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共同警備区域

国境線を挟んだ一定の区域を、双方の軍や警察が共同で警備するのが共同警備区域です。しかし、長年続けている間に小競り合いが起き、死傷者が出た事件を契機にして、実際には共同警備が中止されるケースがあります。


板門店 (韓国と北朝鮮の共同警備区域)

朝鮮半島の非武装地帯と板門店の地図  Panmunjomが板門店
1950年代後半のソウルや板門店一帯の詳細地図  地図上方の紫色の帯が非武装地帯。国道の①マークの右にPanmunjonがあります
板門店の衛星写真  (google map)
 

 
「ポプラ事件」の直前の共同警備区域(左)と直後の共同警備区域(右)。
事件前は北側の警備区域から北朝鮮へ行くのに、いったん韓国側の警備区域を通って「帰らざる橋」を渡る必要があったが、相互の立ち入りが禁止されたため、
韓国側にあった北の哨所(KPA)は撤去され、新しい橋が架けられたことがわかります。
 
朝鮮半島分断の象徴といえば、板門店。日本じゃ焼肉屋の名前としても、結構ポピュラーですけどね。

韓国と北朝鮮を隔てる軍事境界線(事実上の国境)は、南北とも幅2kmにわたって非武装地帯(DMZ)となっているが、ソウルの北62kmの地点にある板門店は、会議場を中心に800メートル四方の土地が共同警備区域(JSA)に指定され、両国の軍隊が直に睨み合いながら警備をしている。共同警備区域には韓国・北朝鮮いずれの行政権も及ばず、板門店の会議場は、かつては南北が会談できる唯一の場所だった。

板門店(バンムンチョム)というのはもとからの地名ではなく、中国軍の「落書き」が発端らしい。朝鮮戦争前、この場所はノル門裡(ノルムンリ=ノルは「ソウル」のように韓国語で漢字が充てられない言葉だが、「板」の意味)という街道沿いの寒村で、一軒の食堂があった(居酒屋、そば屋、タバコ屋・・・など諸説がありますが、おそらくそば(冷麺?)も出し、酒も出し、タバコも置いてる田舎の「なんでも食堂」みたいな店でしょう、たぶん)。51年7月から始まった朝鮮戦争の休戦会談は、当初は38度線に近い開城(開戦前は韓国が支配していたが、休戦時には北朝鮮が支配)で行われていたが、10月からは最前線に位置するノルムンリに移された。その時、会談場所の目印にするため、中国人兵士が食堂の壁に漢字で「板門店」と書いたところ、それが正式名称になってしまった。

53年7月に休戦協定が成立した後、54年11月の協定によって、板門店には軍事停戦委員会の建物が置かれ、休戦協定の履行や違反について双方が話し合う場所になった(※)。また周囲には自由の家や平和の家(韓国側)、板門閣(北朝鮮側)などの建物が建てられ、軍事問題以外の南北会談や民間協議(赤十字など)はこちらで開かれる。そのほか中立国監視委員会も置かれ、スイスとスウェーデン、ポーランド、チェコスロバキアの代表が常駐していた。当初は資本主義国と社会主義国が2カ国ずつで「中立」ということだったが、90年代に入るとポーランドとチェコスロバキアも資本主義国になってしまい、北朝鮮から追い出されたため、現在では中立国監視委員会は有名無実になっている。

※戦争が終わるまでには3段階あって、軍内部で前線に「戦闘行為を停止せよ」と命令して撃つのを止めるのが停戦、双方が停戦に合意して戦闘状態を終わらせるのが休戦、平和条約を結んで戦争を終結させ国同士のお付き合いを再開させるのが終戦。日本ではよく8月15日を「終戦記念日」と言ってるが、あの段階では停戦に過ぎない。ミズリー艦上で降伏文書に調印した45年9月2日が休戦で、サンフランシスコ講和条約が発効した52年4月28日が終戦。朝鮮戦争はあくまで「休戦」なので戦争は終わっていない
これらの建物を囲んだ一角は共同警備区域に指定され、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)と中国人民解放軍(正式には義勇軍=58年撤退)、韓国軍と国連軍(実質的にはアメリカ軍)が共同で警備することになった。当初は文字通り双方の兵士が区域内を入り乱れて警備していたが、76年8月にポプラ事件(※)が発生すると、板門店でも軍事境界線を境にして、両軍とも相手方には立ち入れないようになった。
※ポプラ事件=国連軍が「哨所の視野を妨げている」と共同警備区域にあったポプラの樹を切ろうとしたところ、「事前合意がない」と北朝鮮軍が抗議し、国連軍がそれを無視して伐採を進めたところ、突然北朝鮮軍が斧を奪って襲い掛かり、死者2人(国連軍)、負傷者8人(国連軍と韓国軍各4人)を出した事件。アメリカが朝鮮半島沖に空母ミッドウェイを派遣する中、ポプラの樹は3日後に、今度は北朝鮮へ事前通告した後に伐採され、最終的に北朝鮮の金日成主席(当時)が遺憾の意を表明した。
板門店では84年11月にも、北側で観光客のガイドをしていたソ連人大学生が南へ亡命を求めて駆け込んだことを発端に、北朝鮮軍と国連軍・韓国軍が銃撃戦となり、死者4人(北朝鮮軍3人、韓国軍1人)、負傷者6人(北朝鮮軍5人、国連軍1人)を出す事件が起きている。
板門店には住民は住んでいないが、双方とも近くに宣伝村(韓国側は大成洞、別名「自由の村」。北朝鮮側は気静洞、別名「平和の村」)があって、巨大ポールに掲揚された特大国旗の下で、農民が田んぼを耕したりしている。かつては巨大スピーカーもあって、お互いに亡命を呼びかける宣伝放送(※)を流していたが、2004年夏から双方の合意で宣伝放送は中止された。
※板門店の宣伝放送といえば、1986年にいつもは勇ましい放送ばかりの北朝鮮側のスピーカーが、突然「悲しい詩や音楽」を流し、世界中のマスコミが「金日成主席、死亡か?」と踊らされたのは有名な話。どうやら西側の反応を見たくて、わざと流したらしい。
板門店の警備は、北は北朝鮮軍が行っているのに、南は国連軍(つまりアメリカ軍)主体で(※)、北朝鮮に「韓国政府なるものの実態が、南朝鮮アメリカ傀儡政権にすぎない証拠」だとさんざ言われてきたが、2004年からはようやく韓国軍に交替。北朝鮮をめぐる情勢はここ数年なにかと緊迫してるように言われてますが、実際には韓国の大統領や日本の首相が平壌を訪問したり、韓国人向けの北朝鮮ツアーが始まったりと、20年前じゃ想像もできないような交流が進んでいるのが実態で、板門店の重要性もだいぶ薄れてきたようだ。
※休戦協定を結んだのは韓国軍ではなく、国連軍と朝鮮人民軍だったから。

70年代前半の「帰らざる橋」。手前が韓国側(共同警備区域)で、対岸は北朝鮮。なぜこんな橋の名前がついたかというと、朝鮮戦争当時にこの橋で捕虜交換が行われたから。つまり捕虜がこの橋を渡る決心をしたら、二度と戻れないということ。ちなみに手前にある大きな木が「ポプラ事件」の舞台となったポプラ樹

●関連リンク
北朝鮮の見えるところ(板門店)  韓国側からの板門店ツアー参加記
板門店  北朝鮮側からの板門店ツアー参加記。韓国側からのツアー参加記もあります
板門店・ドットコム  ショッピングのサイトですが、板門店に関してもいろいろ詳しいです
韓国・北朝鮮、軍事境界線での宣伝活動を中止   アジア放送研究会  韓国や北朝鮮の工作員向け暗号放送の録音もあります


【過去形】沙頭角 (中国とイギリスの旧共同警備区域)

香港・マカオの地図(1984年)  香港と中国の国境線の東端に、Sha Tau Kok=沙頭角があります
沙頭角の衛星写真  道路名が書いてある部分が旧イギリス領(google map)

 
香港側の地図。P印は検問所(左)。中英街を挟んで左が香港、右が深セン。赤字の「海関」は中国側検問所、「沙頭角口岸」は旅行者用のボーダー(右)
 
1つの街が東西両陣営、つまり社会主義国と資本主義国とに分断されていた場所といえば、誰でも知っているのがベルリン。そしてほとんど知られていなかったのが沙頭角だ。沙頭角は香港と深センの中間にある街で、街の南半分は大英帝国の植民地、北半分は社会主義の人民中国。経済格差の拡大に伴って社会主義側から資本主義側へ大量の難民が押し寄せたのはドイツも香港も同じだが、有名な壁と鉄条網で街が真っ二つに遮断され、厳重に警戒する兵士が越境者を射殺していたベルリンとは違って、沙頭角の境界線はその名も「中英街」という下町風の商店街。街に住む住民の行き来は完全に自由で、一日中買い物客でごったがえしていた。

そのかわり、沙頭角の街の周囲は壁や柵で囲まれていて、中国側からも香港側からも外部の人間は許可がなければ街に出入りすることはできない。さらに中国側では深センの手前に検問所があってここを通るにも許可が必要、香港側でも国境の1〜2km手前に検問所があって、沙頭角の街は中英双方から何重にも隔てられた陸の孤島のような存在だった。かつて東西ヨーロッパの境界線は「鉄のカーテン」と呼ばれ、中国と香港の境界線は「竹のカーテン」だなんて言われていた。東西ドイツの国境が壁で鉄壁のように厳密に仕切られていたのに対して、中国と香港の国境はもう少し風通しが良い竹のスダレのような境界線をいくつも並べて仕切られていたのだ。

沙頭角を囲む幾重もの境界線と検問所

↑中国側
  中国人と、中国の入境手続きをした外国人・香港人が進入可
〜〜〜深セン経済特区の検問所〜〜〜
  深セン経済特区の住民(沙頭角の住民を含む)と、許可証を持った中国人、中国の入境手続きをした外国人・香港人が進入可
〜〜〜沙頭角の中国側検問所〜〜〜
  沙頭角の住民と、特別許可証を持った中国人観光客のみ進入可
〜〜〜中英街(本当の国境線)〜〜〜
  沙頭角の住民と、特別許可証を持った中国人観光客のみ進入可
〜〜〜沙頭角(中英街入口)の香港側検問所〜〜〜
  沙頭角の住民のみ進入可(中国へ出境する人は沙頭角の外にあるボーダーを通って出境)
〜〜〜塩寮下(沙頭角市入口)の検問所〜〜〜
  国境地帯に居住する香港人(沙頭角の住民を含む)と、中国へ出境する人(途中下車禁止)のみ進入可
〜〜〜禁区界線の検問所〜〜〜
  香港人と、香港の入境手続きをした外国人・中国人が進入可
↓香港側

国境線の中英街。道の右側がイギリス領の香港(1995年)
なぜ外国人の私が写真を撮って来れたのかは・・・ヒミツw
沙頭角の真中に国境が引かれたのは洪水のせいだ。香港島と九龍半島を植民地にしていたイギリスが1898年に九龍の北側の新界地区を清朝から租借した際に、西側では深セン河、東側では沙頭角河を境界線とすることを決めた。もともと沙頭角は河口に面した市場町だったが、その数年前に洪水が起きて、川の流れは東側に移動していた。それでも中英両国は元の川の流れを境界線に決めたのだが、結局その後沙頭角河は再びもとの流れに戻らなかったので、川が通っていた場所は干上がり、「中英街」という道になったということ。

もっとも当時、中国と香港との間は住民が自由に行き来できたので、街が2つの国に分かれても生活にはさして影響はなかった。ところが1949年、中国に共産党政権が成立すると、中国と香港の国境は翌年閉鎖されてしまい、相互の行き来には出入国手続きが必要になる。街が二分されていた沙頭角では引き続き自由な往来が認められたが、そのかわり街を囲んで壁が作られた。当初、沙頭角は中英双方が共同警備していて警官は国境線に関係なくパトロールしていたが、文化大革命さなかの67年には紅衛兵の反英デモをきっかけに、中国の警備隊と香港の警官隊が衝突して死傷者が出る事件が発生。以後パトロールは「中英街」を境に分担して行われるようになった。80年代末になると中国は自国観光客の沙頭角への立ち入りを認めるようになり、沙頭角は中国人が香港製品を直接買える場所、とりわけ金製品を安く買える場所として人気を呼び、大勢の買い物客で賑わうようになった。

1997年に香港が中国へ返還されたことで、街を二分していた国境線は消滅したのだが、特別行政区となった香港へ中国人が自由に出入りできないのは返還前と全く同じで、境界線もそのままだ。沙頭角の街を囲む壁や柵も全く変わらないまま残っている。ただ、最近では中国で為替規制が大幅に緩和され、中国国内でも香港や外国製品が自由に買えるようになったので、中英街の賑わいもだいぶかげりが出ているようだ。「密輸防止のため」と中英街では80年代から夜間外出禁止令が実施されていたが、2003年には撤廃されている。

ちなみに地図や道路標識に出ている沙頭角の英文表記は、中国側ではShatoujiao(北京語のピンイン)だが、香港側ではSha Tau Kok(広東語ローマ字)。漢字が読めない外国人には困るでしょうね。

●関連リンク

香港お気に入りのバス路線 78K  香港側から沙頭角へ向かう途中の「禁区界線の検問所」の写真があります
香港地方>邊境禁區沙頭角市  沙頭角市入口と中英街入口の香港側検問所の写真があります(中国語—繁体字)
沙頭角 相集  沙頭角の香港側の写真。ビデオ映像もあります(中国語—繁体字)
世界経理人>“中英街”修復改造的文化思考  中英街の写真があります(中国語—簡体字)
中国建築芸術網>沙頭角中英街警世鐘亭  中英街には「アヘン戦争から香港返還に至るまでの屈辱を忘れるな」の鐘が設置されたとか(中国語—簡体字)
吉田鋳造総合研究所  沙頭角の中国側の壁の写真があります
深セン?中国の旅はやめられないの巻  沙頭角の中国側検問所の写真があります
深センエクスプローラー:沙頭角・塩田  沙頭角の中国側のガイド
広東公安->警営風采->警察故事  深センの経済特区の検問所の警官の写真があります(中国語—簡体字)
 
 

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