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大和めぐり

[大和散策(1)]大阪駅から大和路快速に乗って大和小泉駅で下車した。ここで下車するのは初めて。駅は橋上駅化されていて、駅付近には新興住宅街があったりする。
きょうは、暑くなりそうなので、駅近くのスーパーに立ち寄って、飲み物を入手してから歩きだす。

手元に国土地理院1975年発行1/25000地形図『大和郡山』がある。この地図には駅東側など田んぼ記号なのだが、いまは住宅が建ち並んでいる。駅南西側のその当時からある住宅街を抜けて国道25号線をくぐり、南に向かう。

東安堵北方という集落がある。昔からの住宅も少し見られるが、建て替えられたものが多い。さらに南へ進むと東安堵南方という安堵町の中心部に至る。

ここに富本憲吉記念館があるので立ち寄る。この記念館は、陶芸家として知られる富本憲吉の生家がもとになっていて、母屋は新築されているが、憲吉が使った離れが残され、土蔵が作品の展示室となっている。

作品は、あっさりした風景などが描かれた染付け皿や模様を施されたものなど。陶製の装飾品を興味深く見た。もともと東京美術学校で建築及び室内装飾を専攻したそうだから、デザインのセンスはいいわけだ。また、建物のパースと図面が並べてあったけれど、うまいです。

この資料館の近くに安堵町歴史民俗資料館があったので立ち寄る。この資料館は、代々庄屋などを勤めた今村邸を利用したもの。大阪府から奈良県を独立させた今村勤三氏関係の資料などが展示されていた。ほかに、いろいろな民俗資料や伝統産業として「灯芯」のこと、それに天理軽便鉄道のことが紹介されていた。

天理軽便鉄道は、大正4(1915)年JR法隆寺駅に隣接する新法隆寺駅から天理に至る9kmの軌間762mmの軽便線で、大正10(1921)年に大阪電気軌道に譲渡され、いまの近鉄路線のひとつとなった。

平端−天理間は電化、軌間も変更され、いまも天理線として残っているものの、近鉄法隆寺−平端間は昭和20(1945)年休止、同27(1952)年廃止されている。平端駅前から西北西にのびる道路は鉄道の廃線跡である。JR法隆寺駅近くの木戸池には煉瓦造の橋台がいまも残っているらしい。

資料館から集落の町並みを抜けて南に向かうと、かしの木台という新興住宅街がある。台と名のつくほどの地形ではないのだが。そこを過ぎて上窪田の集落にはいる。

ここには重要文化財に指定されている中家住宅がある。堀に囲まれた住宅で、茅葺きの大和棟の母屋などがあって、事前に予約すれば見学できるらしい。

大和川の堤防に出て、少し東に歩いて、額田部の集落にはいる。ここの公民館がいま風のしゃれた建物だった。北側の丘陵部に額田部窯跡というのがある。地形図に史跡記号で載っているので立ち寄ってみたのだが、窯跡を覆う小屋と案内板があるだけであった。
丘陵部を越えて1kmほど行くと平端駅前にたどりつく。駅の近くに筒井順慶の墓がある。

平端駅から近鉄電車に乗って岩見駅で下車する。駅から東へ1kmほどのところに国道24号線が通っていて、そのあたりが唐古だ。平端の駅前にも岩見の駅前にも昼食をとれそうなところがなくて、そのまま国道筋までやってきて、ようやくファミレスを見つけて落ち着く。ちょうど唐古池の向かいにあって、復元された楼閣が見える。

 昼食を取ってその楼閣を見にいく。このあたりは弥生時代を代表する環濠集落跡である唐古・鍵遺跡として国史跡に指定されているのだが、遺跡そのものは埋め戻されたりしていて、見るべきものはない。それではつまらないので、ランドマーク、シンボルタワーとしてあるのが、唐古池に建つ楼閣なわけですね。

この復元された楼閣は、高さ12.5mあって、ここで発掘された土器片に描かれていた絵をもとにイメージを膨らませて建てられたものだ。特徴的なのが屋根にある渦巻き状の飾りだろう。ほんとにこんな建物が建っていたかどうか、わからないけれど、土器片の絵からは中国との関係が考えられている。

ここから1.5kmほど南に唐古・鍵考古学ミュージアムがあるので行ってみる。田原本の中心街から少し離れたところにあって、田んぼ越しに大きな建物があるのが見えている。大きな博物館だな、と思ってやってきたら、それは生涯学習センターで、弥生の里ホール、図書館、公民館がはいった複合施設、その一角に考古学ミュージアムもあるのだった。この博物館は昨年(2004年)秋に開館したそうだ。

博物館は、唐古・鍵遺跡からの出土品を中心に、当時の生活用品などから当時の様子を立体的に紹介している。また、各種の埴輪とか田原本の歴史なども紹介していた。

生涯学習センターから田原本の市街地にはいる。もともと寺内町として発展してきたところで、戦国時代には陣屋がおかれ、また、奈良と橿原をむすぶ街道の宿場だった。そのなごりは、狭い道路に出ている。ゆっくり歩きまわりたい町だが、歩き疲れたので西田原本駅にまっすぐ向かった。

近鉄田原本線はもともと大正7(1918)に王寺から田原本まで開通した大和鉄道で、その後桜井まで延長された。しかし、戦時中の昭和19(1944)年田原本から桜井までは休止され、その後、同33(1958)年に廃止された。

廃止された区間は、道路になっており、比較的碁盤の目状の道路が多い奈良盆地にあって、ゆるくカーブしながら伸びている道路は鉄道の跡だとわかる。

西田原本から新王寺に向かう。この路線は「スルッと関西」カードがそのまま使えないようだ。自販機で切符を買って改札を抜ける。佐味田川駅を過ぎると丘陵部の山間を行く。関西本線の上を越えて新王寺駅に到着。この駅は生駒線王寺駅との接続駅で、自動改札を通しても切符が回収されない。記念にもらっておこう。

最近、王寺駅付近の再開発が行われたが、そのとき、あわせて線路を延長して乗り換えやすくしてもよさそうなものだが、田原本線、生駒線ともJR線への乗り換えが主だから、近鉄線双方を繋いでもあまりメリットがないのだろう。
王寺から大和路快速に乗り継いで大阪に戻る。(2005.07.16)





[大和散策(2)]大阪環状線の内回りの電車に乗って天王寺駅で下車し、向かいの近鉄あべの橋駅で南大阪線の電車に乗り継いだ。乗ったのは河内長野行準急、古市で橿原神宮前行に接続するという電車。橿原神宮前にはあとの吉野行急行のほうが先着するのだが、今回はそのひとつ手前の橿原神宮西口駅で下車するつもりなのでこちらに乗ることにした。

約20分で古市、ここからは2両編成の電車。平野部から山間部へと進む。駒ヶ谷付近の丘陵にはぶどう畑がうねうね広がっている。穴虫峠を短いトンネルで抜けて奈良県にはいる。高田市を過ぎて約30分で橿原神宮西口駅に着いた。

ここから東へ500mほど行くと橿原神宮だが、そのまえに南西1kmほどのところにある新沢千塚古墳群へ行ってみることにした。資料館もある。駅付近は古びた新興住宅地といった風情。奈良芸術短大が近い。

千塚資料館には、橿原市内の遺跡から発掘された石器、土器など出土品が展示されている。千塚古墳から出土した遺物のなかには、金銀製の指輪、髪飾りなどの装飾品があり、古墳時代の人はけっこうお洒落だったことが知れる。ほかに、つい最近まで使われていた農耕具や日用品など民俗資料も並べられていた。

新沢千塚古墳群は千塚の名のとおり数多くの古墳があって史跡に指定されている。そこは木立の生い茂った丘陵で遊歩道が整備されている。といっても、発掘現場はすでに埋め戻されているので、特別な出土品が発見された古墳以外、いちいち案内はなく、どこに古墳があったのか見た目にはわからない。古墳の復元として土盛りしてあることもあるが、ただ丘陵をめぐる遊歩道があるだけ、という感じ。

古墳群から炎天下の県道を東へ歩く。500mほど行くと、宣化天皇陵がある。旧道にはいって久米町の町並みを抜けて近鉄線路を渡って橿原神宮に詣でる。

橿原神宮は、明治の聖蹟顕彰の時代のなか、明治22年に神武天皇の橿原宮があったとされるところを確証し、 明治天皇から京都御所の内侍所(温明殿)と神嘉殿を下賜され、本殿と拝殿として神宮造営を行い、翌年竣工している。(この拝殿は、移築されて神楽殿として使用後、現在は再建されたそうだ。いっぽう本殿は、京都御所の遺構ということで重要文化財に指定されている)。

 神武天皇、御名をカンヤマトイワレノミコトと申し上げ、日向国から東征に出発、摂津か河内かそのあたりに上陸し、大和をめざすが、生駒山系の要害にこもる地元豪族らと戦闘になり、進むことかなわなかったが、その後、熊野から吉野をへて大和にはいってクニを平定、橿原宮で即位したのだった。

記紀にこういった記述があるらしい。奈良時代に編纂されたこれらの歴史書は、年代がさかのぼるほど史実性が乏しいとされるのだが、この年を皇紀元年とし、西暦でいえば紀元前660年にあている。だから、今年(2005年)は皇紀2665年なわけだ。史実ではないとはいうものの、戦前の昭和15(1940)年には、橿原神宮などでは、 神武天皇即位紀元2600年の、橿原神宮では御鎮座50周年もあわせ祝典行事が行われている。

この祝典にあわせて橿原神宮の神宮庁舎(社務所)や貴賓館など和風の建物が昭和14年に建てられている。また、今も残る運動場などが整備された。また、交通機関として、線路も路線変更が行われ橿原神宮駅舎や畝傍御陵前駅舎が新築されている。橿原神宮駅舎(写真)の設計には村野藤吾があたり、大和棟を思わせる大きな屋根が特徴である。

また、神宮境内には、織田家旧柳本藩御殿が移築され、文華殿となっている。塀の外からしか見られないが、これも重文らしい。ほかに休息施設をかねたガラス張りの建物とか宝物館もある。

橿原神宮駅付近で昼食を取ったあと、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に立ち寄る。ちょうど「大和を掘る」という2004年度発掘調査速報展が行われていた。県内各地の発掘現場で発見された出土品が並べられた。法隆寺若草伽藍跡から出土した火災にあった石材や壁画片など、珍しいものも並ぶ。

常設展示室では、石器時代の遺物から年代順にいろいろなものが展示されている。展示形式としては、千塚資料館と同じ、あちらが市内を中心にしたものにたいして、県内だから、並べられた品々も豊富ではある。

博物館の北側に県立橿原図書館がある。老朽化して廃館されているのだが、和風の古い建物である。祝典と関連のある建物かもしれない。このまま今井町に向かって2kmほど歩こうかとも思ったのだが、暑いので挫折、畝傍御陵前駅に向かった。この駅舎は、橿原神宮前駅舎をすこしこぶりにしたような外観である。

畝傍御陵前駅からひと駅、JR桜井線の下をくぐった八木西口駅で下車する。駅としては、500mほど先の大和八木駅と同じ扱い。JR畝傍駅も近い。今井町へ行く前に、畝傍駅に行くことにした。駅のそばには元銀行だった建物が残っている。前面は銀行らしい様式建築でまとめられている。

畝傍駅は、いまは無人駅であるが、当時、国鉄側の橿原神宮、畝傍御陵最寄り駅としてのローカル線の駅としては少し大きく、風格がある。高貴な人たちに使われたらしい専用出入り口もあったようだ。いまは閉鎖されているけれど。

かつては、ここから吉野鉄道、大正時代に吉野口−吉野(現六田)間の開業に始まり、橿原神宮前を経て畝傍駅まで延長してきた、のちに大阪電気軌道に合併し、いまの近鉄吉野線になったのたが、が出ていた。

この路線は、昭和15年の祝典に関係して路線変更が行われたりしているが、畝傍駅から東の方へ出て、南に向かい、畝傍御陵前駅で合流していた。橿原神宮前へは平行路線があることから昭和20年に旅客営業が休止され、戦後、同27年廃止されている。途中には小房という駅があったらしい。

今井町へ行く。近鉄線路を越えて、JR線の南側に町並みがある。重伝建地区に指定されていて、重要文化財の民家もいくつかある。ふつうの人の暮らしのなかに古い町並みが残されていて、あまり作りモノくささがないのがいい。もちろん、最近の建物のなかにはまわりの雰囲気にあわせて作られている建物もあるけれど。

重文に指定されている立派な今西家住宅は春秋に一般公開されるらしい。南東端には今井まちなみ交流センターがある。明治36年に建てられた木造2階建ての和風の建物で旧高市郡教育博物館だったもの。県文化財になっている。

八木西口駅に戻り、電車に乗り、次の大和八木で大阪線の電車に乗り換えて鶴橋に向かう。(2005.08.07)


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