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「日本のへそ」西脇/小野の浄土寺


[西脇へ]乗り込んだ神戸電鉄粟生線電車は小野行だった。鈴蘭台で有馬線と分かれ、神戸市北部の山間部をとろとろ走る。朝夕の冷え込みからか少し色づいた木々も目立つ。

神鉄粟生線は、ところどころ複線区間があったりするものの、ほとんど単線で、少し開けたところに新興住宅街が広がっていたりする。神戸市から三木市にかけてが宅地開発されたところで、郊外住宅が広がっている。

鈴蘭台から50分ほどで小野に着いた。次の粟生行の電車を待ってもよいのだが、接続のJR加古川線の電車のことを考えると、神鉄小野駅から小野町駅まで歩けるな、とここで下車することにした。

神鉄小野駅は、橋上化された駅で、西側に降りるとJR小野町駅のほうへ向かう道路が延びている。距離的には1.5kmくらい、小野町駅発の電車まで30分ほどあるので、十分歩ける距離だ。

10分あまり歩くと加古川にかかる大住橋に達し、15分あまりで小野町駅に到着した。加古川線は、昨年(2004年)12月19日に電化された。それにあわせるように駅も新しくなったようだ。

小野町駅は、木をふんだんに使った建物になっている。無人駅だが、食堂がはいっている。待合室には、旧駅舎をはじめ、加古川線にSLが走っていたころの写真がいくつか展示されていた。

加古川線を走る電車は、103系をワンマン運転、2両編成で走れるよう改造されたものだ。ワンマン運転のため、無人駅では、後ろの車両のドアはまったく開かず、前より車両も、従来4つあるドアのうち、後ろ寄りのドアと、運転席寄りのドアしか開かない。

ドアは、ボタン式だがら、久しぶりに加古川線に乗った人は戸惑うだろう。そのせいかわからないが、電車は数分遅れてやってきた。

電車は、がらがらということはなく、そこそこ乗っていた。電車になって、気動車のもたもたした加速に比べ、発車時の加速が軽快だ。

小野町の次は粟生、神戸電鉄と国鉄時代に北条線から第三セクター化された北条鉄道との接続駅。加古川線が電化されたのだから、神戸電鉄と相互乗り入れされると便利な人も多いのではないかな。車両とか、いろいろ制約があるのかもしれないけれど。でも、実際のところは、そういった制約を取り払って行うほどの利用者はないのかも。

小野町駅から25分ほど、定刻に少し遅れて西脇市駅に着いた。電化前に比べれば数分所要時間が短縮されている。

[西脇]いまの西脇市駅は、かつては野村といっていた。その野村駅から分岐していた鍛冶屋線が1990年3月末で廃止、鍛冶屋線にあった西脇駅が消滅したため、そのため翌日から野村駅を西脇市駅と改称したのだ。

西脇市駅から西へ1.5kmほどいったところに、古窯陶芸館がある。緑風台という山ぎわの新興住宅街が広がっているところのはずれにある。山の斜面にかかっているので、少し遠くからでも見える。この建物は1982年に建てられたもので、設計は渡辺豊和先生だ。

この施設は、緑風台の宅地造成工事を行っているときに見つかった平安時代の古窯を保存展示するためのもので、ほかに陶芸の創作や絵付けができる施設でもあるようだ。

緑風台窯跡は、焚き口の奥に炎のまわりをよくする分焔柱というのがあるのが珍しいのだそうで、また、県内最初の陶器を焼いた窯ということで県指定文化財になっている。

建物は、この窯跡を被うドーム状の鉄骨造の建屋と出土品などの展示、陶芸創作などのためのRC造の部分からなっている。

山の斜面にあるとはいえ、ドームはまさに「パンテオン」だ。このこだわりは、渡辺先生らしいですね。ドームとRC造部分を被う全体的な格好は、前方後円墳のようにも見える。

陶芸創作のために使われているせいか、雑然としていて、埃っぽい感じ。展示も、あまりぱっとしたものではないが、天窓から落ちてくる光を感じ、ドームの鉄骨を見る価値はあるのではないかな。

県道まで戻ってくると牛丼屋があったので昼食、西脇郵便局の前を通って、西脇大橋のほうへ下ると、その手前に鍛冶屋線の踏切跡があった。廃線跡は遊歩道として整備されているようなので、それを歩いて西脇駅があったあたりに行ってみる。線路跡沿いには大きな染色工場がある。

たぶん50年はたっていそうな色合いのコンクリート造の大きな建物があったので、何だろうと、行ってみると映画館だった。西脇には、まだ、昔ながらの劇場が残っているらしい。

むかしの西脇駅だったあたりは、バスターミナルになっていて、ホテルなどがはいるビルができている。駅だった痕跡は残っていないように思う。西脇の街は鉄道線の東側から加古川の支流杉原川の対岸にかけて広がっている。城下町とか宿場町といった風情はないのだが、明治、大正の時代から織物などを中心とした商工業都市として発展してきた様子がうかがえる。

蓬莱橋のそばに望楼があって、古びた消防関係の建物が残っている。その近くに登録文化財になっている来住(きし)邸がある。大正7年に建てられた大きな和風の民家である。町の有力者の邸宅で、銘木などをふんだんに使ってあるそうだ。建物内で茶会などイベントをやっていて、なかまではいれなかったのだが残念。

街外れ、神姫バス西脇営業所近くににイズミヤがある。かつてはダイエー西脇店だったはずた。そこに立ち寄ったあと、新西脇駅に向かった。

新西脇駅には古びた木造の駅舎が残っている。加古川−西脇市間は電車が走るようになって、改築されたりしている駅があるのに、その先はあまり手がいれられてない様子。

谷川行の電車は1両だけで走れる125系電車だった。西脇市−谷川間は1両で間に合う輸送密度なのだろう。日本へそ公園駅で下車する。

この駅は1885年に設けられた駅で、この駅の近くに、北緯35度、東経135度がまじわる地点があって、ちょうど、線路と加古川の間が公園になっていて、記念碑が建っている。

まず、駅から少し登った丘陵地にある、にしわき緯経度地球科学館「テラ・ドーム」に立ち寄る。1992年に建てられた建物で、設計は毛綱毅曠。建物に向かって進んでいくまっすぐの小道は、たぶん南北軸の方位にあわせてあるのだろう。その先に、漫画なんかで、目が回ったときの表現のような、顔が見えてきて、少し笑える。たぶん、ある関数の軌跡を表現してあると思うのだけれど。

科学館の室内は、顔のように見える半球がプラネタリウムなどをやる映像ホール、横から見ると弓形だが、入口側から奥に向かって、少し広がっている、たぶん、何かの計算がされているのだろうけれど、そこが、簡単な、地学的なことを紹介する展示スペース、映像ホールと反対側は、企画展示室などがあって、2階には大型反射望遠鏡が設置されている。

プラネタリウムは、たいしたものでないが、時間を決めて公開している反射望遠鏡を覗かせてもらったけれど、ほんと、昼間でも星が見えるのですね。

外には、横尾忠則デザインの12星座列柱というモニュメントやすこし山の上のほうなのだが、「平成のへそ」というのがある。これは、緯度経度をGPSによって新しく測定し直すと、もとの位置から少しズレた、というもので、天に向かう4本の柱は、信州・諏訪地方の神社に建っている柱を感じさせる。

そのあと、駅そばの西脇市岡之山美術館を訪れる。1984年に建てられた美術館で、設計は磯崎新。西脇市出身の横尾忠則の作品を紹介する、規模としては小さな美術館である。

玄関前に柱列がある様は神殿を感じさせる。古典様式からの引用というところでしょうね。長細い建物の両側に飛び出した半円や瞑想室というガラスブロック積みの小部屋、室内の立方体とその屋根のピラミッド、というように幾何学的な形が組みあわさっている。

今回の展覧会は「イッセイミヤケ/パリコレクションを描く」というもので、パリコレのチラシかパンフの原画などが並べられていた。

日本へそ公園駅から谷川行電車に乗る。20分ほどで谷川。福知山線の電車に乗り換える。(2005.10.30)





[西脇へ(2)]前回、訪れ損なった旧来住邸などを見学するため、再度、西脇へ向かう。今回は、粟生行の電車に乗った。この電車、粟生駅での加古川線への接続がいいことを、前回、西脇を訪れたときに確認している。

粟生駅では3分ほどの待ち合わせ時間でJR加古川線西脇市行に接続している。無札で乗り継いでもいいのだが、駅でJRの切符を買い直していると、電車がはいってきたので、あわてて跨線橋を駆け上がった。この電車は、前回乗ったのと同じ時刻のである。

加古川線は、昼間の時間帯に保線作業を行うため、例外はあるが、毎月第4土曜日、一部の列車の運行を休止する。きょうが、その日にあたっているのだが、それを特別に案内していなかった。

ふだんならこの電車に谷川行が接続するのだが、きょうは運休なのである。車内放送でも、そんな案内はなかった。すでに周知徹底されているのならいいが、駅掲示の時刻表に注記されているとはいえ、たまに電車に乗る人のなかには、運休に驚く人もいるのでは・・・。

[西脇(2)]西脇市駅から、鍛冶屋線の廃線跡の遊歩道をたどって、もとの西脇駅跡のバスターミナルに寄り、そこで小野方面行バスの時刻を確認しておく。西脇から三宮行急行バスが昼間は1時間に1本あって、これが小野を通過するようだ。

杉原川を渡って、まず、前回果たせなかった国登録文化財になっている旧来住(きし)家住宅を見学する。

旧来住梅吉邸の母屋は、大正7年に竣工した一部2階建ての建物で、1階は中央に廊下をはさんで、南側が接客、北側は家族と完全に分かれた使い方がなされている。同様に2階も北向きの部屋しかとられておらず、いまの住宅とはまったく設計思想が異なっている。

南側の座敷の書院、床の間、天井などには銘木がふんだんに使われ、木彫家市川周道の手になる欄間がいれられている。

離れには、座敷棟と客湯殿・化粧室棟があって、座敷は母屋同様銘木が使われ、また欄間には蝙蝠の彫り物などがある。また、浴室には、イタリアから輸入したタイル、大理石が使われている。まさに贅を尽くした感じだ。

そのあと、童子山をまわり込んだところにある生活文化総合センターに立ち寄る。ここは図書館や郷土資料館がはいった施設で、資料館を見学する。西脇の歴史や地場産業である織物業、染色関係の資料がいろいろ並べられていた。

旧来住家住宅そばの情報未来館のレストランで昼食を取ったあと、西脇バスターミナルから三宮行急行バスに乗った。

[浄土寺]バスは、加古川西岸の県道を南下、滝野社インターに寄って社(やしろ)の市街地に向かう。インター付近はロードサイドショップなどなかなか賑やか。

神姫バス社営業バス停から急行運転となって、手元の地図を確認しながら、小野市にはいった古川バス停で下車。浄土寺へは、ここから南東方向に2kmほど。

バス停から東のほうへ歩いて行くと、国道175号線が南北に走っていて、なにかモニュメントのようなものが建っているので行ってみると、ひまわりの丘公園だった。モニュメントはこの公園のシンボル「ひまわりの塔」というらしい。花壇や芝生広場、レストハウスなどあって、多くの家族連れで賑わう公園だった。

そこからさらに1kmほど行ったところに浄土寺がある。ここの浄土堂は1192(建久3)年建立されたもので、東大寺南大門と並び国内2例しかない大仏様(天竺様)建築として、教科書的に超有名な建物である。この付近は、当時東大寺の荘園だったところで、源平合戦で焼失した東大寺を再建するための責任者となった重源上人が拠点とした寺院である。

境内には、浄土堂と対面するように薬師堂があり、同じ規模で八幡神社もあって、神仏混淆のなごりもとどめる。国宝、重要文化財が並び建っている。

浄土堂にはいろう。建物はほぼ西側を背にして建っていて、堂の中心にある須弥檀には仏師快慶の手になる阿弥陀如来と観音、勢至の両菩薩の立像がある。如来が530cm、菩薩が370cmの高さがあるというからかなり大きい。

建物は、天井を張らず、そのまま柱、組物、たる木などがむきだしで、力強い造形が伝わってくる。南側と西側が蔀戸になっていて、そこからはいる光が、堂内の反射光と一体となって如来を照らし、御来迎の姿を浮かび上がらすわけだ。

ここを訪れるのは、日が傾きかけた夕方、それも晴天の多い夏頃がいちばんいいらしい。晩秋のこの時期、太陽の位置がだいぶ南に寄っているから、あまり光の劇的な効果はなかった。

それでも、本尊をしばらく見ていると、日の傾きにつれて、堂内の柱、たる木などに塗られた朱の反射光を受けて、ほんのり朱がさしてきた。たぶん、もっと西側からの光なら劇的な変化が見られることだろう。

浄土寺前を経由して神鉄小野駅へ行くバスが何本かあるのだが、本数が限られ、しばらく間があったので、駅に向かってぶらぶら歩くことにした。距離は3kmほど。

小野は一柳藩1万石城下町である。藩政を行っていた陣屋は、いまの小野小学校のところらしい。本町界隈は古い町屋もほんの少し残る商業地だけど、アーケード街はシャッターをおろした店舗が多そうだ。きょうは、神鉄小野駅から電車で帰る。(2005.11.26)


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