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◆ 万博公園と西国街道 ◆


[1と1/2]大阪からJRの各停電車に乗って茨木駅で下車する。駅は橋上駅で、東側に出ると橋の上から見えている、すこし変わったというか、特徴のある建物を見にいく。

この建物は、四角いコンクリートの箱の上にドームがのっかっている。これを「1」として、その北側にある部分はそれを半分「1/2」に切断した格好で、切断面にあたる壁面はガラス張りになっている。「11/2」という渡辺豊和先生の設計になる建物だ。半分のほうが歯科医院だったかの診療所とした併用住宅として建てられたもので、1974年の竣工。ドームの塗色は、今は、えんじっぽい色が塗られている。昔はもっと明るい色だったと思う。

この建物は、イギリスの著名な建築雑誌『AD』誌上で評論家のチャールズ・ジェンクスが、ポスト・モダニズム建築であると紹介解説した作品なのだそうである。ポスト・モダニズム建築につきもの「引用」としてこのドームは、ローマの「パンテオン」をもってきている。

[宇野辺]JR茨木駅から日本たばこの倉庫だったと思うのだが、のあとにできたマイカル茨木に通じる歩道からマイカルを抜けて、大阪モノレールの宇野辺駅に向かう。

大阪高速鉄道のモノレール線は近畿自動車道に沿って走っている。1990年6月1日、千里中央−南茨木間6.6kmの開業にはじまり、現在、大阪空港−門真市間と万博記念公園− 阪大病院前間の計23.8kmの営業線があって、いま、阪大病院前から茨木市と箕面市にまたがるニュータウン彩都(さいと)のほうへ延長工事が進められている。

開業当初、宇野辺駅は茨木駅だった。JRに同名の茨木駅があって、知らない人には、簡単に乗り換えできそうな駅に思わせるものだった。しかし、実際は1kmほど離れている。たぶん、乗り換えを試みた人から、簡単に乗り換えできそうな紛らわしい駅名にするな、というようなクレームがついて今の「宇野辺」に改称されたのだろう。

[日本万国博覧会記念公園]宇野辺駅からモノレールに乗って次の万博記念公園駅で下車する。エキスポランドの前は入場券を求める人で大混雑、長蛇の列が伸びていた。中国自動車道を越える橋を渡って万博記念公園に向かう。

岡本太郎の「太陽の塔」がすっくと立っている。木立が茂り、かつて、ここに趣向をこらしたさまざまなパビリオンが建ち並び、半年の期間中に6400万もの人を集めた万博が行われたなんて、まったく想像できない。35年という年月を感じる。

「太陽の塔」に対面し、そのあと時計まわりに広い公園内の遊歩道をたどる。木立の生い茂った遊歩道のところどころに、「フランス館」とか「アメリカ館」といった、当時、パビリオンのあった場所に石板がおかれている。それらをめぐるオリエンテーリングのようなことができるらしい。

西の端にある花の丘では一面、色とりどりのポピーの花で覆われていた。ここは桜の有名であるけれど、その時期が過ぎても、チューリップやツツジなど季節ごとにいろいろ花が楽しめるようだ。

「太陽の塔」の北側は、巨大な屋根がかけられた「お祭り広場」で、万博のときは、連日、いろいろなイベントが行れていたところだ。今はその大屋根は取り払われているけれど、その一部のフレームが「お祭り広場」の一角に保存されている。巨大である。

かつて、「日本館」のあった「東の広場」として広い芝生公園になっている。国立国際美術館は、昨年(2004年)、大阪・中之島に移転し、建物は取り壊されてしまったけれど、今も、「鉄鋼館」が残っている。

いったんホール前ゲートを出て国立民族博物館の前を通って「日本庭園」にはいる。正門前の中央休憩所では「思い出の70年大阪万博記録」上映コーナーが設けら、写真パネルなどが展示されていた。園内つつじケ丘では、いろんな種類のツツジが今を盛りに咲いていた。


[光の教会]大阪府立国際児童文学館の食堂で軽く昼食を取ったあと、東口のほうに向かい、外周道路に沿って歩く。外周道路はクルマが大渋滞。

外周道路から丘陵を越えて数百m北にはいった住宅街のまんなかに、「光の教会」がある。1989年に竣工した建物で、安藤さんの代表作のひとつ。角地に教会があるのだが、コンクリートの外観は、ほんと閉鎖的だ。十字のスリットが印象的。

[西国街道]教会から府道茨木摂津線に出る。教会の前の道をそのまま西へ向かえばよかったのだが、北側の斜面に広がる住宅街に踏み込んでしまったので、少し道に迷ってしまった。住宅の増殖につれて道が作られたからたらだろうが、通り抜けできない住宅街にはいり込むとどうしようもない。

この府道に沿ってモノレールが伸びてきている。かなり工事が進んでいて、もう車両が走りそうな高架ができている。東側はゴルフ場で西側は阪大の研究機関、丘陵部を越えて下って行くとモノレールの駅が工事中。国道171号線の手前にある旧街道を西にたどる。

京都から西宮に向かう今の国道171号線にあたる西国街道は、京都伏見から淀を経て山崎、芥川(高槻)と進んで、いまの名神茨木インターから1kmほど西にいったところに郡山宿があって、本陣だった建物が残っている。

この建物は、椿の木が植わっていたことから「椿の本陣」といわれ、この街道を上り下りした大名が泊まったことを示す宿帳などが残されているそうだ。昨年、秋にその界隈を訪ねている。今回は、その続きというわけ。

府道からそれて国道から少し南側に伸びる旧街道を進むと、街道沿いには新興住宅街のような家々が立ち並んでいたりする。集落と集落との間にある農地だったところが、宅地開発されて、今の町並みになっているのだろう。

しばらく行くと、小野原の集落で、ここには昔からの集落の情緒が残っている。漆喰塗りの壁や土蔵など、かつての旧街道沿いの農村集落を感じさせる。道標や常夜灯が残っている。

小野原の集落から3kmほど行った西宿で国道に合流、新御堂筋と交差、ロードサイドショップなどが並び、旧街道が判然としないまま国道を少し進むと、萓野三平旧邸の案内があって、そちらに向かう。

萓野三平は、この地で生まれ、播州赤穂浅野家に仕官、元禄の赤穂事件にさいして、松の廊下の刃傷を赤穂に知らせるべく早駆けをした人で、赤穂城開城後は、大石内蔵助を中心とした仇討ち一党に名を連ねるものの、父の許しが得られず、忠義と孝行の板挟みから、討ち入りに加わることなく、ここで自刃したのでした。
『假名手本忠臣蔵』では早野勘平のモデルとされた三平、その旧邸長屋門が、いまは、府史跡として残されている。

さらに進むと「勝尾寺」と額がかかる鳥居がある。西国街道から勝ち運の寺として名高い勝尾寺への表参道のなごり。寺に鳥居は、今みれば変だが、神仏混淆のなごりなのだろう。

牧落でふたたび国道に合流、旧街道は国道の北側にうつる。この界隈は住宅街になっているのだが、ところどころ旧街道時代のなごりをとどめる民家も見られる。


[住宅博覧会跡地]阪急箕面線の踏切の手前、百楽荘という地区、ここは1924年関西土地が土地開発を行った分譲地である。「百楽荘」と彫られた戦前に建てられた石柱が残っている。いまも、手入れの行き届いた生け垣がある邸宅が並んでいて、閑静な郊外住宅地のたたずまいを見せている。

旧街道から離れ、百楽荘のお屋敷街を抜けて阪急牧落駅のそばを通って桜ヶ丘に行ってみる。この一角は大正11年に「桜ヶ丘住宅改造博覧会」が行われたところだ。25戸の住宅作品が建てられ、その一部が今も住まわれ続けている。一角に箕面市教育委員会が立てた案内板があって、文化財として認知されているようだ。

いまでいえば、ハウスメーカーの住宅展示場のような感じで、モダンな住宅が並んでいたわけだ。当時は、住宅改良運動がいろいろ行われていた時期で、そういった成果を取りれた住宅として発表され、それが今の住まい続けられているわけだ。

今の住宅展示場のように、来訪者に住宅をカッコよく見せて、なにがなんでも売らんかな的展示とは、根本的に考えが違うのでしょうね。
桜ヶ丘住宅博覧会跡からたらたらと坂を下ると、阪急箕面線の桜井駅前にたどり着く。西国街道の旧道、ここから先は次回たどることにしよう。(05.05.04)





[西国街道を西へ]前回、旧西国街道を西へ歩いて、阪急桜井駅前まで来たところでへばってしまったので、今回は、桜井駅前から歩き出そうと思う。阪急宝塚線石橋駅で箕面線に乗り換えて次の桜井駅で下車する。駅前を旧西国街道が伸びている。

西に向かうと、半町地区で、道路の両端1mほどが石敷きになっている。たぶん、宿場町があったことを示しているのだろう。しかし、町並みに宿場町の雰囲気はない。箕面自動車教習所のところに箕面市教育委員会が立てた半町宿に関する案内板があった。

西国街道の宿場は、椿の本陣がある郡山宿(茨木市)の次は瀬川宿(箕面市)なのだが、瀬川宿は交通の要衝として賑わい、町並みが半町のほうへも拡大、半町にも本陣が置かれるまでになったようだ。自動車学校のあるあたりにその半町本陣があったらしい。

住宅が建て込んでいる。瀬川地区から、ちょうど箕面市と池田市の境界になる道路を南に下り、阪急箕面線と国道171号線池田バイパスの高架下を抜けて石橋阪大下交差点のところにでる。ここは、国道171号線と176号線が交差する。そこを少し南に行ったところから旧西国街道が続く。

住宅が建ち並んでいる。せせこましい家も多いのだが、大きな住宅も見られる。むかしからこのあたりで農業をやっていた人なのだろう。石橋地区の道路は狭くけっこう入り組んでいる。昔からの農地が徐々に宅地化され、道路整備が追い付かなかったからだろう。そんななかを旧西国街道が伸びている。

中国自動車道をくぐって西に向かうと国道171号線に合流。大阪空港の北側で町工場な どあって、工業地帯である。
大阪府池田市から兵庫県伊丹市にはいる。下河原地区は空港からの離陸コース直下にあって、ひっきりなしに通過する航空機の騒音がひどいところだ。

このあたりは昔からの農村集落のあったところで国道沿いに、そんな感じの住宅が並んでいる。「伊丹市都市景観形成建築物」であるとの案内がしてある。きれいに整備された印象だが、土蔵があり、漆喰塗りの大きな住宅は、いまの住宅にはない風格がある。

国道の歩道を通って、猪名川かかる軍行橋を渡る。橋を渡ると、家電量販店がある。国道沿いの工場が撤退したあとに量販店ができたようだ。もともとこのあたりの福知山線沿線は工場が並んでいて、住宅街から離れている。ここに来るにはクルマ頼りの立地である。そのせいか、歩いて来る人のことをあまり考えていないような作りの店舗だった。

工場地帯を抜けて、少し南にまわりこむように進むと産業道路にでる。辻村というバス停のある辻村は、今は町名としてなくなってしまったようだが、摂津の国の中心に位置する、とかいわれるところで、北に向かう多田街道と西国街道が交差していた村落だ。

さらに西に向かうと河岸段丘への坂道となる。河岸段丘のへりには木立が立ち緑が多いのだが、登りきってしまうと、住宅街が広がっている。この伊丹坂の近くに和泉式部の墓というのがある。

大鹿、千僧地区を行く。ところどころに旧西国街道であることを示す案内柱が立っている。むかしの集落だったところには神社や寺があったり、農家らしい立派な構えの住宅もところどころにあるが、ふつうの住宅がぎっしり建ち並んでいる。

伊丹市役所のあるあたりは県の出先機関があったり、裁判所などがある官庁街だ。ポストモダンしている建物がめだっている。

旧西国街道から少し離れて、市立博物館があるので立ち寄る。ここでは、伊丹市内の遺跡発掘資料から、伊丹廃寺、昆陽池、有岡城、伊丹の酒造といった歴史的なことがら、それに昔といっても、ちょっと前という感じなのだが、の生活道具などの展示がなされている。ほかに企画展として「江戸時代の野間」として野間地区の古地図や古文書などが展示されていた。

この博物館から北西に1kmほどのところにあるのが昆陽池である。地図を見ると池のなかに日本列島をかたどった島が配されている。昭和40年代半ばに野鳥の島として作られたらしい。公園ではイベントでもやっているのか、模擬店とかが広場に並び、多くの市民で賑わっていた。

公園といっても、池の外周に遊歩道が整備されているだけで、池の周囲は木立も多くて緑豊かなのだが、反対側に目をやると、すぐに車道やその先には住宅街があって、公園としての広がりはあまりない。広い池が中心にあるからしかたないけど、野鳥観察など、この公園固有の特徴は有している。

この公園の北端には伊丹市昆虫館がある。たんに昆虫標本を展示するだけでなく、チョウ温室では、多種類のチョウが乱舞している。それだけでも価値ある施設だ。4階には展望台があって、池の日本列島が見えるかと思ったが、そうは見えなかった。せっかくの趣向、どこかから実際に見られないものか。昆陽池を一周して旧西国街道に戻る。

瀬川の次の宿は昆陽である。しかし、宿場の痕跡はまったくない。案内板があるだけであった。西国街道は、このさき、武庫川をわたり、西宮市内へと続くが、歩き疲れたので、今回はここで中断。国道171号線と県道尼宝線の交差する昆陽里にスーパーがあるので、少し休憩。
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尼宝線はもともと鉄道路線として計画されたもので、路盤が作られたころは尼宝自動車専用道路だったのかもしれないが、いまはそのなごりとして阪神電鉄のバスが宝塚と尼崎を結んでいる。せっかくなので、阪神電鉄バスに乗ろう。

バスは10分おきくらいに走っている。南に走る。山陽新幹線の下を抜けて阪急神戸線の上を越える。道路として整備拡幅されている尼宝線も阪急を越えるところは、まだ複線分の幅しかない。名神高速道、JR東海道線の下を抜けて、西大島で国道2号線にはいり東に向かう。阪神電車に乗り換えるには、尼崎駅北 バス停のほうが、尼崎駅から特急などに乗れていいのだろうが、せっかくなので、終点の杭瀬駅北バス停まで乗った。

杭瀬は各停電車しか停まらず、その各停電車も途中で特急とかの待避待ちをするから、梅田に出るには、尼崎から電車に乗るより時間がかかるだろう。しかし、運賃の刻みは尼崎駅より1ランク安い。(05.05.15)


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