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◆ 中山道を歩く 醒井界隈 ◆


久しぶりに「青春18きっぷ」を使って、東海道本線を上り下りしたとき、あれはなんだろう、と思える建物が醒ヶ井駅のそばにあって、それを確認してみようと思った。それに、醒井は中山道の宿場町だったところで、今までこの界隈を訪れたことがなかったので、歩いてみようと思う。

米原でJR東海の電車に乗り換えて、次の醒ヶ井駅で下車。2005年2月米原町、伊吹町、山東町が合併して、米原市になった。米原の読み、確か町名のときは「まいはら」で、市になって「まいばら」になったようだ。知名度の高いJRの駅名に合わせたのだろうか。

電車から、あれはなんだろう、と思わせたのは、「醒井水の宿駅」という建物だった。そう思わせたのは、その外観、外壁の素材にある。錆だらけの波形の鉄板が使われているのだ。
初めて電車から見たとき、錆びた外壁の様子から朽ちかけた倉庫かなにか、とも見えたのだが、室内に電灯が点いているので、なんだろうと思ったのだ。

2階建てのこの建物は、JR醒ヶ井駅舎改修を含め、「醒井の里整備計画」として実施されたもので、駅前を走る国道21号線に面して建っている。2002年春に開業して3年経つらしい。1階は特産品の販売店補と食堂、国道に面して枕木を使った屋外デッキがあり、湧水が有名な醒井らしく、その水が飲めるようにもなっている。

2階にはジグザグくねった廊下が伸び、ギャラリーや多目的スペースなどがある。小さな施設ではあるが、開口部の取り方などを見ても、ふつうの複合商業施設にないオリジナリティを持っているとは感じる。

しかし、2階部分を覆う錆びた鉄板の外壁はいかがなものか?錆色が周辺環境に馴染んでいる、という意見もあるようだが、小さな施設とはいえ、まわりの建物からみれば、比較的大きい規模なので、錆色が勝ちすぎ、どう見てもまわりの山々や宿場町の景観から、かけ離れて見える。JR醒ヶ井駅のファサードが落ち着いて見えるだけに、ちょっと場違いに思える。

駅前から少し行ったところに、元醒井郵便局が醒井宿資料館として公開されてらしいのだが、玄関をはいっても、受付けのようなところもなく、資料館として公開する気があるのかなと思えた。建物は、1915(大正4)年にヴォーリズの設計で建てられたもので国登録文化財になっているようだ。

そしてしばらく行くときれいな水の流れている地蔵川に沿った宿場町の町並み。町並みは、もちろん伝統的建造物群保存地区のような古い町並みというわけでないが、柱、梁の木部に弁柄塗りした家々が並んでいて、宿場町の雰囲気が感じられる。

街の中心を流れる地蔵川の清流に揺らめいている藻は、白い小さな梅に似た花が咲く「梅花藻」という藻で、これも有名らしい。「ハリヨ」という珍しい淡水魚もいるらしい。清流ならでは、というところだろう。また、川沿いに桜が植えられ、まだ3分から5分咲き程度。

せっかくなので、中山道を柏原に向かって歩く。町並みをしばらく行くと、宿場時代の問屋場の建物が残されている。それから醒井公会堂という建物があって、これも国登録文化財に指定されている。1936(昭和11)年に建てられたもので、壁の隅には石積みのような装飾を洗い出しで細工してあったり、窓部にアーチ状の装飾があったり、洋風を意識した建物だ。また、その隣りには醒井木彫美術館という施設がある。

さらに行くと、霊山山山麓に湧き出る醒井七湧水のひとつ「居醒の清水」がある。ヤマトタケルが伊吹山の大蛇退治で毒気に当てられたさい、ここの湧水を飲んで癒したという伝説がある清水なのだそうである。

このあたり、町並みの北側には国道21号線が走り、南側には名神高速道がすぐそばを通る。クルマの走行音がひっきりなしに聞こえてくる。今なら人家の少ない、もっと山中を通すようなものだが、不快な音だ。

旧街道沿いにまばらになりながらも家々がしばらく続き、そして、街外れで国道に合流。そこらあたりにはモーテルがいくつか並んでいる。しばらく行くと、国道からそれて柏原の集落に向かう旧道が分かれたので、ひっきりなしに通過するクルマに注意しながら国道を渡り、そちらを進む。

モーテルの裏手から、しばらく人気のない山間の旧道を進むと土地がひらけ、松並木があったり、一里塚の跡が残っていたりして、柏原宿の町並みに到る。醒井から6kmほど。

町並みの家々には、宿場時代の屋号などを紹介する案内が掲げられいて、宿場町としての雰囲気は感じられる。街のなかほどに「柏原宿歴史館」がある。国登録文化財に指定されている建物を利用したもので、柏原宿についてビデオと模型で紹介、そのほか宿場の史料などが展示されている。

この宿場の名産は「伊吹もぐさ」なのだそうで、最盛期には十数軒あったそうだ。資料館の近くに、そんな一軒、安藤広重が『木曾街道六十九次 柏原』で描いたと同じ、大きな福助人形を飾る伊吹堂亀屋佐京商店が往時のたたずまいを見せる。

町並みをしばらく行くと、映画監督吉村公三郎が少年時代を過ごした実家という案内がでている民家があった。
JR柏原駅まで歩くとちょうど下り電車があったので、それでふたたび醒ヶ井駅まで戻ることにする。
中山道はまっすぐ西へ伸びているが、東海道本線はいったん伊吹山のほうにくねりながら、途中、近江長岡駅を経て醒ヶ井駅に向かう。平坦なところを選んで敷設したせいなのだろうが、東海道本線が当初は長浜へ通じていたことに関係しているのかもしれない。3月の中頃にこのあたりを通った頃は伊吹山も頂部が白く雪に覆われていたのが、もうほとんど解けている。

JR醒ヶ井駅でまた下車して、錆々の例の建物内の食堂で昼食を取る。
今度は、醒井から番場宿を経て鳥居本宿まで歩いてみようと思う。少し国道をクルマに注意しながら歩いて、国道から北側に残る旧中山道にそれて、河南、樋口の集落を抜け、ふたたび国道を渡って、南西に伸びる旧街道を進む。

山間に田んぼや畑のひらけた街道筋は、醒井から3kmあまりで番場の町並みにはいっていく。小ぶりな民家が街道筋に沿って並んでいるが、あまり、宿場町らしい雰囲気は残っていない。ここから鳥居本へ向かうと摺針(すりはり)峠という峠超えの道で、その手前ある小さな宿場町だったのかもしれない。

ここは、「番場の忠太郎」ゆかりの地らしい。長谷川伸の『瞼の母』だ。番場というのがこの宿場だったのですね。『瞼の母』という作品、どういうストーリーなのかまったく知らないのだが、「番場の忠太郎」とか「瞼の母」とかのコトバが記憶にあるのは、『瞼の母』のパロディをテレビの新喜劇とかで見たせいじゃないかな。

町並みをすぎると名神高速道にそって進む。クルマが1台走れる道で、登り坂が伸びている。小摺針峠を越えて少し下ったところで名神からそれて鳥居本に向う道へにおれる。
また登り坂になって摺針峠へと続く。峠付近に少し民家がある。琵琶湖のほうが望める。坂を下って行くと国道8号線にぶつかる。少し南に行くと鳥居本宿の町並みに入っていく。

鳥居本の町並みはけっこう大きく、街道筋に舛形があったりもし、古い町屋など、宿場町の雰囲気が感じられるなかなかいい町並みが残っている。
それから、ここには、近江鉄道の鳥居本駅がある。いまは無人駅だけど、1931(昭和6)年建てられた駅舎だ。登録文化財になっている。

むかしからけっこう大きな宿場だったらしく、銀行のような雰囲気の洋館が残っていたりもする。いまでは、東海道本線が彦根や米原を通っているので、とり残されたような町である。
そんな町並み見ながら、町外れまで歩いてしまうと、電車の時刻を考えたとき、鳥居本駅に戻るより、そのまま彦根まで歩けるな、と思われ彦根に向かって歩くことにした。

東海道新幹線の高架下をくぐり、国道8号線の佐和山トンネルを抜けて山を下り、JR彦根駅に向かう。彦根駅付近は彦根城の桜見物にきている観光客で賑わっている。彦根から新快速で大阪に戻る。(2005.04.09)


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