
ソ連としては、当初は東トルキスタンをモンゴルのように独立させ、衛星国にしてしまおうと考えたが、クーデターで実権を握った盛世才が「親ソ反日」を掲げ たため、盛世才支持に方針を変えたのだった。盛世才は満州の出身で、日本の明治大学や陸軍大学へ留学したが、故郷の満州が日本によって蹂躙されたと徹底的 な反日主義者になっていた。ソ連は東トルキスタンを独立させると中国人に「ソ連による第2の満州国作り」だ と受け取られ、せっかく「一致抗日」に向かっていた中国世論が「反ソ」に変わることを恐れていた。盛世才は「新疆の自治」を唱え、国民党政府から派遣された官僚を追放するとともに、「日本のスパイが潜入することを防ぐため」と、新疆 と中国本土との交通や通商を制限して、実質的な独立王国を築いて「新疆王」として君臨した。
各官庁にはソ連人顧問を採用し、公費留学生をソ連に派遣し、コミンテルン(ソ連に本部を置く国際共産党組織)から派遣された中国人を要 職に就け、毛沢東の弟・毛沢民を財政大臣に据え、スターリンの義弟・スワニーゼをリーダーとする委員会に経済再建計画の立案を任せ、ソ連軍の進駐や鉱山・ 油田のソ連への租借を認めた。盛世才も1938年には訪ソしてスターリンと会談し、自らソ連共産党への入党を申し出て認められたほど。
盛世才こ うしてソ連は東トルキスタンを中国領として残したまま、実質的な「衛星国」にしてしまうことができた。日本軍に沿海部を占領され重慶に移っていた国民党政府は、抗日戦争のための 物資補給ルートとしてソ連→新疆を利用しなければならず、盛世才の独断的な「対ソ一辺倒」に手をこまねくことしかできなかった。ところが盛世才の対ソ一辺倒はあくまで自分が新疆での地位を固めるためのものだった。独ソ戦が始まると彼はソ連に見切りをつけ、ソ連軍 を撤退させ、新疆省政府から共産党員を追放し、毛沢民を処刑した。こうしてソ連という後ろ盾と共産党という支持基盤を自ら失った盛世才は、やがて国民党政 府に抵抗することができなくなり、44年9月に国民党政府の農林大臣に祭り上げられる形で新疆を去り、新疆省政府は国民党の支配下に入ることになった (※)。
※盛世才はその後蒋介石とともに台湾に渡ったが、「新疆王」時代の独裁ぶりが批判 されて政界を引退。晩年は姓を変えて料理屋を経営し、1970年に台湾で死去したとか。その3:東トルキスタン共和国イリハン・トレ
さ て、盛世才が新疆を去るのと相前後して、東トルキスタン独立運動は再び活発化する。44年8月にイリ地区の山岳地帯でウイグル人ゲリラが出現し、11月7 日にはソ連国境に近い中心都市のクルジャ(現在のイーニン)で武装蜂起が発生、5日後に東トルキスタン共和 国の独立を宣言した。東トルキスタン政府の閣僚は、ウイグル人やウズベク人、カザフ人、モンゴル人などで、漢人の入植者を追放したが、イリハン・トレ主席を はじめ多くがソ連領出身またはソ連への留学、亡命経験者だった。イリハン・トレはウラマーで、イスラムの教えに基づいた国づくりを主張したが、東トルキス タン革命党を結成する共産主義者グループが実権を握り、各省庁にはソ連人顧問が配属された。また東トルキスタン軍はソ連軍将校が総指揮官となり、ソ連軍の 戦車や飛行機も繰り出して中国軍を圧倒。たちまちイリ地区とタルバガタイ地区を占領し、45年8月にはアルタイ地区で「アルタイ民族革命臨時政府」を作っ ていたカザフ人ゲリラグループも合流して、新疆北部の3地区を支配した。
そして東トルキスタン全域に支配を広げるべく、45年9月初めには新疆の省都・迪化(ウルムチ)の郊外まで迫ったが、ここで 進軍を停止してしまう。東トルキスタン軍がウルムチまであと一歩のところで停止したのは、8月に中ソ友好同盟条約が締結されたためで、中国政府(国民党政 府)はモンゴルの独立を認め、満州での権益をソ連に与える代わりに、ソ連政府は東トルキスタン問題に干渉し ないことになったのだ。
東トルキスタン共和国軍と女性兵士武力による独立闘争に代わって、中国政府と東トルキスタン政府の和平交渉が始まったが、東トルキスタン側は独立要求を取り下げて民族平 等や自治実現を主張し、46年1月に11ヵ条の和平協定を締結。6月に新疆の国民党政府と東トルキスタン政府が閣僚を出し合って新疆省連合政府が成立し、東トルキスタン共和国は解散した。イリハン・トレ主席は独立を放棄する和平協 定に反対したが、ソ連軍に連行されたまま行方不明になってしまう。
新疆省連合政府は47年5月に分裂して、旧東トルキスタン政府出身の閣僚たちはイリ地区へ引き揚げ、国民党政府から離れて自治を宣言し たが、49年に人民解放軍が新疆へ迫ると、ソ連の斡旋で中国共産党との協議を決定。49年8月に東トルキスタンの政治指導者たちは、中国共産党が新政府樹 立のために北京で開催した中国人民政治協商会議へ出席するためにソ連の飛行機で出発したが、そのままソ連へ連れ去られ殺害された(※)。
※近年まで「飛行機事故で死亡した」ということになっていて、エフメットジャン・ カスィミら東トルキスタン共和国の指導者5人は中国政府(共産党政府)から「革命烈士」として讃えられているが、ソ連崩壊によって公開された史料により殺 害されていたことが明るみになった。一方で、一足先にソ連へ連行されたイリハン・トレは長寿を全うし、76年に91歳で逝去した。北京で中華人民共和 国の成立を宣言する毛沢東とサイフジン(帽子)結 局のところ、20世紀前半に登場した東トルキスタンの独立政権は、いずれもソ連の都合で成立し、ソ連の都合 で解体したと言える。留守を預かって東トルキスタンに残っていたサイフジン(元教育省長官)が改めて北京へ赴き、共産党政府への合流を決 定。49年12月に人民解放軍がイリ地区へ進駐した。サイフジンは2003年に死去するまで、新疆を代表する中国共産党の大幹部として、文化大革命でも失 脚せずに生き残った。新疆省は55年に新疆ウイグル自治区となったが、「自治」とは名目的なものに過ぎないもので、東トルキスタンには人民解放軍の新疆生産建設兵団という屯田兵が21万人も入植し、ソ連との国境警備とともに民族独立運動の再発防止に 睨みを利かせつつ、大規模な農場建設や資源開発などを行った。最近では屯田兵も民営化され て、「中国新建集団公司」という従業員93万人の大企業グループになっている。
一方で、東トルキスタンの独立運動は、1930年代に国民党政府のウイグル人代表として南京にいたアルプテキンが、トルコへ亡命して活 動を続けていた。アルプテキンが1994年に死去した後、海外の独立組織は分裂していたが、2004年にアメリカで東トルキスタン亡命政府を旗揚げしてい る。
【動画】ウ イグル人の独立運動に敬意を表しつつ、盆栽美術館の建設に反対 演説しているのは私です…
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