比叡山から坂本へ/西国街道ぶらり
■[比叡山]新快速を京都駅で降りて駅前のバス乗り場へ。相変わらず観光客が多い。乗り場を確かめて京阪バス乗り場へ。すでに10人くらいの人が列を作っている。
京都駅前9:10発比叡山頂行バスに乗る。バスは京都駅前を出ると七条通りから河原町通りを北上し、御池通りを右折して鴨川を渡り、もう一度右折して京阪三条駅へ。少し時間調整したあと、川端通りを北上し、出町柳駅に寄って今出川通り東に向かい、百万遍から銀閣寺道、白川通りを北上して別当町から白川に沿って山間に入っていく。
観光地へのバスだから観光案内がはいる。この道は白川と琵琶湖と結ぶ山中越えという街道のひとつで、白川砂、白川石の産地なのでそうである。灯篭とか作る石材屋がある。瓜生山の反対側には北白川天然ラジウム温泉というのもある。カーブが多くて、険しい道だ。
かなり登って、府県境を過ぎると大津市、そこらあたりは比叡平という住宅街になっている。こんな山間に住宅街があるとは思わなかった。
そして、田の谷峠ゲートから比叡山ドライブウェイにはいる。右手眼下に琵琶湖が広がる。なかなかの眺めであるが、高みに登ってきたせいか、雲のなかにいるようなガスった天気になってきた。トンネルを抜けて比叡山バスセンターで下車する。
このまま比叡山ケーブルで坂本に下ろう思っていたのだが、バスセンターからケーブル延暦寺駅へ行く道がない。ドライブウェイは自動車専用道で歩行禁止なのだ。ケーブルに乗るにはひとつ手前の無動寺バス停で下車すべきだったようだ。
バスセンターからは延暦寺東塔の境内を通らなければどこにも行けないようになっている。せっかくだから根本中堂にお参りする。根本中堂は信長の比叡山焼き討ちのあと、江戸時代初期に再建された建物。創建当初の姿を伝える。
西塔、横川も拝観できるのだが、今回はパス。ケーブル延暦寺駅へ。
比叡山鉄道は1927年の開業で、2.0kmの営業距離は、日本一長いケーブル線ということになっている。
また、坂本、延暦寺の両駅舎は登録文化財になっている。延暦寺駅のビート装飾はめずらしい。ちょうど10年前にケーブルに乗りにきているのだが、その頃は建物への興味はまったくなく、そんな装飾があったことすら目に入らなかった。
このケーブルには中間駅がある。停めてもらうにはあらかじめ申告しないといけないらしい。登り電車に途中下車する人がいたらしく途中で停車した。停留所の位置は登り下りする車両がちょうど停まるように設けられているのかと思ったらこちらの車両はまったく関係ないところだった。
約10分ほどで麓の坂本駅に着いた。切符には比叡山の僧侶が毫したした「福」と「縁」文字が記されており、記念にもらえるのがありがたい。「福」と「縁」は車両の名前にもなっている。
■[坂本]この地域一帯が重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。穴太積みという石積みに特徴があって、叡山の門跡寺院が寄り集まっている地区である。穴太積みを行う技術集団穴太衆は戦国時代には城の石垣などの施工をやったそうだ。
旧竹林院の庭園をみる。旧竹林院はそうしたなかにあって、大正時代に事業家の手にわたったところで、現在は大津市が管理している。庭園は名勝に指定され。園内に残された茶室は大津市の文化財になっている。
■[一日乗車券]京阪坂本駅で一日乗車券を購入する。坂本・石山線と京津線が自由に乗り降りできて500円という切符。3回乗り降りすれば元が取れる。さっき乗ったケーブル線や飲食店などの割引という特典もある。(ケーブルに乗る前に入手すべきだったがもう遅い)。
まず、坂本から皇子山まで乗る。JR西大津駅最寄りで、連絡通路が整備されている。近くのジャスコで昼食。
そのあと、柳ヶ崎に行ってみる。琵琶湖ホテルは新たに浜大津駅の近くに設けられているが、昔の琵琶湖ホテルの建物は、びわ湖大津館として健在。レストランや結婚式場、貸しホールなどとして利用されているようだ。貴重な建物だけに壊されなくてよかったと思う。
神宮道を歩いて近江神宮前駅に行き、そこからまた電車に乗って、三井寺で下車する。琵琶湖疏水最寄り駅で、かつての江若鉄道の線路跡が大津絵の道という遊歩道に使われている。
そこから長等のほうに歩く。二丁目界隈には飲み屋が多く、かつては花街だったのだろうな、と思える軒にボール電球を下げた建物があったりする。
県庁や武道場など大津市内に残っている近代建築をチェック。
浜大津から京都市地下鉄直通電車に乗る。しばらく道路上を走ってからそれて栄町駅。ここは大津駅に近いのだが裏町という感じ。そのあと、ふたたび国道1号線に沿い、山間を駆け抜ける。四宮に車庫があって、JR山科駅前の山科駅へ。
そしてJR線の下を抜けて地下にもぐると地下鉄線と合流する御陵駅。ここででいったん下車する。ここまでが一日乗車券で乗れる駅なのである。
■[帰路]御陵駅は醍醐方面の地下鉄と浜大津方面の京阪京津線の分岐駅だが、駅の地下ホームは二層構造になっている。次の二条行地下鉄に乗って御池で烏丸線に乗り換え四条で下車。乗り換えて烏丸から阪急で梅田に向かう。(2004.10.11)
■[富田から阿武山へ]JR摂津富田駅で下車する。橋上駅の南側に降りて300mほど行くと阪急富田駅があって、JRと阪急が比較的接近しているところだ。
阪急を通りすぎ南へ向かうと大きな寺がある。富田は、蓮如が北摂布教の拠点として道場を開いたことから寺内町として発展したところで、少し土地の高くなっているところにお寺がいくつかかたまってある。
古い町屋も見られ、そんなかに仏具屋があったりする。また、富田は江戸時代には酒造業でも栄えた町なのだそうだ。いまも2軒の酒蔵がある。
JR富田駅の北側には松下の工場がある。北、南平台の方に向かって歩く。国道171号線から500mほど行くと巡礼橋というバス停があって、狭い川を渡る。ここで交差している道が西国街道である。
さらに進むと名神高速道の下をくぐり南平台西口。丘陵地に住宅街ができている。昭和48年修正測量1/25000『高槻』と1988年発行の昭文社の区分地図『大阪』をもってきたのだが、この住宅街の大半は、かつては南平台ゴルフ場だったようだ。
かなり登ってきた。奈佐原で左に折れる。かなり登ったところには病院とか大学、社会福祉施設など、かなり大きな建物もある。ミニ開発されたような住宅が並んでいるところもある。南に淀川流域の平野が見下ろせる場所ではあるが、生活はたいへんだろうなとも思える。
さらにこのまま登っていくと京都大学の阿武山地震観測所がある。この施設は昭和9年に建てられたもので、RC造けっこう大きな施設である。人気はない。
この観測所の裏手、少し登ったところ、地形図でいえば、214mの標高点のあるところに阿武山古墳がある。手元の地形図は古いので何の記載もないが、史跡である。藤原鎌足の墳墓ともいわれる。
観測所から大和ネオポリスの方へ下れる山道があったので下る。かなり高いところまで造成されているのだが、眺めはよくても日々の生活はたいへんだろう。すごく長い階段がある。上り下りは大変そうだ。
阿武野には宗教団体の巨大な施設がある。さらに下ってくると高槻赤十字病院がある。木立に囲まれた溜池に面してバルコニーがあって、洋瓦葺きのテラスハウスのような病院施設がある。「レイクサイドホーム」という緩和ケア病棟だ。
緩和ケアというのは、治癒治療困難な患者さんや家族をケアする医療行為のことで、終末期医療というと、あまりにも直接的で限定的な感じだから、いまではそういうらしい。ここは「癒しと安らぎの環境」賞というのを受賞した施設らしい。これから年寄りとか増えてくると、高層マンション的病院とはちがったこんな施設も必要になるのだろうな。
さらに住宅街を抜けて下って行くと名神高速道があって、市境を越えて高槻市から茨木市になる。名神を越えたところにあるのが、継体天皇陵である。堀に囲まれた前方後円墳としてある。木々が生い茂っている。天皇陵であるから宮内庁が管理している。ただし、天皇陵ではないという説もある。
継体天皇陵のそばに太田神社がある。木々に囲まれた神社なのだが、そこの多くの木々が根こそぎ倒れていた。先日の台風の風で倒れたのだろうか。神社の建物に向かって倒れてなかったのが幸い。根こそぎ倒れているという光景をはじめて見た。
■[西国街道]継体天皇陵の南側を西国街道が通っていて、それを西に向かって歩く。クルマ一台分あまりの幅しかない道である。むかしもこんなのだったのだろう。道の両側には家々が並んでいるが、古い町屋というか農家だろうけど、もころどころに街道の趣を残している。
勝尾寺川のところが白井河原合戦跡。1571年、当時高槻城主の和田惟政が、荒木村重・中川清秀らと戦って敗れたという戦いなのだそうだ。
昭文社の地図にはここから1kmほど北の福井の集落に「鎌足公古廟」というのが名所旧跡として載っていたので行ってみることにした。地図上の福井の集落に黒丸で所在を示されているのだが、その場所にはそれらしいものはないのである。
昭文社の地図が強調するほどの名所旧跡ではないのかもしれないが、1/25,000地形図『高槻』にも「鎌足公古廟」は記載されてはいるのだ。
ただ、地形図のほうは文字で記載されてはいるものの、史跡に指定されてないのか、記号化されてないので、その所在ははっきりしない。集落のなかの独立建物の黒四角のひとつが古廟と読めなくはない、という描きようなのだ。
で、実際の場所は、昭文社の示すところではなく、そこから東へ500mほど離れた大織冠神社がそれだ。地形図のほうには神社記号はない。昭文社の地図は国土地理院の地形図を元にしているから、「鎌足公古廟」との記載から独立建物につけられた黒四角をその場所と誤読し、地図上にもっとらしく名所旧跡の印をつけたのではなかろうか。
地形図の記載にいいかげんなところがあるが、昭文社の地図は現地調査がもっとずさんなのである。これは古い地図だったせいかもしれないが、昭文社の新しい地図にはこんなことがないことを祈りたい。
ふたたび西国街道に戻って西に向かうと、茨木インターの近くで、国道 171号線と交わる。宿川原の集落が郡山宿である。史跡に指定された郡山宿本陣が残っている。椿の木が植えられていることから「椿の本陣」と呼ばれている。むかしながらの民家も残っていたりする集落である。
さらに西国街道を歩き続けようかと思ったのだが、歩き疲れたので、適当なところで国道筋に出て、そこにあった清水バス停から阪急石橋行の阪急バスに乗ることにした。
国道をしばらく走るとモノレール工事をやっている。まだ橋脚を建てているところあるし、すでにレールを載せているところもある。開業が楽しみだ。(2004.10.23)