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Don't forget! 1995/01/17


 1995年1月17日の朝を、私は香港のフラマ・ケンピンスキーホテルで迎えました。いつもの香
港旅行のように観光や買い物を済ませ、啓徳空港に着いて関西空港行きの乗客が深刻そうな
顔をしていても、私は何も気が付きませんでした。(同行していた友人は気が付いていたらしい
のですが、私を気遣ってわざと知らせなかったようです。)

 成田空港に着き、テレビの画面に映る死亡者名のリストを見て、私は初めて異変に気が付き
ました。新聞は売り切れていました。ただ一つ与えられた情報は、帰途のスカイライナーの車
内電光ニュースの、「死者1000人を超える。」だけでした。スカイライナーの車内から母に電話
しましたが、全く繋がりませんでした。

 日暮里駅でようやく1部だけ売れ残っていたスポーツ新聞を買って、私はその事態の深刻さ
を知りました。寮に戻ると母から電話がかかってきました。私の家族「は」無事でした。

 翌日から、私は新聞・テレビを食い入るように見続けました。幼い頃見た思い出の残る建物
が、無惨に倒壊していました。私を鉄道会社に招き入れた阪急電車や阪神電車は、寸断され
て復旧の見込みは立ちませんでした。私は涙をこらえながら、ニュースを見続けました。



 私にとって腹立たしかったのは、日本テレビとフジテレビジョンの報道姿勢でした。日本テレ
ビは、何故か地震のニュースに不気味なBGMを付けて流し続けました。(いまも相変わらずや
っています。)フジテレビジョンは、キャスターの人選・言動共に、とても公正中立であるべき報
道機関のものとは思えませんでした。確かに報道は必要です。しかし、被災者の神経を逆なで
するような(そしてそれをあえてしなければならない理由が見当たらない)ことをしてまで報道と
いうものはしなければならないのでしょうか…?



 8月になって、私は一人で神戸を訪れました。神戸に行くのは10年振りでした。梅田から阪
急電車に乗ると、武庫之荘を過ぎる頃から景色が一変しました。倒壊した家、傾いたままのマ
ンション、中間階が押しつぶされた神戸市役所…。平衡感覚を失うような奇妙な景色の中を、
私はひたすら歩き続けました。自然と涙があふれてきました。



 何故6000人以上もの人が亡くなったのか?少しでも助けることは出来なかったのか?い
や、もし昼間に地震が起きていたら、もっと多くの人が亡くなったかもしれない…。



 1995年1月17日。この日のことは忘れてはいけないでしょう。そして私は最近東京で地震が全
然起きないのが不気味でならないのです。



朝日新聞1995年1月17日夕刊(大阪本社版)



読売新聞1995年1月17日夕刊(大阪本社版)


 結局この地震に対して、私が出来たことは二つだけでした。

   ・募金をすること。

   ・車両部に行って、「廃車になる車両を阪神電鉄に貸せないか?」と提案したこと。
     (阪神電鉄で検討されたそうですが、結局問題が多く、実現しませんでした。)

 結局私は何の役にも立たなかったのです。



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