◆ 城陽界隈 / 松花堂から王仁(わに)公園へ◆
[城陽へ]京都国立近代美術館で行われている「草間彌生展」を見学したあと京阪三条駅から京阪電車に乗って藤森に向かった。JR奈良線に乗り換えるつもりなのだが、まだ乗り降りしたことがない駅として、京阪藤森駅とJR藤森駅を選んだのだ。
京阪藤森駅のそばにダイエーがあったので、せっかくなので立ち寄る。そこから東に向かうと聖母女学院がある。
学院本館の煉瓦造りの建物はもとの陸軍第16師団司令部だった建物。明治41年に建てられたもので、女子校には不似合いな建物であるが、その当時のなごりを留める貴重な建物である。本館の東側には、木造の建物も残っているようだ。
その当時、このあたりは各種連隊や病院などいろいろ軍関係の施設があったようだ。京都教育大学や国立京都病院、龍谷大学など多くの施設はその跡地に位置するらしい。
JR藤森駅は1997年3月に設けられた駅で、あいかわらず古い都市地図を持ち歩いているのでそれが載ってない。京阪藤森駅の東側にあるだろうと見当をつけて向ったのだがJR線の線路沿いにでたものの、駅はなかった。
聖母女学院の東側、深草北陵付近だと隣の稲荷駅に近いから、たぶん南のほうだろうと見当つけて、線路沿いの道路を南へ進む。途中で正面部分だけだを洋風意匠にした「寶温泉」という銭湯を見つけた。
かなり歩いて、ようやくJR藤森駅にたどり着いた。京阪電車の駅としては、藤森駅より墨染駅のほうが近かったようだ。藤森神社最寄り駅として、JR藤森駅としたのだろうが、京阪→JR乗り継ぎ客としては、JR墨染駅にしてほしかったね。
JR電車に乗って城陽に向かう。京都−城陽間は区間運転があって、おおむね15分おきに電車がある。電車は伏見桃山をぐると廻りこむように走る。桃山を過ぎると京阪宇治線に沿うように走り、宇治から城陽にかけて沿線は新興住宅街が広がっている感じ。
[文化パルク城陽]ふつう町の展開は、交通機関の駅を中心に繁華街が形成されたりするところが多いと思うのだが、橋上化された城陽駅のそばには高層住宅があったりする住宅街で、線路沿いに学校があったりもし、市名を名乗る中心駅としては、インパクトが弱い。
奈良線の歴史は古く、明治29(1896)年に全通しているが、城陽駅が設けられたのは昭和33(1958)年で、あとから設置されたそんな経緯が影響しているのかもしれない。
駅から西に向かうと近くに城陽市役所がある。近鉄京都線寺田駅方向に町並みが広がっている。幅の狭い道路や古いたたずまいから昔からの農村集落、という雰囲気が残っている。1kmほどで寺田駅に至る。駅から少し南に行ったところにあるのが「文化パルク城陽」である。
この施設は、大ホールをはじめ、図書館、プラネタリウム、歴史民俗資料館など備えた複合文化施設である。1995年に竣工した建物で、設計監修に京都工繊大の西村征一郎らがあたっている。
クリーム色の外装で、図書館などが納まる西側、大ホールが納まる東側が四角を寄せ集めたような形で、中央部のプラネタリウムの納まる部分とガラス張りの高いアトリウムの部分は円錐を斜めにちょん切ったような格好というか、がくっついて、特徴的な外観をしている。
形の組合せとしては、ありふれた公共施設から抜けた感じを受けるし、斜路で上まで上がれる構造とか、工夫がなされている。複合施設として機能的には、オーソドックスな感じもするが、北側の掘りこまれた水上ステージなど、建物と一体として利用できる施設になっているのは、よく考えられた結果なのだろう。
せっかくなので、歴史民俗資料館に立ち寄る。城陽市の界隈には古墳が多いようで、そういった古墳からの出土品の紹介を中心にした常設展。
ちょうど、奈良線が縦断している久津川の車塚古墳は有名らしい。奈良線沿線はけっこう住宅地が建て込んでいるので、古墳がたくさんある土地にはまったく思えないのだが、資料館で紹介されていることでそういう土地なのだということがよくわかった。
企画展としては「すまいとくらしの道具」ということで、かつての生活用品や農耕具などが並べられていた。全体的にこぢんまりとした展示スペースである。
寺田駅から近鉄電車に乗って、新田辺に向かうことにする。途中で木津川を渡る。JR片町線の京田辺駅に近く、けっこう賑やかな感じである。京田辺駅前には平和堂の大きなショッピングセンターがある。
もう20年近く前に、ここから西へ1kmほどのところにある一休ゆかりの一休寺を訪れたことがある。当時、まだ市になる前の田辺町といっていた頃で、今の京田辺駅も田辺駅といっていた。片町線も長尾−木津間はディーゼルカーが行き来するローカル線で、ひなびた木造の駅だった記憶がある。変われば変わるものだ。この区間が電化されたのは1989年。京田辺駅から快速電車に乗ると40分ほどで北新地駅に着く。(2005.01.23)
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[八幡市]大阪・淀屋橋から京阪特急に乗り、枚方市で普通電車に乗り継いで八幡市駅で下車した。ここは石清水八幡宮最寄り駅で、京阪特急色のケーブルカーが男山山上まで伸びている。石清水八幡宮は平安時代に創建されたという由緒ある神社である。
駅前のオブジェは「竹」だろうか。エジソンの発明した電球のフィラメントは八幡の竹を炭化して使ったことで知られ、石清水八幡宮境内に記念碑がある。
駅の北側は木津川、宇治川、桂川の3川が合流するところで、その先は淀川となって大阪湾に流れる。南側には住宅地が広がっている。<八幡何々>という地名がいくつもある。何々町何丁目というような町名改編が行われておらず、昔ながらの町名がそのまま使われているのだろう。
駅のそば、町内を流れる放生川べりは遊歩道が設けられている。川を渡って少し行ったところに飛行神社という神社がある。ジェット戦闘機のエンジンの展示があったりして、ふつうの神社とは、ちょっとおもむきが違う。飛行機の実用化に取り組んだ二宮忠八が大正4年に創建した神社である。
町内のあちらこちらに「東高野街道」という案内標識が立ってるので、それにしたがって南に向かう。東高野街道は、京都から高野山詣での人たちが利用した街道で、平安時代からあるらしい。八幡から洞ヶ峠、交野から生駒山系の西側を南下して紀見峠に至る街道である。駅から住宅街が続いているが、ところどころに昔ながらの町屋も見られる。
駅から南へ2.5km ほど行くと松花堂庭園・美術館があるので立ち寄る。「松花堂弁当」というのがあるけれど、はたして、関係あるのかないのか?
まず、美術館を見学、「松花堂」について知識を仕入れる。ここは、書画、茶の湯、和歌に秀で、江戸時代初期に活躍した松花堂昭乗にゆかりの庭園で、神仏混淆の時代にあって、もともと石清水八幡宮の山麓にあった坊のひとつに草庵松花堂を建てたのがはじまり。明治時代になって、廃仏棄釈のため、草庵、書院が現在地に移築されたのだ。
美術館では、昭乗のことや彼とと関係のあった文化人の紹介や書画などゆかり品々が展示されていた。そのあと庭園を散策、ゆったりとくねった石敷の小道を行くと谷川を思わせる細長い池に鯉が泳ぎ、木立の間から茶室が見えてくる。それぞれ個性的な貸し茶室が3棟。貸し会議室がある美術館別館、芝生広場。
そして、奥まったところに書院と草庵松花堂がある。東車塚古墳を山に見立てた枯山水など。季節がら梅の咲きはじめたころで、庭園は、四季おりおりなかなか風情がありそうだ。
ところで、「松花堂弁当」というのは、日本料理店<吉兆>の創始者が昭和初めころに始めたものらしい。四切り箱にご飯とおかずを詰めた弁当のことで、そのヒントになったのは、昭乗が使っていた四切り箱なのだ。それにちなんで、「松花堂弁当」としたらしい。ただ、昭乗の四切り箱の利用法は弁当箱ではなく、絵の具入れ、とか煙草入れとかに使っていたそうだ。
ここは、「松花堂弁当」発祥の地ということで、<吉兆>が松花堂店を営業している。けっこう賑わっていた。
[洞ヶ峠から王仁(わに)公園へ]松花堂庭園から南へ1kmほど歩くと国道1号線にぶつかる。幅の広い国道だが、交通量も多い。大阪方向に少し行くと「洞ヶ峠」である。国道は切り通しになっているので、あまり峠らしくない。
本能寺の変後、豊臣秀吉が明智光秀を破った山崎の戦のおり、筒井順慶がこの峠で、軍をとどめて日和見したことで有名。これは俗説らしいが、有利なほうへつこうとして、成り行きを見ることを<洞が峠>という。まあ、いまは、こんなコトバ、使わないか・・・
峠を越えると大阪府枚方市になる。「家具団地前」という交差点で東に折れる。この通りには家具屋さんのショールームなどが並んでいる。少し坂を登ったところに国会議事堂の段々屋根そっくりの大きな建物がある。これは京阪電車からでもよく見える。大阪工業大学情報科学部の校舎なのだそうだ。あえて似させているのはウケ狙いなのだろうか?
大学のある丘陵部は新興住宅街になっている。そこからさらに南へ下り、船橋川を越えて、府道枚方高槻線というのを長尾のほうに取る。あいかわらず住宅が並んでいるが、JR片町線長尾駅に近付くにつれて、道幅も少し狭くなり、昔ながらの農村集落的な町並みになってきた。
JR片町線を越えて少し行った住宅街のなかに「伝王仁墓」というのがある。王仁は、4世紀末頃、百済から論語10巻、千文字1巻を日本にもたらしたとされる人物で、文学始祖博士とされる。
そこから少し南に行ったところは王仁公園という広い公園があって、この公園のそばに、旧田中家鋳物民俗資料館というのがある。
田中家は古くから鋳物業に携わってきた家柄で、江戸時代には河内地域で独占的に、梵鐘、鍋釜、鋤鍬などの鋳物を作ってきた。ここにある建物は枚方市上之町から移築された建物。府の文化財に指定されている。
鋳物工場のほうは、鋳物民俗資料館として、鋳物に関する資料を展示、主家では、昔の生活道具など民俗資料が並べられている。屋根が瓦葺きなのは、鋳物製造で、火を使うかららしい。
また、そばには復元された竪穴住居とか、長尾西遺跡から見つかった焼けた竪穴住居跡という発掘資料も展示されている。
資料館から南へ少し行くとJR片町線藤阪駅がある。ここは各停電車しか止まらず、途中で快速に乗り換えて、東西線北新地駅へ。(2005.02.06.)
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