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カンチャナブリ


泰緬鉄道を巡る歴史


カンチャナブリは、映画で有名な戦場に架ける橋「クワイ川鉄橋」のあるところです。
太平洋戦争中に急いで建設された日本の軍用鉄道である泰緬鉄道は、日本の
歴史の中でどのような歴史的位置付けにあったのでしょうか。その私見です。



泰緬鉄道とは
 日本軍が名づけた泰緬(たいめん)鉄道という呼称は、当時の中国語の泰(シャム、現タイランドのことです)と緬甸(メンデン、現ミャンマーのことです)からきており、その合成語である泰緬(たいめん)を日本軍はこの鉄道の名称としました。

 1942年2月17日、シンガポールを攻略した日本の第15軍はビルマへの進攻を開始し、同年5月18日にはビルマ全土を制圧して、連合国による南中国から中国への陸路軍需物資援助ルートをすべて封鎖したのでした。

 日本軍にとってのビルマとは、南方資源地帯の西側の防壁であり、ラングーンーラシオー昆明(クンミン)と続く英米による中華民国の蒋介石国民党政府への軍需物資援助ルートの最後の拠点でもありました。一方、イギリスにとってビルマを失う事は、インド・中近東への脅威となるものであり、日本に3国同盟を結んでいるドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせる危険があると考えていました。

 泰緬鉄道建設の決定は、1942年6月のミッドウェー海戦での日本軍大敗北のあとに決定されました。ビルマの日本軍に物資を補給していたシンガポールを廻ってマレー海峡を通る海上ルートは、次第に日本軍の制海圏が後退し、大変危険なルートとなり始めていたため、そのための有望な解決策と思われたからです。

 かつてイギリスが、1910年にタイとビルマを結ぶ鉄道ルートを5ルート調査しましたが、1912年には地形上の難しさ、風土病、そして激しいモンスーンによる豪雨等のために、計画そのものを見捨てていました。しかし、日本はイギリスの考えたルートの1つであるクワイ・ノイ川に沿ってスリーパゴダパスを通過する第3案のルートで、タイのノンプラドックからビルマのタンビューザヤットに至るルートを採用し、鉄道建設に乗り出す事にしました。

 シンガポールからマレー半島を通り、タイを通過してビルマの既存の鉄道網と連結して、ビルマの日本軍にシンガポールからの鉄道による直接の軍需物資補給ラインを確実なものにするためだったのです。この泰緬鉄道の建設によってシンガポールからビルマの各地まで、すべて鉄道による輸送網が完成することになるわけです。シンガポールの陥落で、日本軍は大きな支配圏だけでなく、300両以上の機関車、何千台ものボギー貨車、何百kmにも及ぶ鉄道線路など、膨大な設備と貴重な機械類を獲得していたのです。

 1942年6月、タイのノンプラドックからビルマのタンビューザヤットまでの約415kmの泰緬鉄道の線路敷設工事のために、タイのカンチャナブリと、ビルマのタンビューザヤットの各ベースキャンプに、労働者としての戦争捕虜などの移送が始まりました。

 イギリス、オーストラリア、アメリカ、そしてオランダの各戦争捕虜たち合計約61,000人、同様に、インドネシア、マレー、ビルマ、中国、インド、そしてタイなどから集められた労働者(現地では「ロームシャ」と呼ばれていたようです)が合計約20万人、これらの人々が日本軍の管理下に置かれることとなりました。

 現地で集められたアジア人労働者たちは賃金労働者ですが、なかなか募集しても集まらないために、次第に強引な方法で集められるようになったと、現地での色んな書物には記載されています。

 鉄道の敷設は、両端から接合点に向かうという方法で工事が始まり、タイのノンプラドックからは1942年6月に、ビルマのタンビューザヤットからは1942年10月に工事が始まりました。日本軍の技術者によると、当初は最少でも5年必要だという見積りでしたが、戦局との関係で1943年8月の鉄道完成予定を目指して、過酷な労働が強制されていくこととなりました。

 建設開始当初、泰緬鉄道の現実のルート確定のために、南方軍鉄道隊の指揮官である下田少将と11人の高級将校が航空測量に出かけますが、飛行機のエンジン不調のために、タイとビルマの国境付近にあるスリーパゴダパスから近い、トンパープムの近くのピロク山中に墜落してしまいました。このような悲劇の幕開けで泰緬鉄道の建設は始まりました。

 そのために、残された技術将校たちの手によって、その後の鉄道建設の多くが決められていくこととなりました。ジャングルに覆われた山々の100kmを通るルートは、短期間では不可能と思われる300以上の橋脚の建設、何ヶ所かの岩山の切り通し等があり、熟練技術者たちの突然の死で、その後の工事にも色々と困難が伴ったようです。

 現在、カンチャナブリでの最大の人気の観光名所となっているアルヒル桟道橋などは、その当時の大変な難工事であったことが偲ばれる場所で、日本人だけでなくヨーロツパの観光客の人々も一様に驚きの声をあげる場所となっています。

 このようにして始まった泰緬鉄道の建設ですが、地理的な悪条件に加えて、1943年4月からは戦局の悪化や命令されていた工事完成予定からの遅れのために大本営から工期の短縮命令が下り、より労働は苛酷さを極めることとなります。この命令が出たあとの期間が、泰緬鉄道の建設現場では「スピードゥ」と呼ばれていた、特に苛酷な労働が強制された期間なのです。戦争捕虜やアジア各地から集められた労働者の人々に、以前にも増して過酷な労働が強いられることとなり、多大な犠牲者を生んでいきました。その当時の模様は、オーストラリア政府が管理するカンチャナブリ県内陸部のヘルファイアパスにある資料館で、現在でも詳しく知る事ができます。

 猛暑の中、人かい戦術でクワイ・ノイ川沿いのジャングルを切り開き、国境山岳地帯の岩山を削る作業が連日長時間続きます。そこに追い討ちをかけるように雨季の激しいスコールが連日襲い、食料や医薬品の不足、重労働、日本軍による虐待、さらにはコレラやマラリヤなどの伝染病にも見舞われ、多大な数の死者を現地で働くアジア人労働者や戦争捕虜の人々の間に出しながらも、鉄道線路の敷設作業は進んでいきました。

 泰緬鉄道は、タイ側はノンプラドックから263km、ビルマ側はタンビューザヤットから152kmありますが、様々な苦労の末に1943年10月17日、タイのコンコイタで両方から進められてきた鉄道は接続し、ついに鉄道全線が完成しました。建設期間21ヶ月、連続建設期間17ヶ月というものでした。

 これでも、当初の軍の計画よりは2ヶ月遅れだったそうです。しかも、お互いに接合ポイントを1km以上もミスをするなどのこともあったようです。しかし、大変無理をして建設した当時の鉄道線路の路盤状態は悪く、運用開始後は脱線が相次いで、全列車が簡易の復線のための機器を常備して運行されるという状態だったようです。

 泰緬鉄道の完成後、労働力としての戦争捕虜たちは3つのグループに分けられました。身体が丈夫な者たちは、日本本土の炭坑などで働かせるために、日本へと移送されました。しかし、途中で輸送船は潜水艦に沈められ、約1万人ほど日本へ送られたうちの約3千人が輸送船と共に溺死してしまったそうです。別のグループは鉄道の保全のために残されましたが、そのうちの約100人ほどは連合軍による鉄道、特にクワイ川鉄橋への爆撃の際に命を落とされたようです。さらに、働かせるのが無理なほど衰弱してしまっていたもう1つのグループは、シンガポールのチャンギ収容所へと移送されました。



クワイ川鉄橋とは
 太平洋戦争中に、日本軍によって鉄道建設のためにクワイ・ヤイ川(当時の名称はメークロン川で、映画「戦場にかける橋」でクワイ川と呼称され、それが有名になったために1960年に現在の名前に名称変更されました)に架かった橋は2つあります。木造の橋と、コンクリート橋脚の鉄橋です。

 木造の橋は1943年2月に完成し、鉄橋の方は1943年9月に完成しました。木造の橋は先線工事のための資材運搬用を目的に建設されたのです。現在も在来線として運行されている後者の鉄橋は、いつでもカンチャナブリのリバークワイブリッジ駅へ行きますと見ることができます。

 クワイ川鉄橋への飛行機による攻撃は1944年12月から始まりました。しかし、1945年2月までは一時的な破損で、簡単に修復されていました。1945年2月中旬の攻撃では鉄橋の1スパンが破壊され、4月と6月の攻撃でさらに鉄橋の2スパンが破壊されて、とうとう鉄橋は使用不能になってしまいました。

 戦後になって、1947年に応急修理されて再び鉄橋は復旧され、タイ国の国有鉄道の所有になります。その後、1950年に日本の戦後賠償として、日本の横河橋梁㈱と日本橋梁㈱によって現在の形に作り直されたのです。

 破壊されていた3スパンを2スパンとしてコンクリート橋脚の間を広げ、破壊された箇所の鉄橋は2つの平行弦トラスとして架け替えられましたので、従来のアーチ状の鉄橋との対比で簡単に見分けがつくことと思います。なお、クワイ川鉄橋の横河橋梁㈱が架け直したという平行弦トラス2連の鉄橋を現地に確認に行きましたら、完成年度だと思いますが、西暦1948年(タイ暦表示を西暦に換算)という銘板の記載がありました。

 また、日本橋梁㈱により、以前の木造橋部分をコンクリート製のプレートガーダーに架け直おしたという部分を確認に行きましたら、同じく西暦1952年(タイ暦表示を西暦に換算)という銘板の記載もありました。参考として付け加えておきます。

 一方、木造の橋の方は何度も飛行機による爆撃を受けたものの、度重なる修復で何とか持ちこたえていました。そして、ついに戦時中の空襲には耐え抜いたものの、1946年9月9日、数日前から降り続いていた大雨による増水で、木造の橋の中央部分が川の流れの圧力に耐え切れず、とうとう破損してしまいました。

 再度修復して使用開始されますが、最終的には解体され、現在ではクワイ川鉄橋近くの戦争博物館の1階で、クワイ・ヤイ川にわずかに短く突き出した部分だけが現存しているだけとなっています。数体の人形とともに展示されていますので、すぐにわかることと思います。

 1947年に泰緬鉄道はタイ国有鉄道所有になったあと、タイ政府はタイービルマ国境近くの残された線路(両国の国境にまたがる部分は、イギリスによって戦後まもなく撤去されました)の端からナムトック駅までの区間を取り外すことを認可し、ノンプラドックからナムトック駅までの130.204kmの区間の性能をあげてタイ国鉄として使用することになりました。

 このようにして、公式にはノンプラドックからカンチャナブリ駅の間の区間は1949年6月24日に開通し、カンチャナブリ駅とサイヨークのワンポ駅の間の区間は1952年4月1日に開通し、ワンポ駅から終点のナムトック駅までの区間は1958年7月1日に開通することとなったわけなのです。

 また、メークロン川に架かった鉄橋は映画「戦場に架ける橋」の影響で1960年にクワイ川鉄橋と改名され、その下を流れているメークロン川はシーナカリンダムからカンチャナブリ都心までの区間のみをクワイ・ヤイ川と改名され、映画との整合性がとられることとなりました。



泰麺鉄道建設までの大東亜戦争の輪郭
 当時の日本では戦争の呼称を大東亜戦争と呼んでいました。しかし、これは日本と中国との間に起こった日中戦争と、それを巡って、後にアメリカやイギリス・オーストラリア・オランダなどの連合軍と戦争をすることになった太平洋戦争に分けられます。この日中戦争と太平洋戦争を一緒にして、当時の日本では太平洋戦争開始後は全体をまとめて大東亜戦争と呼んでいたのです。

 太平洋戦争という呼称は、終戦後の1945年12月15日に、連合軍最高司令官総司令部から出された「政府による国家神道(神社神道)の保護・支援・保全・監督及び公布の廃止方に関する総司令部覚書」により、「大東亜戦争」という用語等の使用は禁止されました。そこで代わりに、アメリカ側が用いていた「太平洋戦争」という呼称が使用されることになったのです。それで、私はこの戦争のことを太平洋戦争と呼んでいるわけなのです。

 太平洋戦争の原因は日中戦争にあり、日中戦争の原因は満州事変にあると私は考えますが、この3つの出来事の1つ1つは独立性の高いものですが、結果としては連続したもののように見えています。

 最初の満州事変は、日本陸軍の中の1人の高級将校が計画した事件でした。日本政府は遅れて追認することになります。そして満州国成立後に、中国の国民党政府との間に協定が成立し、両国政府の間ではこの事件は解決済みとされています。

 次の日中戦争は、日本軍と中国の国民党政府軍との間に偶発的に起こった事件(蘆溝橋事件)を発端に、全面戦争へと拡大していったものです。中国全土の中国国民の間には激しい反日感情が起こっており、これが日中戦争の本当の原因だったと私は思っています。日本側の思惑に反して、現場ではズルズルと戦争が拡大していってしまいました。

 そして、太平洋戦争は、拡大してしまった日中戦争に対して、中国への軍需物資援助や日独伊三国同盟後の日本への経済封鎖などでアメリカが干渉してきたため、軍事的にも経済的にも日本が追い詰められた結果、自暴自棄になって突入してしまった戦争でした。

 英米による中国への軍需物資補給ルートは3本ありましたが、3本のルートである香港&ベトナム&ビルマのすべてのルートが当時は植民地となっていた国々からのものでした。その他にチベットを通るルートも検討されていたようですが、チベットは当時は大変親日的で、自国を通るルートは英米に拒否していました。

 満州事変、日中戦争、太平洋戦争、この3つの戦争は見方を変えると、日本国内の不況からの脱出を求めたのが満州事変で、中国国民の抗日運動への対処を誤ったのが日中戦争、そして中国への英米からの軍需物資援助の阻止に失敗して始めたのが太平洋戦争、という構図になると思います。いずれにしても、軍部が主導性を握っていた時代でした。

 1937年の日中戦争開始直後から日本の対戦相手国であった中国に、アメリカやイギリス等は武器弾薬や軍需物資などを供給し続けてきました。その軍需物資供給のための支援ルートは3本あり、中国南部からの香港・広東と続くルート、当時のフランス領だった現ベトナムを通るルート、そして、ビルマを経由して送るラングーン−ラシオ−昆明と続くルートの3本でした。

 日本は中国と戦いながらも戦争終結のために様々な努力も続けていましたが、当時は政府による日本としての完全なリーダーシップが取れない状況となっており、そのために戦争が長期化して日本の軍事力は少しずつ消耗され続けていました。そのような状況のときに、日本の戦争相手国である中国へ軍需物資が供給され続けていましたから、日本は大変深刻な状態に陥っていました。

 日本軍は香港ルートを防ぐために、1938年10月12日より広東攻略を開始しました。そして、11月初旬には広東附近の要域を制圧し、占拠しました。

 そして次に、中国への軍需物資援助ルートの1つであるフランス領の現ベトナムを通るルートを平和的に封鎖するために、日本軍はフランスと交渉を開始しました。平和的にベトナムに入り、日本軍が進駐するという交渉は大変優秀な日本軍の某若手将校の努力で成功の可能性が見えていたところで、日本軍部の中の強硬派がそれらの外交交渉に痺れを切らして強引に1940年9月23日に武力進駐を開始してしまいました。この行動に、日本政府も日本海軍も日本陸軍内の強硬派に対して大変怒り、日本国天皇もますます日本陸軍に不信感を持たれる事となりました。

 ベトナムへの武力進駐の少し前の9月5日に、イギリスのハリファックス外相は、フランス領の現ベトナムの現状維持に深い関心を持っていると、日本政府に注意を喚起しました。アメリカのハル国務相は、フランス領の現ベトナム情勢を重視しているという声明を発表します。そして、9月20日にはグルー駐日大使が日本の松岡外相に非難文書を提出しました。

 さらに武力進駐を開始した9月23日には、ハル国務相は公然と日本を非難し、フランス領現ベトナムへの日本軍の進駐、そしてその後の日本・ドイツ・イタリアの3国同盟締結(1940年9月27日)に対して、アメリカは9月26日、屑鉄・鉄鋼等の対日輸出禁止を発表しました。イギリスも、中国へのビルマを通る援助ルートの再開を日本へ通告しました。これで、日本とアメリカ・イギリスとの関係が険悪になってしまいました。

 1940年9月27日、日本は日独伊3国同盟を締結し、そして1941年4月13日、日本はソ連との間に日ソ中立条約を結びました。これらはすべて、日中戦争へのアメリカの参戦阻止のために結ばれたものでした。しかし、日独伊3国同盟の締結は、逆にアメリカを怒らせてしまいました。当時のドイツはルーマニアから大量の石油を輸入しており、これがなければ戦争遂行がきわめて困難な状況でした。ドイツは、ソ連のルーマニア侵略に危機感を抱いたために戦略目的で独日伊の3国同盟を結んだのでした。このようにして、ソ連の戦力を日本にも分散させてから、1940年10月、ドイツはルーマニアに進攻しました。

 しかし、そのようなドイツの思惑にも関わらず、日本はその後、アメリカへの抑止力として1941年4月13日に日ソ中立条約を結んでしまいました。ソ連にとっては、ドイツのバルカン半島進出にそなえて日本とは争いたくなかったので、中立条約は容易に成立しました。その後、1941年6月22日、ドイツは突如ソ連に侵入を開始し、独ソ戦争が始まりましたが、その勝敗がその後の歴史にも大きく影響を与えてしまったことは歴史の事実として残っています。一方、日本にとっての日独伊3国同盟や日ソ中立条約は、アメリカが日中戦争に参戦しないための抑止力としてのものでしたが、その効果もその後の歴史が示すとおりです。

 日本とアメリカが戦争に至った直接の原因としては、日米開戦の4ヶ月前から始まった対日禁輸を含むアメリカ・イギリス・オランダなどによる日本への経済封鎖です。同時に、日本の在外資産凍結などの経済封鎖も行われました。その結果、当時の日本はアメリカに石油輸入の80%近くを依存していましたので、石油の枯渇、外貨の支払い不能、日中戦争による戦費の増大から、座して窒息死を待つか、国家生存の可能性を信じて戦争に打って出るか、の決断を迫られました。経済封鎖は武力行使に勝るものであり、このままの状態が続けば、日本海軍は2年後には全機能を喪失し、重要産業は1年以内に生産を停止し、日本は自滅していくことは明かでした。さらに翌年以降になれば、アメリカ側の軍備は急速に増加され、彼らとの戦力比率は著しいものとなってしまうことも明白でしたため、もし戦うのであれば今しかない、という考えが次第に生まれ始めていました。

 このようにして、アメリカとの交渉が完全に行き詰まったときが日本の決断のときでした。

 太平洋戦争開始当初、海軍によるハワイの奇襲攻撃や陸軍によるマレー・シンガポール作戦などがありました。日中戦争に続く連合国との新しい戦争という2つの戦争を戦うことになりますので、太平洋戦争初期に連合国側の戦力を大きくダウンさせておき、その間に経済封鎖で得られなくなっていた資源を東南アジアで確保し、中国への軍需物資補給路として残っていた最後のビルマからのルートを封鎖して、日本に有利な状態で短期間に戦争終結の交渉に持ちこむという戦略でした。戦争が長引けば、絶対に日本は勝てないと、軍部や政府の指導者はすべてがそのように考えていました。その戦略の1つとしてインパール作戦があったのですが、ミッドウェー海戦の大敗北で日本軍の戦略は狂い始め、ビルマの日本軍への軍需物資の海上ルートからの補給方法に代わる新しい策として急いで建設を始めたのが泰緬鉄道だったのです。



日本での軍部の台頭
 日本は1867年に近代化への革命が起こり、明治政府が誕生しました。押し寄せる欧米列強による日本の植民地化の恐怖の前に、国民一丸として国力を高める努力が始まったのです。

 日本は先進諸国から積極的に様々な知識を学んで、日本国の近代化の努力を続けました。日本国の憲法はドイツに学んで大日本帝国憲法を作りました。そして、様々な制度を作り上げていき、日本を守れるだけの軍事力と経済力をつけるために、国民一丸となって頑張り続けます。

 しかし、この大日本帝国憲法には、大きな欠陥がありました。それは、最終的な意思決定に絡む問題でした。その前に、当時の大日本帝国憲法の概要を簡単に紹介しますと、主権は天皇にある、国家元首は天皇、軍は政府とは独立した機関として置かれ、天皇に陸海軍の統帥権、国会は特権階級の代表からなる貴族院と国民の代表からなる衆議院の二院制、しかし、その上に天皇の諮問機関として枢密院が置かれ、天皇に承認を求める重要事項はそこで再び審議されるというシステムでした。また、政府のトップである首相は、枢密院の元老の推薦に基づいて天皇が任命するという仕組みでした。

 このような形での民主主義が、明治の革命後に始まったのです。そして、内閣は天皇に任命された首相が組閣することになりました。このようにして成立する内閣は、天皇の輔弼機関として機能することになります。いくら、革命軍が政権を担当するようになったとはいっても、生まれたばかりの新しい国ですべての国民の支持を得るのは容易なことではありません。天皇を形式上の最終的な意思決定者として利用する形でしか、出来あがったばかりの新しい日本国の現実的な政局運営は難しい、という側面も憲法の背景にはあったのです。

 このように見ると、天皇は何でも出きるように見えますが、実際は単なる形式上の承認機関で、下から上がってくる審議を尽くされた事項の承認をするだけの機関になっていました。トップクラスの重要問題で、何度か天皇臨席での御前会議というのもありましたが、天皇には会議での発言権は無いに等しかったのです。これが、天皇を持ち、何事も合議制の話し合いで解決しようとする、当時の日本の実状だったのです。

 実質的には、天皇の諮問機関として、最高の意思決定機関として機能していた枢密院の元老たちの存在した期間が、日本の近代の歴史の上では異常な期間だったとも言えるのです。戦後に新しく作られた現在の日本国憲法には、枢密院などの存在はありませんが、内閣の意思決定は閣僚全員一致の原則になっているのも、そのような日本の文化からくるものなのです。
 
 このシステムは、生まれたばかりの明治政府には世界の大局が見える優れた人材に乏しく、革命を成功させたリーダーたちは最初から政府にすべてを任せるのは危険だと考えました。それで設置したのが枢密院だったのです。革命を成功させた、多方面に優れた革命の偉人たちを元老として、枢密院の議員とし、政府から天皇に承認を求めて提出されてくる重要案件を詳細にチェックし、彼らのフィルターを通して天皇の承認を受けるようにしていました。

 このシステムは、時代の経過と共に政党政治が成長してくるのとは逆に、元老は後継指名された2世世代となり、その判断力は凡人化していったと私は考えています。日本は急速に力をつけて世界の列強の仲間入りをするようになり、難しい国際情勢の中に飛び込んで行きましたので、ただでさえ政治的判断は容易ではなかったと私は思うのです。さらに、昭和恐慌の頃から政府は有効な政策が打ち出せなくなってしまい、元老も政府も共に国民の期待に応えることができなくなりましたので、結果として軍の暴走が始まったと私は考えています。

 大東亜戦争への道へと進んでしまった直接的な背景としては、1922年8月の日英同盟の破棄の影響が大きいです。1902年1月30日に、日本はイギリスとの間に2国間の攻守同盟条約を結びましたが、第1次世界大戦後の1921年11月にアメリカで開かれたワシントン会議でそれからの新秩序が検討され、日本、イギリス、アメリカ、フランスの4ヶ国の間で海軍軍備制限(ワシントン軍縮条約)や太平洋に関する紛争処理などの4ヶ国条約が締結され、また、日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国との間で中国に関する9ヶ国条約も締結されました。その結果、それまでの日本外交の主柱であった日英同盟の廃棄を余儀なくされてしまったのです。

 ワシントン会議の焦点は、海軍軍縮、日英同盟の解消、中国問題の三項目で、太平洋諸国の現状維持を定めることが目的だったのです。

 新たに締結された9ヶ国条約には、締結国間での解釈の相違が生じた場合の具体的解決法が明示されず、かつ中国自身の条約尊重義務も規定されていませんでしたが、欧米列強の有する中国大陸における権益の現状維持が条約締結の前提となっていたこと、アメリカがこの条約に加わった形で締結すればアメリカが日本の満州権益を公式に認めたことになること、と当時の加藤全権の内田康哉(こうさい)外相は欧米協調によって満州権益を維持することができると判断したのです。この条約の中では、日本の中国に対する21ヶ条の要求も認められていました。そして、中国も渋々ながらも日本の21ヶ条の要求を認めました。しかし、後に中国は21ヶ条の要求の拒否に態度が変わり、アメリカはその条約そのものを守ろうとはしませんでした。

 このような経緯を経て、その後の日本は日英同盟を破棄した結果として世界から孤立するようになりました。そんなときに、1928年にパリ不戦条約が先進欧米列強の間で締結されました。これは、簡単に言えば侵略戦争をやめようという条約で、既存の植民地主張をこの辺で固定化しようというものだったのです。そして、その後これらの国々は植民地獲得を止めてブロック経済での既得権の守りの体制に入っていきました。その直後の1929年にニューヨークから世界大恐慌が始まり、日本は世界で政治的にも経済的にも孤立し、国内で発生した昭和恐慌という未曾有の大不況からの出口を求めて、必死の模索が始まることとなったわけなのです。

 当時の世界列強の間での海軍の軍縮条約は、1921年のワシントン条約と1930年のロンドン条約で全体を構成しています。1921年のワシントン条約の時は全権代表が海軍大臣の加藤友三郎が務めました。当時は、国力を蓄えるのが先と考える条約派と武力均衡を唱える艦隊派に海軍内は分かれていましたが、加藤友三郎は前者の立場に立って海軍内にあった艦隊派の意見を抑え、国力を蓄える方を優先して条約を締結しました。加藤友三郎はワシントン条約の締結後、帰国して内閣総理大臣となります。

 海軍内は加藤友三郎が健在の間は条約派が制していましたが、彼は1923年8月、首相在任中のまま大腸ガンで死去してしまいました。 

 このような状態で迎えた1930年のロンドン会議へは、全権として先の首相若槻礼次郎、海軍大臣と財部彪、駐英大使松平恒雄が出席しました。天皇の意向もあり、元老の西園寺公望や浜口首相は条約成立に努力します。そして、見事に条約は成立して全権は帰国しますが、海軍の艦隊派は犬養毅や鳩山一郎などの野党政友会と結束して厳しい政府批判を始めました。このような中で統帥権の干犯問題が飛び出し、「あの条約締結は天皇の統帥権を干犯している」という、政治の場で政治家自らが自殺行為の議論をした結果、海軍内では艦隊派が主流人脈を占めるようになっていってしまったのです。

 その後、陸軍内での軍部の暴走も始まり、中国に関する9ヶ国条約やパリ不戦条約に対する違反を起こして、その後の一連の戦争への道へと入っていったわけなのです。言葉は悪いですが、帝国主義間の妥協の産物と思われるのは満州事変直後までの状況で、満州事変は滑り込みセーフという暗黙の認識も当時はあったようです。

 後に、軍の暴走を抑えるために内閣内に陸軍大臣と海軍大臣のポストを設ける(1936年から)事になりましたが、これが結果的には軍の力をさらに増大させることになり、政府内での意見が対立すると、首相は内閣総辞職しか陸軍や海軍への抵抗は出来なくなってしまいました。内閣には陸軍大臣と海軍大臣が入閣していましたが、陸軍のトップは陸軍参謀総長であって陸軍大臣はその部下であり、海軍のトップは海軍軍令部長であって海軍大臣はその部下であるという構造でした。天皇はすべての機関の頂点にいましたが、政治的には意思決定に参加できない単なる形式的な存在となっていましたので、次第に元老の重しが無くなっていくと、軍は自立した機関として行動ができるようになっていったのです。このようにして、軍部の暴走の土壌が出来あがっていったのです。

 私は日本が間違い無くおかしくなっていったのは昭和10年頃からだと思います。国民教育の精神的な基本は教育勅語でしたが、これが変わり始めたのは昭和10年の改訂版からで、「元寇の役に神風が吹いた」などの記載変更とか天皇「現人神」説の傾向が出始め、従来の皇国史観が変化し始めます。そして、俗に言われている軍国主義の色彩の教育へと突き進んでいきます。それ以前の教育勅語は、他国の模範とされることもあった位の日本民族としての道徳規範として恥ずかしくない内容のものでした。また、この頃から軍部の台頭、そして日本の帝国主義的な行動を自制させることも出来なくなりました。しかも、天皇制は日本のローカルな文化なのに、それが世界的に普遍性を持っていると錯覚して、日本が進出した各地でそれを強制したりまでしました。



経済のブロック化の発生と昭和恐慌の影響
 アメリカは、1929年の世界大恐慌をきっかけに、翌年、高率関税を可能にしたストーム・ホーリー法を制定して、市場確保の為の経済ブロックを形成しました。これに対抗するためにイギリスは、対外貿易の決済をポンドだけでおこなう経済ブロックを形成し、さらに日本製品に対しては、ソーシャル・ダンピングだと非難し、イギリス本国だけでなく植民地に輸入される日本製品にも高額の輸入関税を課し、あるいは輸入品に対する量的制限を一方的に設けて、日本製品の流入阻止をはかりました。

 その後、アメリカやフランスもイギリスと同様な経済政策をおこないました。イギリスとその植民地を中心とする経済ブロックを、イギリス通貨の名称であるスターリング(Sterling)からスターリング・ブロックと呼び、フランスとその植民地で作る経済ブロックをフラン(Franc)・ブロック、アメリカを中心とした南北アメリカ大陸の経済圏ブロックをドル・ブロックと称しました。

 同一経済ブロックに属する国に対しては、互いに貿易上の優遇措置を与えるなどの輸出入の拡大政策をとり、同経済ブロック外の国には高い関税障壁を設けて対抗しました。こうした列国の経済ブロックの確立により、日本製品は次第に輸出市場を失っていきました。そして、国際的な経済のブロック化は世界大恐慌の影響を受けて、ますます拡大の一途を辿っていきました。

 これが日中戦争に至る数年前の昭和恐慌下の日本の置かれていた状況です。政府は国民の信頼を無くしており、陸軍に多大な期待が集まりつつありました。しかし、その陸軍にしても内部の統率は乱れがちでした。当時の日本は、欧米列強による経済ブロックが作られていて、経済ブロックを持たない日本はそれらの国との貿易では高い関税が掛けられ、その結果として輸出入は極端に落ち込んでいたのです。

 日本経済そのものの破錠の恐れの前に、国内政治での解決策は見つからず、国家生存を賭けて軍事力を用いて中国大陸へと進出していく気運が高まっていました。満州国建設は、日本を囲んでいた当時の欧米列強国の経済ブロック化という状況の中では、日本の生き残る希望そのものになっていたのです。それが日中戦争へと進んでいくことになった背景にあると私は考えます。

 当時の昭和恐慌下の日本経済の惨状はひどいものでした。1923年に関東地方で発生した大地震で大変な被害が発生し、その復興のために震災手形が大量に発行されましたが、その後遺症で1927年には金融恐慌が起こってしまいました。そのような状況のときに、1929年10月、ニューヨークのウォール街での株暴落を直接の原因として、世界に広がっていった世界大恐慌が始まったのです。日本は昭和恐慌の最中に旧平価のままで金本位制を採用(1930年〜1931年)してしまったため、日本国内の物価は急激に低下し、失業者は増大し、農産物の価格の下落率は特に著しいものでした。

 世界大恐慌をきっかけに金本位制から離脱する国が相次いでいたときに、日本は金本位制を採用してしまったのです。恐慌の時は、政府は大量の通貨を国民経済に注入して金融を緩和させる必要がありますが、金本位制のもとでは発行できる通貨量は中央銀行の保有する金の量に縛られるために、そのような金融緩和政策がとれません。すなわち、恐慌になっても適切な有効需要管理政策がとれないのです。ですから、各国は1930年代に入って金本位制から離脱していったのですが、日本もそのことに気がついて金本位制を取りやめたときは、すでに遅かったのです。

 ただでさえ、当時の欧米列強による経済のブロック化のために、高関税などによる国際競争力の弱くなっていた日本製品の輸出がさらに激減し、逆にダンピングされた外国製品が大量に日本国内に流れ込み、結果として、多くの優良企業までもが次々に潰れるという日本の歴史上空前の大倒産が始まり、大量の失業者が街に溢れだしました。

 こうした失業者は郷里の農村部に多くは戻りましたが、その頃は農村部でも生糸や農産物の価格の大暴落によって、経済的困窮にあえいでいました。そこに大量の失業者が流入したため、さらに農村部は貧困に拍車がかかったのです。娘の身売りや欠食児童が続出し、日本全国で経済パニックに陥りました。

 こうした中で、大量の資本を持った財閥は、中小企業を次々に吸収合併して次第に肥大化していきました。一方、経済政策に失敗した政党政治への国民の支持は、急速に失われていきました。代わって、国民の期待を担った軍部が台頭していくことになったのです。

 明治時代から大正時代、そして昭和時代に入る頃にかけて日本は飛躍的な発展を遂げ、人口も急激に増加してきました。急激に増加した人口を国内だけで養うことが次第に困難になり、海外移民等も政府は積極的に進めましたが、世界での黄禍論の台頭によって政府は厳しい状況におかれるようになりました。このような社会背景のもとに、たて続けに起きた金融恐慌と昭和恐慌のために、そしてさらに経済のブロック化のために社会不安は増大し、日本国内には閉塞感が蔓延していきました。

 無力で失策を続ける日本政府に多くの国民は失望し始め、逆に軍部への期待が高まってきていました。そして、もはや国内的な努力のみでは問題が解決できない状況となり、国外に活路を求める以外に無いという考えが台頭してきたのです。軍部は国民的支持を背景に自らが得意とする力による解決方法を探り、イギリスなどのブロック経済を真似て、他地域への進出によって恐慌を乗り切ろうと考えるようになりました。これが、後に始まる大東亜戦争への道となってしまったと私は考えています。また、それまでのすべての戦争に勝ち続けてきたという軍部への期待と、そして軍部自身の側にもおごりがあったように私は考えています。

 ところで黄禍論(Yellow Peril )について、少し詳しい説明をしておきたいと思います。これは主に19世紀末から20世紀前半にかけて、アングロ・アメリカ、オーストラリア、南アフリカ、ヨーロッパ、南アメリカなどに生じたアジア人(黄色人種)脅威論のことです。この頃から、中国人、日本人、インド人、その他のアジア人が、アメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、南アフリカなどに移民するようになり、これらの地域で勃興しつつあった産業の労働者たちの脅威となって、アジア人排斥運動が起こり、黄禍論が唱えられるようになったのです。具体的なことは書きませんが、如何に肌の色の違いだけで人間としての尊厳が当時は無視されていたかについては、関連図書で具体例をご覧になることをお薦めします。

 ヨーロッパにおける黄禍論は、極めて政治的な議論だったようで、日清戦争後の日本の中国進出と、それによる中国と日本の結合がもたらす脅威を黄禍ととらえ、日露戦争期に最も脅威論は高まりますが、日露戦争が終結すると一部の知識人を除いてほとんど問題にされなくなってしまいました。しかし、その当時、日本と同盟関係にあったイギリスだけは、多くのメディアが当初から黄禍の存在は否定していました。

 日露戦争後は、日本の北アメリカへの移民問題や、ベルサイユ講和会議における日本が提案した人種差別撤廃条項の挿入の問題などのために、上記の国々では黄禍論は強い影響力を及ぼし続けました。これらの国々では、中国人移民労働者と日本の軍事力が黄禍の源泉と見ていたようです。このような考え方が劇的に変化するのは第2次世界大戦後です。ナチズムに代表される人種主義への批判の高まり、日本の敗北による軍事的脅威の消滅、そして冷戦の始まりによる共産主義という新たな脅威の出現により、黄禍論は消滅していったのです。



日中戦争前後の中国の様子
 当時の植民地化の進む日本の周囲での脅威の中では、日本にとっての最大の脅威はロシアの南下でした。日本の明治維新後の状況は、ロシアは南下して満州まで迫ってきていて、朝鮮を植民地化して日本にまで迫るのは時間の問題と見られていました。そのために朝鮮に独立を促し、日本と共にロシアからの脅威に備えようと促しますが、朝鮮政府には聞き入れられず、辛勝した日露戦争後に韓国を日本の一部として併合して共にロシアへと備える体制を作り上げていったという歴史があります。そして、ロシアからの防衛線として満州を押さえておく必要があり、辛亥革命で失脚した満州族である清朝の最後の皇帝溥儀を要して満州国を日本が作ることになった背景もありました。

 ところで、少し時代を遡りますが、日本がロシアと戦った日露戦争での勝利は当時の世界の認識では大変なことだったということを知っておく必要があります。当時は、白人は優れた科学的知識と文明の利器を持っているので抵抗しても無駄だと有色人種は思いこんでいました。ところが、新しく生まれ変わったばかりの小さな国である日本が白人の中でも強国のロシアを相手に勝ったわけですから、世界中で驚きの声をあげました。そして、有色人種の白人に対する認識も変わっていきました。

 日本に敗戦した清朝も、この戦争の結果を見てすぐに反応を示しました。教育プログラムを日本式に改め、長らく続いていた科挙の制度を廃止し、それに部分的に代わるものとして日本への留学を行うようになったのです。清朝では日本留学がブームとなり、東京には最も多いときで数万人にも清朝からの留学生が来ていたようです。その中には、孫文や蒋介石などもいました。もちろん、その他のアジア各国からも多くの留学生が日本に来ていました。自国の近代化のために当時の日本を自分の目で見たいと日本留学を目指して来ていたのです。これらの状況を背景として、日中戦争前夜の中国の様子の話に入っていきます。

 清朝の時代の末期頃の中国は,外国による中国への侵略を防げず、中国の政治は混乱をきわめていました。当時は、先進国に多くの留学生が送られ、特に日本への留学生が多かったようです。こうした留学生や華僑を中心にして、清朝の支配を打倒して新しい国家をつくろうとする革命運動も盛んとなっていきました。その中心となったのが孫文でした。

 日本の明治維新よりは遅れましたが、中国でも同じような革命が起こったのです。そして、長い時間がかかって現在の中国へと生まれ変わりました。その革命の最中に、日本と中国が戦争することになったのが日中戦争なのです。

 1911年10月、孫文の中国革命同盟会が中心となって革命に成功し、孫文が新しい国家の臨時大総統に選出されました。そして、1912年1月1日に南京に中華民国臨時政府が発足しました。このようにして誕生した臨時政府は、大統領制を採用しました。しかし、中国に権益を持つ諸外国の干渉もあって、革命には成功したものの、その後の清朝との争いの長期化を避けるためにやむを得ずに清朝の皇帝の退位で妥協し、たった1ヶ月で大総統の地位を清朝の内閣総理大臣だった袁世凱と交代することになりました。その後、1912年夏には同盟会は国民党と名称を変えます。その後は、新しい大総統の下で専制的な政治が始まってしまいました。そのために、国民の革命運動はその後も継続していくことになりました。

 1916年に、その大総統が亡くなった後は、強力なリーダーが出現しないまま、国内は混乱した時代が続きました。1917年に第1次世界大戦が始まると、欧米列強による中国への圧迫が次第に軽減されますが、その反面で日本の侵略が露骨となっていきます。他方、軽工業を中心とした中国の民族資本も発展していきました。日本の中国侵略が強化されていくにつれて、中国では北京大学を中心として反封建主義・反帝国主義運動に発展・昂揚し、反日・反軍閥感情が国内では深刻となっていきました。

 第1次世界大戦開始後、日英同盟を理由に日本軍は中国の山東半島でのドイツの租借地を攻撃し、制圧・占領しました。そして、山東半島でのドイツの権益を日本が引き継いで、南満州及び東部内蒙古を日本の半植民地的な支配の下におくことなどを21ヶ条の要求として中国に要求しました。中国は拒否し続けますが、第1次世界大戦終了後の1919年パリ平和会議で日本の要求は世界的に認められました。しかし、このあたりから日本と中国の関係は急速に悪化し始めたのです。

 その後、中華民国は何人かの大総統が1〜2年単位で交代し続けます。革命派は各地の農民運動を弾圧しましたし、封建的土地所有関係の改善については消極的でしたので、そのような状況を背景に1921年には国内に中国共産党が誕生し、その勢力が台頭し始めることになります。

 国民党と中国共産党は対立していましたが、第1次世界大戦後の外国の侵略に対抗するために1924年1月から1927年7月まで第1次国共合作を行います。そして、第1次国共合作の終わった後、しばらくして今度は日本の中国進出が盛んになっていきました。

 1931年には、日本が満州事変を起こして東北部に満州国を設立しました。さらに、1937年7月7日から日本は本格的な中国との戦争状態に突入しました。そのために1937年9月から1946年7月まで、中国では第2次国共合作が行われ、中国は連合国側として一丸となって日本と戦うことになりました。

 このようにして1945年8月15日に日本は降伏しますが、蒋介石の中華民国政府は日本に対する損害賠償の請求は放棄しました。

 日本の敗戦の後、しばらくすると国民党と中国共産党の対立は再び始まりました。しかし、最終的には中国共産党軍が勝利して、1949年に現在の中華人民共和国が成立しました。第1次国共合作、第2次国共合作の期間中に、中国共産党は大きく勢力を伸ばしていったのが、国民党に対する最終的な勝利に結びつきました。特に、第2次国共合作の時代には英米からの軍需物資の供給もあって、国民党側が日本との戦闘で疲弊していくのに対して、共産党は着実に軍事力を蓄えていったのが後の勝因に結びつきました。後に毛沢東は「今日、中華人民共和国があるのは日本のおかげ」とまで述べています。破れた中華民国政府(国民党)は1949年に台湾へ移ることになります。

 中国本土は中国共産党による共産主義国となり、その後、朝鮮半島でも戦争が始まりました。その結果、朝鮮半島も半分は共産主義国となってしまいました。中華民国を温存し、日本の膨張を抑止したかったアメリカは、日本には勝ちましたが、日本に勝利した中華民国はその後の中国国内の内戦に負けるという結果となり、東アジアの共産主義化が急速に浸透していくことになってしまいました。

 その後、いろいろと複雑な経緯がありましたが、1972年の日本の田中首相の時代に日中の国交正常化が行なわれました。そして「日中共同声明」が締結されました。その当時の中国は、毛沢東国家主席と周恩来首相の時代でした。今でも私の心にしっかりと残っていますが、日中共同声明後の周恩来首相の談話は、すべての当時の日本人の心に強い感動を与えました。8年間に渡る日中戦争で大勢の中国人の犠牲者を出しながらも、周恩来首相の言葉は大変寛大で、日本民族に対する優しさに溢れていたのです。その談話を紹介します。

 周恩来首相の談話「中国人民は賠償の苦しみを深く味わったことから、日本人民が同じ苦しみにあうことを希望しない。また中国は莫大な損失をこうむったが、これは日本軍国主義者が責めを負うべきであり、日本人民もまた被害者であり、両国民永遠の友好のために戦争賠償要求を放棄する。」

 これが、日中戦争前後から日本と中国の国交回復までの概略の流れです。台湾については説明は省略しましたが、複雑な歴史があり、説明は簡単ではありません。



タイ国鉄製作の泰麺鉄道の歴史のお話の紹介。英文のみを掲載しました。下段に、私の翻訳を添付しておきました。
<タイ国鉄製作の泰麺鉄道の話>


(表紙)
Construction of Military Railway Connecting Thailand with Burma During the Great  East-Asia War

(1P)写真
Historic Bridge over Present Kwai River

(3P)
Construction of Military Railway Connecting Thailand with Burma During the Great  East-Asia War

During 2nd World War, Japanese army entered into Thailand on the 8th December B.E.2484(A.D.1941) with the intention of invading Burma, a British Colony.

The battle between Thai soldiers and Japanese invaders flared up in various terrains.

However, after serious negotiations, the two governments could come to terms.

The Japanese army was allowed to stay in Thailand, invaded Burma and allowed Thai  Government to build two railways into Burma for transporting war materials.

(4P)写真
Banpong Station The Starting Point for Pedestrians and Commencement of Railway  construction Thailand-Burma.

Photo Taken in September A.D.1945

(5P)写真
Konkoita Station Thailand

Photo Taken on 25th October A.D.1943

(5P)
The first railway was from Chumporn through Kraburi, Khao Fachi ending at La-un  Canal of Ranong Province, the distance was 90 kilometers.

The responsibility of Thai side was limited to Chumporn Station only.

The rest belonged to the Japanese side.

The construction was started in June B.E.2486(A.D.1943) and completed in November  of the same year.

The second railway was from Nong-Pla-Dook District-Kanchanaburi Province, passing  through Three-Pagodas check-point with the distance of 303.95 kilometers, later it  was called "Death-Railway" connecting with Tanbee-Usayat on Burmese territory with  111.05 kilometers railway, totalling 415kilometers.

The agreement between Thailand and Japan on the construction of this railway  made on the 16th September B.E.2458(A.D.1942) stated that Thailand will provide  cooperation and help in connection with provision of land on which the rail and  other constructions are built and the provision of construction material and  equipments.

The construction of railway is the responsibility of Japanese Army, while Thai side  will help hiring workers and engineers as much as it can do.

(7P)
Constructing of Death Railway

The actual construction commenced in October B.E.2485(A.D.1942) by the Japanese  Army having Thai Railway Department providing facilities.

The starting point was at K.M.64+196 of Nong-Pla-Dook Station to Kanchanaburi  Station, the distance was about 50 kilometers, resting on flat land throughout.

But from Kanchanaburi to Waterfalls station, the land starts to rise along the hills  and mounts, the highest one is called "Devil Cave" from which the land starts to  slope down through Tha-Khanoon village, Thong-Pha-Phum District with the distance  of 88 kilometers.

From this point of the railway runs along side the watercourse called Kwae-Noi to  Nikeh village of Sankhlaburi Sub-district then! right to the border line with Butma at  Three-Pagodas check-point with the distance of 303.95 kilometers.

(注記)"Devil Cave"

During Great East Asia War, the Japanese Army had used it as secret meeting room, because of its secrecy and peaceful consition.

(9P)
The construction on Thailand side by Thai workforce were composed or earth work, buildings and entrances to five stations and putting up telegraph poles and hanging  up the wires under the supervision of Japanese soldiers.

While another group of Japanese soldiers took care of bridges construction and laid  of rails of various sizes, such as 40, 50, 75 and 80 pound per yard of rail complete  with accessories for fixing and controlling the rail.

These supplements came from Burma and Malaya.

The Japanese soldiers laid the rails from Nong-Pla-Dook to Three-Pagodas check-point.

While on Burma side, the Japanese soldiers have built the railway and laid the rails  from Tanbee-Usayat Station (situated below Maramaeng Town about 55 kilometers)  toward our Three-pagodas check-point, because they have already seized the  Maramaeng Town and connected all the railways in December B.E.2486(A.D.1943).

The Japanese Army wanted all the construction works be completed as soon as  possible to facilitate the movement of soldiers and the transportation of armaments.

Therefore, several construction and rails laying were started in various places at the  same time.

Then all rails are connected at the final stage.

Some distance of the railway got to go through dense jungle mounts abound of  diphtheria, workers and prisoners of war died of this disease in great number, hence  the name of "Death Railway" was adopted.

However, the 415 kilometer railway starting from Nong-Pla-Dook Station in Thailand  to Tanbee-Usayat Station in Burma was completed in B.E.2486(A.D.1943) within one  year time, employing about 60,000 workers from India, Burma, Malaysia, Indonesia, China  and Thailand including prisoners of war from England, Holland and Australia.

(11P)
The Construction of Bridge by japanese army

The construction of Thailand-Burma Bridge was to serve the purpose of war, by  military tactics.

It must be completed as soon as possible, therefore most of the parts were made  of woods.

It was time saving procedure.

There were all together 395 bridges on Thailand side including the big one which ran  across Kwai Yai River at Ban Tha Makham, called "Across Kwai River Bridge"

(13P)
It was the work of the prisoners of war, it was a low bridge, made of wood, and  situated about 100 meters south of present iron bridge.

The construction was started around end of November B.E.2485(A.D.1942) during the  low tide season of the river and completed around beginning of February B.E.2486(A.D.1943).

The rail was laid by British prisoners of war, starting from Nong-Pla-Dook Station  and reached this bridge on 26th January B.E.2486(A.D.1943).

From this point they continued laying the rail up to K.M. mark No.100, which was  situated between Tha-Kilen and Ai-Hit Station, on 22th March B.E.2486(A.D.1943).

Presently it is Loom-Soom car park.

(15P)
Later on, the Japanese Army built another permanent bridge made of steel platform  on reinforced concrete pillars.

The platform was composed of 11 spans of 20.80 meters long each.

Above the water way.

From the western bank of the river, the bridge was changed to wood and started  building in February B.E.2486(A.D.1943) and completed in September B.E.2486(A.D.1943)  taking about seven months.

After the new steel bridge was put into use, the Thai Government asked the  Japanese Army to remove the wooden bridge, because it obstructed the traffic.

The Japanese Army removed it on the 18th February B.E.2487(A.D.1944).

(17P)
Air Strike

From the 3th November B.E.2487(A.D.1944), the bridge across River Kwai Yai was  bombed several times by the Allies, the one took place on the 28th November B.E.2487(A.D.1944), the middle span was destroyed.

But the Japanese Army had foreseen this danger and found the way out by  building diversion bridges to the water way.

The transport train parked on one side of the river, the armaments were  transported from one side of the river to another side by boats and loaded it into  another waiting train.

(19P)
Peace

On the 6th August B.E.2488(A.D.1945) at 8:45 hrs (Japanese time) the United States  of America's Air Force dropped a most destructive bomb called "Atomic Bomb" on  Hiroshima City and killed about 220,000 human lives and other living things.

On the 9th August B.E.2488(A.D.1945) at 11:00 hrs (Japanese time) the United  States of America's Air Forces dropped the 2nd Atomic Bomb on Nagasaki City and  destroyed about 40,000 human lives.

On the 15th August B.E.2488(A.D.1945) at 12:00 o'clock sharp (Japanese time) the  Tokyo Broadcasting station declared an announcement of the Emperor of Japan, admitting the defeat without conditions to the Allies and ordered all Japanese  soldiers to completely lay down their arms.

(21P)
The great East Asia War started on the 7th December B.E.2484(A.D.1941) and  ended on the 15th August B.E.2488(A.D.1945).

Starting from the 19th August B.E.2488(A.D.1945) the Allies Army started disarming  Japanese soldiers in Thailand and discussed with Thai Government on all subjects.

As regards the construction of this railway, the Japanese had forced the prisoners  of war to build the railway and many became sick and died.

The United Nations want to build two cemeteries, one at Tambon Donrak, Muang  District, Kanchanaburi Province, containing 6,982 deads and another one at Khaopoon  (on the west side of Kwai Noi River) Muang District, Kanchanaburi Province, containing 1,740 deads, total number of deads were 8,722.

In Burma also, a cemetary was built containing the deads as well.

(23P)
When the war ended, Royal State of Railway (former name before changing to State  Railway Of Thailand) from the 1th July B.E.2494 (A.D.1951) had received budget for  repairing the damaged steel bridge, the span 4, 5 and 6 were damaged since B.E.2493-2495 (A.D.1950-1952).

On that reconstruction, mid-river pillars No.5 and 6 were omitted and replaced with  two steel spans and replaced the outer wooden span with 6 steel spans of 15.35  meters each putting the total length of the bridge at 322.90 meters.

(25P)
Beside the said over Kwai River Bridge there was another bridge called "Cave  Krachair Bridge" at K.M.174+173, the another bridge which was recorded in the  history, because it was a wooden bridge, built on limited space laying along a  mountain cliff on Kwai Noi River about 340 meters long.

Laying the rail on limited space and lacking required quality control system, accidents  of the train being derailed but no serious injuries have become quite a common  gossip, thanks to the Japanese soldiers who put some new engineering techniques to  it.

The gossip slowly disappeared.

In the years B.E.2534-2535 (A.D.1991-1992) the State Railway of Thailand has  reconstructed the whole system by using reinforced concrete structure no more  wooden parts existed.

The structure remains strong and usable until this day.

(27P)
Taking Over the Railways and Demolishing Some Parts

After the war ended in August B.E.2488 (A.D.1945) with the Japanese accepting the  defeat.

This railway had become an asset of the Allies.

The British Army demolished to railways starting from the Thailand-Burma  demarcation line with a distance of 3.95 kilometers.

As for the remaining 300 kilometers long, the British Government offered to sell the  railways, wheels, rollers, materials, instruments and factories to Thai Government for 1,500,000 Pounds.

But after the negotiation, the price was reduced to 1,250,000 Pounds.

The Royal State of Railway took charge of this railway in B.E.2490 (A.D.1947).

After putting a due consideration to the economy, transportation and other aspects, the State Railway of Thailand decided to demolish the railways from the  demarcation line to Waterfalls Station, the work was started from October B.E.2494  (A.D.1951) to February B.E.2497 (A.D.1954).

While the remaining 130 kilometers rails up to Nong-Pla-Dook Station must be  upgraded to permanent standard and put into service between Nong-Pla-Dook and  Kanchanaburi Stations on the 24th June B.E.2492 (A.D.1949) and between  Kanchanaburi and Wangpoh Station on the 1th April B.E.2495 (A.D.1952) and the last  stretch from Wangpoh to Waterfalls Station on the 1th July B.E.2501 (A.D.1958).




<タイ国鉄製作の泰麺鉄道の話>  ※私の翻訳です。


(表紙)
大東亜戦争中にビルマとタイを結ぶ軍用鉄道の建設

(1P)写真
現在のクワイ川に架かる歴史的な鉄橋

(3P)
大東亜戦争中にビルマとタイを結ぶ軍用鉄道の建設

1941年12月8日(B.E.2484)、第2次世界大戦中、イギリス植民地であるビルマを侵略するために日本の軍隊がタイに入って来ました。

各地で日本の侵略者とタイ軍との戦闘が勃発しました。

しかし、両国は重要協議を経て話がまとまりました。

日本軍は侵略されたビルマやタイに留まる許可を受け、タイ政府から軍需物資輸送のためにタイとビルマ間の鉄道建設の許可を受けました。

(4P)写真
バンポン駅。歩行者のための出発点。そして、タイとビルマ間の鉄道建設の開始場所。

西暦1945年9月に撮影された写真

(5P)写真
タイのコンコイタ駅

西暦1943年10月25日に撮影された写真

(5P)
最初の鉄道は、チュムポーンからクラブリを通ってラノン県のカオファチのラウン運河までで、距離にして90kmでした。

タイ側の責任はチュムポーン駅だけに制限されました。

残りは日本側に属していました。

建設は1943年(B.E.2486)6月に始まり、同年11月に完成しました。

第2の鉄道は、カンチャナブリ県のノンプラドック地区から、303.95kmの距離にあるスリーパゴダパスのチェックポイントを通過し、そこから111.05kmの鉄道によってビルマ領のタンビューザヤットへ接続される全長で415kmになるその鉄道は、後に「死の鉄道」と呼ばれました。

この鉄道建設におけるタイと日本との間の協定は、1942年(B.E.2458)9月16日に結ばれました。タイは、土地の供給、そこにレールおよび他の構造物の建設、および建設材料と機器の供給などについての協力の提供という内容でした。

鉄道建設は日本軍の責任ですが、タイ側はできる限り多くの労働者とエンジニアを雇用しなければなりませんでした。

(7P)
死の鉄道の建設

実際の建設は、タイ鉄道部門提供設備を持っている日本軍によって1942年(B.E.2485)10月から開始されました。

出発点はカンチャナブリ駅まで64.196kmのノンプラドック駅で、その間の距離は約50kmの平らな土地でした。

しかし、カンチャナブリ駅から滝駅(現在のサイヨーク・ノイ駅です)までは土地は丘や山に沿って登り始め、最も高いところはタ・カノーン村を通過して下がり始めるところにある「悪魔の洞窟」と呼ばれるところで、トンパプム地区から88kmの距離のところです。

鉄道はクワイ・ノイ川沿いに走ってサンクラブリ(副)地区のニケ村へ、それから303.95kmのスリーパゴダパスのチェックポイントでビルマ国境を右へ曲がります。

(注記)悪魔の洞窟

大東亜戦争中、日本軍はその秘密性および平和で静かな環境のために秘密の会議室としてそれを使用しました。

(9P)
タイの労働力によるタイ側の建設は、日本の兵士の監督の下で、建物や5つの駅の入り口、電柱の建柱、そして電話線の切り離しなどの仕事とされました。

同時に、他の日本兵士のグループは橋の建築の準備や、1ヤードあたり40,50,75,80ポンドなどの様々なサイズのレール、及びレール敷設のための付属品の用意を始めました。

これらの補足はビルマとマレー半島から運ばれました。

日本兵士は、レールをノンプラドックからスリーパゴダパスのチェックポイントに運びました。

その間ビルマ側では、日本軍はタンビューザヤット駅からスリーパゴダパスのチェックポイントへ向かってレールを置き(タンビューザヤット駅から約55kmのマラマエン町に置いた)、鉄道敷設工事をしていました。すでにマラマエン町は日本軍の支配下にあり、そして1943年12月にはすべての鉄道が接続しました。

日本軍は、できるだけ早くすべての建設工事を完成させ、兵士の移動や軍需物資の移送を容易にさせたかったのです。

従って、様々な場所で同時に建築工事やレールの敷設工事が始められました。

そして、すべてのレールは最終的段階で接続されました。

鉄道のいくつかの区間はジフテリアの蔓延する濃いジャングルを沢山通り抜けるために、大勢の労働者や戦争捕虜の人々はこの病気のために死亡しました。それゆえ、「死の鉄道」という名前が採用されました。

このようにして、タイのノンプラドック駅からビルマのタンビューザヤット駅までの415kmの鉄道は、1943年に完成しました。イギリス、オランダ、およびオーストラリアからの戦争捕虜、及びインド、ビルマ、マレーシア、インドネシア、中国、およびタイからの約60,000人の労働者が雇用されました。

(11P)
日本軍による橋の建築

タイとビルマを結ぶ鉄道の建設は、軍の戦術によって戦争の目的に叶う必要がありました。

できるだけ早く完成させなければならないため、従ってほとんどは木材で作られました。

それは時間を節約するためでした。

タマカム町でクワイ・ヤイ川を横断する「クワイ川鉄橋」は、タイ側の395の橋の建築と一緒であった。

(13P)
それは戦争捕虜の仕事でした。それは木材で作った低い橋でした。そして、現在の鉄橋の約100m南に位置していました。

建築は乾季の間、川の水量が少なくなる1942年の11月末頃から始まり、1943年の2月の初め頃に完成しました。

レールは、ノンプラドック駅から始まり、1943年1月26日にこの橋に到着し、イギリスの戦争捕虜の人々によって敷設されました。

このポイントから、彼らはレールにK.M.マークを取り続けました。NO.100のK.M.マークは、1943年3月22日にタキレン駅とアイヒット駅の間に置かれました。

現在では、それはローンソーン駐車場にあります。

(15P)
後に日本軍は、鉄筋コンクリート橋脚の上に鉄橋で作られた別の永久的な橋を建築しました。

橋梁はそれぞれの長さが20.8m、11のスパンにより構成されていました。

水路の上で。

川の西の土手から、橋は木製に交換された。そして1943年2月に建設が始まり、7ヶ月を要して1943年9月に完成しました。

新しい鉄橋が使用開始後、タイ政府は日本軍に木製の橋が交通を遮断しているので撤去するように頼みました。

日本軍は、1944年2月18日にそれを撤去しました。

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空襲

1944年11月3日からクワイ川鉄橋は連合国によって数回攻撃されました。1944年11月28日には中間スパンが破壊されるという事態が起こりました。

しかし、日本軍はこの危険を予知し、転換橋を水路の外側に建てる方法を見つけました。

輸送列車は川の一方の側に駐車し、軍需物資は川のもう一方の側へボートにより輸送され、別の待っている列車に荷物は積み替えられました。

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平和

日本時間で1945年8月6日の8時45分に、アメリカ合衆国空軍は「原子爆弾」と呼ばれる最も破壊的な爆弾を広島市に投下し、220,000人の人命と他の生物の生命を奪いました。

日本時間で1945年8月9日の11時ちょうどには、アメリカ合衆国空軍は第2の「原子爆弾」を長崎市に投下し、40,000人の人命を奪いました。

日本時間で1945年8月15日の12時ちょうどに、東京放送局は同盟国に無条件で降伏するという日本の天皇陛下の告知を宣言しました。そして、すべての日本兵は完全に戦闘を止めるように命じられました。

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大東亜戦争は1941年12月7日に始まり、1945年8月15日に終わりました。

連合国軍はタイ国内の日本兵の武装解除を1945年8月19日から開始し、すべてのテーマについてタイ政府と協議しました。

この鉄道の建設で、日本軍は鉄道建設を戦争捕虜に強制し、多くは病気になり、そして死にました。

国連は2つの墓地をつくること望みました。1つはカンチャナブリ県ムアン地区のドンラク町で死者6982人を収容し、もう1つはカンチャナブリ県ムアン地区のカオプーン(クワイ・ノイ川の西側)で死者1740人を収容し、死者数の合計は8722人でした。

ビルマにも墓地がつくられ、上記以外の死者が収容されました。

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戦争が終わった時、1951年7月1日から王国鉄道(タイ国鉄に変わる前の名前)は、1950〜1952年以来損傷していたスパン4,5,及び6の損傷を受けた橋梁を修理するための予算を受取りました。

その復元については、川の中央のNO.5とNO.6の橋脚が省略されて2つの橋梁とされ、中心部から離れた外側の木製スパンも15.35mの6つの鉄製スパンとそれぞれ交換され、橋の全長は322.90mとなりました。

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クワイ川鉄橋の話としては、歴史の上で記録されているもう1つの橋「洞窟のクラチェア橋」と呼ばれる別の橋がK.M.174+173にありました。それは全長約340メートルの木製の橋で、クワイ・ノイ川沿いの山肌を削る崖の制限されたスペースに建設されていた。

制限されたスペースにレールを置きながら、そして必要な品質管理システムを欠きながら、いくつかの新しいエンジニアリングテクニックを用いた日本兵のおかげで、列車の脱線事故、しかし無重傷の事故、それはまったく一般的なゴシップになりました。

ゴシップはゆっくり消えました。

タイ国鉄は1991〜1992年には、存在していた木製部分はすべて鉄筋コンクリート構造に全体のシステムを改築しました。

その構造は強さを維持し続け、今日まで使用可能です。

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鉄道の引き継ぎと、いくつかの部分の撤去

日本の敗戦で戦争が1945年8月に終わった後、この鉄道は連合国の財産になりました。

イギリス軍は、タイとビルマの国境線から始まる3.95kmの距離で鉄道を撤去しました。

残る長さ300kmについて、イギリス政府はタイ政府に、鉄道、ホイール、ローラー、素材、機器、および工場を1,500,000ポンドで売ることを申し出ました。

しかし、協議後の価格は1,250,000ポンドに減らされました。

王国鉄道は1947年にこの鉄道を買い取りました。

交通や色んな状況を経済面から考慮した後、タイ国鉄は国境線から滝駅までの鉄道を撤去することを決めました。撤去作業は1951年10月から始まり、1954年2月まででした。

残り130kmの区間はノンプラドック駅まで永久的な標準にレールがアップグレードされることになり、ノンプラドックとカンチャナブリ駅の間は1949年6月24日にサービスが開始され、カンチャナブリとワンポー駅の間は1952年4月1日にサービスが開始、最後の区間であるワンポー駅から滝駅までは1958年7月1日にサービスが開始されました。





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