橋本・五條界隈を歩く
■[橋本へ]地下鉄御堂筋線でなんばに出て、予定していたより30分ほど早く南海難波駅ホームにあがったのだが、9時台の極楽橋行(案内は高野山行)が出た直後で、けっきょく30分早く着いた意味がなくなった。
予定していた 10:00発の10分前に極楽橋行特急「こうや」があったので、せっかくなので橋本までの特急料金500円を払って乗ってみることにした。
電車の発車まで時間があったので、ホームで電車の写真を撮ろうとしたらデジカメを持ってくるのを忘れているのに気がついた。前回、デジカメをもって出たとき、電源が入らず、電池を交換しても作動しなかった。ついに壊れたかと思ったのだが、帰ってよく確認すると、電池との接点が汚れていたようでそのためだったらしい。そして、今回はそのデジカメを忘れるとは・・。
今年になって手に馴染んでないところを見ると、このデジカメもぼちぼち更新すべき時期なのかなあ。
「こうや」は全席指定の特急だが、特急券を持たずに乗ってくる人も多い。まだ、観光シーズンの始まる前だから車内はがらがら。多客時なら立つことになるのだろう。車掌は女性が努める。4両編成それぞれに配置されているようだが、がらがらだから張り合いがないことだろう。
女性車掌は車内を行ったり来たりしていたが検札には来なかった。事前に座席指定の状況を把握しているから検札しにこないのならいいけど、特急券を持たずに乗った乗客が申告しないと特急料金を取り損ねることになる。降りるときに特急券を回収しているのかと思ったら、それもしてなかった。手元に特急券が残ったのは記念になってよかったけれど。
特急は難波から43分ほどで橋本に着いた。快速急行より5分ほど速いだけだ。雪が降ったりするような天気であったが、とりあえず改札を抜けて、町を歩く。
橋本は和歌山と奈良とを結ぶ大和街道の街道筋にあって、駅と紀ノ川の間に建て込んだ家々のなかには古い町屋も残っている。
前回、橋本に降り立ったのは1996年3月だからもう8年前のことだ。駅の近くにレンガ造の建物があったが、それは健在で、前回は気がつかなかったのだが錦湯という銭湯の釜場らしい。
当初の予定では、橋本から五條に行くつもりだったのだが、天気もいまひとつだし、デジカメを忘れたので、行く気がそがれてしまった。それで、反対方向の和歌山行に乗って高野口に行くことにした。
橋本駅前付近は南へ200m行くと紀ノ川が流れていて、その間の狭い範囲に家々が建て込んでいる。JR和歌山線で和歌山方向に向かうと少し川までの距離が離れるので、その広まったところ、国道沿いに市役所とかの官公庁、量販店などが並んでいる。
和歌山線は二両編成の電車が走っているのだが、無人駅では、後の車両のドアは開かず、運転手最寄りのドアから下りるワンマン運転である。検札専門の車掌が添乗していて検札してまわっていた。橋本から5分ほどで高野口に着いた。無人駅である。
■[高野口から九度山へ]高野口駅は、前回、和歌山線を通ったとき、駅前に木造三階建ての旅館があって、駅舎も古そうで、一度降りてみたいな、と思っていた駅だ。この駅舎はけっこう広い待合室を持っており、高野山詣での人たちで賑わっていたころのものではなかろうか。
高野口駅から九度山町のほうに町並みが続いている。ところどころに古い町屋があったりする町並みだ。工場の跡らしいレンガ造の建物があったりもする。
昼食を取ろうと思ったが、はいれそうなところがなくて、奈良と和歌山を結ぶ国道24号線沿いにあったスーパーでパンを買って済ます。その近くにホームセンターがあったのでそこで「写るんです」を買った。デジカメを忘れたので、いらん出費だ。せっかくここまで来たのに何も撮らずに帰るのもしゃくだから仕方がない。
もういちど、高野口駅に戻る。途中に立派な町屋(写真)が「双松舎ギャラリー」として使われているのを発見したが、日曜日に公開されているそうで、建物の写真を撮っただけ。
そして、高野口駅舎や駅前旅館とかの写真を撮って九度山のほうへ向かって歩く。家並みが尽きると紀ノ川である。対岸が九度山町で、石垣で補強した河岸段丘の上に家屋が並んでいる。
九度山橋を渡る。今の県道の橋の上手に昔の橋の橋台が残っている。今の県道は家並みをそれるように走っているが、昔の橋がかかっていたところからみると町並みのなかを通って高野山のほうに伸びていたようだ。それでそちらのほうに歩を取る。
河岸段丘の上に町並みがつながっている。高野口駅からこうやって歩いてくると、家並みが途切れていない。それだけ、高野山詣で人たちで賑わったことで町並みが形成されてきたということなのかもしれない。真田通りという通りを行くと、南海九度山駅の下に出た。
真田通りというのは、真田幸村にちなむものだろう。県道を高野口町のほうに500mほど戻ったところに真田庵というお寺がある。真田幸村一族が隠遁していたところで、大坂の陣で奮戦、戦死したあと、その場所にお寺が建てられた。紀ノ川の支流不動谷川は川面までとても高く、断崖絶壁の谷筋を見せる。当時の建物の痕跡はなく、井戸があるくらい。真田幸村ゆかりの地として史跡となっているらしい。
九度山駅に行く。開業当時の建物なのだう、瀟洒な駅舎だ。難波行電車まで30分ほど時間があったので、ひとつ難波寄りの学文路(かむろ)駅まで歩くことにした。距離は2kmほどなので、充分歩けるとふんだ。
学文路駅では、駅名に「学」の字があることから、入場券を5枚セットにして、「御(5)入学」という語呂合わせの入学試験お守りとして昔から発売している。この駅舎も古い建物だ。
学文路から電車に乗って難波に戻る。(2004.03.06)
■[五條へ]今回は、デジカメを持ったのをちゃんと確認して出かけてきた。前回は難波から特急「こうや」に乗ったが、今回はそのあと 10:00発極楽橋行の快速急行に乗る。春の彼岸ということで特急は全席完売らしい。
紀見トンネルを抜けて50分ほどで橋本に着いた。今回も天気はいまひとつ。難波から「スルッと関西」カードを使ってきた。跨線橋にもカードを通すゲートとJRの券売機があったが、奈良方面行の電車まで間があったので、改札を抜ける。ここはJRと南海のきっぷ、それに「スルッと関西」カードに対応した改札になっているようだ。
JRのきっぷを買ってまたホームへ。二両編成のワンマン電車に乗って五条に向かう。今回も車内検札要員が添乗していたが、次の下兵庫で下車した。この電車と隅田で行き違う和歌山行がすぐ来るからで、上り下りの電車にあわせて、和歌山線内を行き来して検札しているのだろう。
■[五條]橋本から15分ほどで五条に到着。けっこう大きな町である。駅名は五条だが、市名は五條である。南側に町が広がっている。駅前のバス乗り場に行ってみた。最初の目的地は、五條市立文化博物館である。市街地からかなり離れたところにあるらしく、バスで行くように案内されていたからだ。
古びたバス待合室はJRバスが走っていたなごりだろうか。かつて、五條と新宮を結ぶ五新線という計画線があって、五條市内から隣町の城戸までの一部路盤の完成したところを専用道路として国鉄バスが走っていた。それがJRバスに引き継がれはしたが、けっきょく、JRバスは撤退、いまは奈良交通のバスが走っているようだ。
待合室には、北側の住宅街方面に行くバスは駅北側のロータリーから出ていると案内されいたので、線路を越える陸橋を渡って北側にいってみる。バス停にバスが停まっていてすぐに発車しそうだったので、そのまま乗ってしまった。ほんとは、時刻を調べて昼食を取るつもりだったのだが・・。
バスは小ぶりのバスである。運転手に博物館に行くには、どこで降りればいいか確認して座席に腰を落ち着けた。ほかに乗客はいない。駅前をすぐに出たバスは農地の広がるところを数分走ると一転して住宅街になった。南大和ネオポリスという住宅街だ。
田園1丁目バス停で下車する。しかし、博物館は、標識によるとここからさらに 1.5kmほど山のほうに向かったところにある。なんと足場の悪い博物館なのだ。クルマで来るのがあたりまえと考えているか、外来者のことをまったく考えてないというか、ほんとに利用してもらえる施設になっているのだろうか、と疑問に思える博物館である。
この建物は、1995年4月に竣工した博物館で安藤さんの設計になる。途中から見える丘の上に建つ建物を見て、あれだとわかる、特徴を有している。南側に五條市街地が一望できる眺めがいいが、それにしても足場がわるすぎる。向かいに清掃工場があって、市がこのあたりを開発するとき、ついでに文化施設も、という感じで設けたのかもしれない。文化施設はやはり利用しやすいところに立地すべきなのではないか。
道路からはいると建物はもう一段高いところにある。左手に入口に至るエレベータ塔がすっと立っていて、階段はジグザグに登っていく。隣接して別館があって、一本の木立を生かした擁壁がこだわりを感じさせる。
建物は地中に埋めこまれたような感じ。入口は3階にある。円を基調にした建物で、外に出ている部分がリング状の4分の3を使っているような形になっている。その欠けている部分が屋外広場になっていて、見晴らしがよい。
資料などの展示空間は、4分の2くらいの部分を占めていて、1階から3階まで吹き抜けになっていて、フロアが階段状に配されている。下から見上げると大きな空間だ。
展示内容は五條を中心とした歴史的事項の紹介である。限られたスペースのなかで、整った展示をしていると思われる。
館内は閑散。クルマで来たらしい見学者がほかに数人見てまわっていたが、わざわざ歩いて見にくる人はいないのでないか。
小雨の降るなか、とぼとぼとバス停に戻る。
田園1丁目バス停付近に食堂のようなところがあったが混んでいたのではいるのをやめて、けっきょく、スーパーでパンを買って済ます。駅まで 2.5kmほどの距離、すぐバスがないようなので歩く。
来るときに乗ったバスは、五条バスセンター行で、降りたバス停のある道路の方向が街の方に向いたので、このまま行けば街のほうに行くのだろうと歩き出す。地図を確認すればよかったのだが、途中でぐにゃりと曲がっており、いまさら引き返す気にもならず、そのまま歩いて行くと、住宅街をはずれ、そして国道 310号線に出た。けっきょく、3kmほど歩いて和歌山線を越え、街の中心にたどり着いた。
国道24号線とぶつかる交差点が「本陣」というらしい。この近くに櫻井寺という寺があって、五條の代官所を襲撃した天誅組が、この寺を本陣にしたことにちなむのだろう。ここには「天誅組本陣跡」を示す石碑が立っている。
天誅組の乱は幕末、1863(文久3)年、尊攘倒幕派志士が起こした最初の挙兵事件。襲撃された代官所は今の市役所のあるところにあったらしい。
代官所は、この事件のあと移転していて、その跡が史跡公園として整備されている。ここに「明治維新発祥地」という石碑がある。長屋門が残され、そこは天誅組関係の資料が展示されている。SLも置かれている。
本陣交差点を大川橋のほうに進むと栗山家がある。道路からすこし引っ込んだところにある。立派な民家なのだが、その前に貧相な建物が建っていて、全体像が見えない。いまは一般公開されていないが、建築年代が明らかな民家としては最古の建物だという。重要文化財に指定されている。
新町通りには古い町並みが残っている。最近建てられた建物は、他の建物と雰囲気があうような外観をしている。市が補助金を出したりして、修景に努めているらしい。
しばらく行くと、町並みを高架で横切るコンクリートの構造物があった。
五新線の遺構だ。取り壊すのにも金がかかるからそのまま打ち棄てられているのだろう。アーチが並ぶの高架で戦前のものらしい。
そのまま歩いて行くと、大和二見駅の近くに出た。いまは無人駅である。駅舎の財産票に「明治35年」とあったから創業当時の駅舎である。ちょうど和歌山行に接続していたが橋本に戻るより高田に行ってみようと考え、奈良行を待つ。途中のスーパーで買ってきたコロッケにパクつきながら。
■[大和高田へ]大和二見からワンマン運転の桜井線経由奈良行二両編成に乗る。五条の次は北宇智、ここはスイッチバック式の駅だ。スイッチバック式の駅にしなければならないほど山中の駅という感じはあまりしない。和歌山線は開業は古く、蒸気機関車時代のなごりなのだろう。それでも、ここを過ぎれば、紀ノ川−吉野川水系から大和川水系になるのだ。
吉野口あたりから掖上にかけては農村地帯、大和棟の建物をけっこう見ることができ、ゆっくり歩いてみたくなる。
御所を過ぎ、45分くらいかかって高田に着いた。初めて降りる駅だ。
予備知識はまったくなかった。古い町並みでもないかと西口からスタート、内本町界隈はけっこう古い町屋が残っている。大きな専立寺という寺がある。高田はもとはこういった寺の寺内町として形成された町らしい。寺の前に近代建築が残っていた。
そのまま南のほうに歩いて行くと大きなスーパーがあって、近鉄南大阪線の高田市駅に出た。アーケード街があって、繁華なところだ。
ここまで来てしまうとJR高田駅に戻る気もうせて、このまま近鉄に乗ってあべの橋に出ることにした。やってきた急行に乗ると35分ほどであべの橋に着いた。もっと時間がかかるのかと思ったけれど、あんがい近い。(2004.03.20)