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イギリスが飛行場を作るために認めた国
カルバ首長国
首都:カルバ
1903年 シャルジャ首長国から独立を宣言
1936年12月 イギリスが休戦オマーン首長国の1つとして承認
1952年7月 シャルジャ首長国に併合されて消滅アラビア半島の土侯国(首長国)の勢力分布図(1905〜23)
カルバ(下)とフジャイラ(上)の衛星写真 (WikiMapia)アラブ首長国連邦(UAE)は1971年にイギリスから独立した国で、それまでは 休戦オマーン (トルーシャル・オマーン)と呼ばれたイギリスの保護領だった。休戦オマーンとはケッタイな名称だが、これはイギリスが各首長国と1835年に休戦条約、53年に永久休戦条約を結んだために付いた地名。それ以前はイギリスの東インド会社の船がしばしば海賊に襲撃されていたということで、海賊海岸(パイレーツ・コースト)というおどろおどろしい名前で呼ばれていた。
現在のアラブ首長国連邦の一帯は、かつてはペルシャやホルムズ王国、そしてポルトガルなどに支配されていたが、17世紀にオマーンがポルトガルを駆逐して、アラビア半島南部からアフリカ東岸にかけての大海洋帝国を築いた。しかしオマーンでは18世紀にヤルーバ朝が倒れて、現在のブーサイード朝に交替するなど内政が混乱すると各地で離反が相次ぎ、それまではオマーンに従っていた各部族のリーダーたちが独立勢力を築いて、戦国大名のようにのし上がった。こうして生まれたのが現在のアラブ首長国連邦を構成する首長国だ。
現在の首長国は、アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマン、ウム・アル・カイワイン、ラス・アル・ハイマ、フジャイラの7つだが、連邦国家として独立するまでは入れ替わりもあって、新しく成立した首長国もあれば、併合されて滅亡した首長国もあった。「休戦」というのはあくまでもイギリスとの休戦であって、戦国大名ならぬ首長国同士の覇権争いは続いていたということ。20世紀に入っても、シャルジャ首長国を中心に首長国の併合や分離独立が繰り返され、1900年から21年までシャルジャがラス・アル・ハイマを併合、1902年にシャルジャからフジャイラが独立、1903年にシャルジャからカルバが独立したが、52年に再びシャルジャによって併合されて消滅した。
これら首長国が食うか食われるかの争いを繰り広げていたのは、オマーンに面したムサンダム半島の小首長国。アラブ首長国連邦の中で圧倒的に面積が広く、石油もたんまり出るアブダビはこれらの争いとは無縁。やはり「金持ちケンカせず」ということかと思いきや、当時はまだ石油採掘は始まっていなくて、アブダビも貧しかったはず。これは首長国と言っても二派に分かれていたためで、アブダビとドバイは遊牧民(ベトウィン)のベニヤス連合、他の首長国は海洋民族のカーシム家をルーツにしていたから。首長国同士の争いは、イギリスから「海賊」と恐れられたカーシム一族の内紛とも言える。
かつてのカルバ首長国の砦
カーシム家が根拠地にしていたのはシャルジャで、ここは5000年前から交易で栄えた港だった。19世紀になるとラス・アル・ハイマにももう1つの根拠地ができて、シャルジャとの間で主導権争いが始まったが、イギリスとの休戦条約で海賊ができなくなると、各地のリーダーたちは「本家」の言うことを聞かなくなり、自分たちの首長国を作って対抗した。特にシャルジャから山を隔てたムサンダム半島の東側には、フジャイラやカルバなどの首長国が生まれて、かつて半島一帯に宗主権を持っていたオマーンの王朝と結んだ。もっとも、首長国として正式に認められるかどうかは、当時宗主権を持っていたイギリスが判断して決めること。イギリスは1936年にカルバを公認したので(公認されるとイギリスから補助金が与えられる)、カルバは晴れて首長国になった。イギリスがカルバの独立を認めたのは、ここに飛行場を作りたかったためで、カルバの首長に恩を売り、建設をスムーズに進めるためだった。
首長国同士の争いは戦後も続き、1952年にシャルジャがカルバを併合したが、この時イギリスの仲裁で、カルバをシャルジャ領とする代わりに、それまで名目上はシャルジャ領とされていても実際には独立していたフジャイラを首長国として公認することになり、正式な首長国の数は7つのままとされた。
アラブ首長国連邦として独立してからは、アブダビから配分される豊富なオイルマネーの下で首長国同士の戦争はなくなった。現在でもカルバはシャルジャの飛び地になっていて、すぐ隣りの町のフジャイラが首長国の首都としてビルが建ち並ぶ近代的な都市になっているのに対し、人口2万5000人の落ち着いた町に過ぎないが、海岸が美しいリゾート地として観光客を集めていて、首長国時代の砦も観光スポットの1つになっている。
休戦オマーンの「非公認」首長国
さて、「首長国として正式に認められるかどうかはイギリスが判断して決める」と書きましたが、イギリスに公認されなかった首長国もたくさんあったわけで、20世紀に入ってから存在した「非公認」首長国には次のような国々がありました。
ハッタ首長国 (1914〜1940) ハッタの衛星写真 (WikiMapia)
ハッタ(Hatta)はムサンダム半島の南側にあるハジャル山地の高原オアシスで、古くから交易の中心地だった。今はドバイ領になっているが、最近まで一部は ドバイとオマーンの中立地帯 だった。現在では高原リゾートとして売り出し中。マスフット首長国 (1947〜1949) マスフットの位置 マスフットの衛星写真 (WikiMapia)アラブ首長国連邦の謎之3 砂漠と外国経由ドバイ市内バス このHPの姉妹サイト。ハッタやマスフットの旅行記です
ハッタの西隣に位置するマスフット(Masfut)は広大な盆地のオアシスで、現在の人口は7000人。最近まで アジマンとオマーンの中立地帯 だったが、現在では両国で分割されている。ディバ首長国 (1933〜1952) ディバの位置 ディバの衛星写真 (WikiMapia)ディバ(DibaまたはDibba)はムサンダム半島の東海岸、先端部のオマーンの飛び地の入口にあたる港町で、はるか昔からアラビア半島とペルシャ、さらにインドや中国への交易拠点として栄え、マホメッド(ムハンマド)の死の直後である632年に、イスラム教に対する反乱が鎮圧された場所として、アラビア半島へのイスラム勢力の拡大に重要な節目となった町でもある。17世紀にはホルムズ海峡の要衝としてポルトガルが支配したこともある。最近まで シャルジャとフジャイラとオマーンの中立地帯 だったが、現在ではそれぞれに分割されていて、人口は1万3000人。しかし町全体がUAE側の入管の管理下に置かれていて、UAE領とオマーン領の間は自由に行き来できるようになっている。ダフタ首長国 (1937〜1953) ダフタの位置 ダフタの衛星写真 (WikiMapia)ダフタ(Daftah)はムサンダム半島中央の山岳地帯にある小さなオアシスで、ドバイからフジャイラへ向かうルートの途中にある。現在ではラス・アル・ハイマ領で、1・2km離れた道路沿いに新しい村ができて、古くからの集落は廃墟となっている。ダイド首長国 (1900〜1963) ダイドの位置 ダイドの衛星写真 (WikiMapia)DAFTA 無人の村 無人になったダフタの訪問記
ダイド(DhaidまたはDhayd)はドバイから北東へ50kmほど行った離れた場所で、ムサンダム半島中央の山岳地帯の手前にあるオアシス。西海岸と東海岸の中間に位置する交易拠点であるとともに、野菜などの一大産地で、特にイチゴが有名。現在はシャルジャ領。
ラムス首長国 (1900〜1952) ラムスの衛星写真 (WikiMapia)ラムス(Rams)はラス・アル・ハイマの北20kmにある港町で、現在はラス・アル・ハイマ領。シャーム首長国 (1900〜1952) シャームの衛星写真 (WikiMapia)シャーム(Shaam)はラムスからさらにムサンダム半島を北へ行った港町で、先端部のオマーンの飛び地の入口にあたる場所。現在はラス・アル・ハイマ領。ジャジラット・アル・ハムラ首長国 (1900〜1952) ジャジラット・アル・ハムラの衛星写真 (WikiMapia)ジャジラット・アル・ハルマ(Jazirat al Hamra)は、ウム・アル・カイワインとラス・アル・ハイマの中間にある古い港町で、現在はラス・アル・ハイマ領。ハムリヤ首長国 (1900〜1963) ハムリヤの位置Ras Al-Khaimah ジャジラット・アル・ハルマの町の風景(英語)
Jazirat al Hamra ジャジラット・アル・ハルマの砦の廃墟(英語)ハムリヤ(Hamriyah)はウム・アル・カイワインの入り口に位置する港町。現在はシャルジャ領で、フリーゾーンとしてペルシャ湾の中継貿易の拠点になっている。ハイラ首長国 (1900〜1963) ハイラの位置ハイラ(HairahまたはHayrah)はシャルジャとアジュマンの中間にあり、現在はシャルジャ領で、シャルジャの市街地とほとんど一体化している。アル・ハン首長国 (1900〜1963) アル・ハンの位置アル・ハンは(Al Khan)ドバイとシャルジャの中間にある入り江で、現在はシャルジャ領。高層ビルが建ち並ぶ2つの都市に挟まれたビーチとして、最近はリゾートホテルが相次いで建設されている。さらにこの他にも、どこの首長国にも属さずに部族が自分たちで支配していた地域があって、1930年代から60年代初めにかけてはベニヤス族地方、ベニキタブ族地方、タナイジ族地方、マザリ族地方、マナシル族地方、アル・ブ・シャミス族地方、ナイム族地方などが存在したらしい。これらの「非公認」首長国は、人口数百人や数千人の小規模なもので、国というより国家権力の干渉を拒んだ町や村とでも言った方が実態に近い。これら「非公認」首長国の存在と争いを放置していたイギリスだったが、戦後実は地下に石油が眠る黄金の地だったことがわかると、採掘権を取得するためにそれまで曖昧だった首長国の境界線を画定する必要に迫られた。そこで1950年代から60年代にかけて、イギリスの仲裁と裁定で7つの「公認」首長国の領域が画定され、「非公認」首長国や部族地方は、イギリスお墨付きの7首長国に征服されたり、併合されたりして、消滅することになったのでした。
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