京都 / 堺
[京都]阪急河原町駅の地下ホームから地上に出ると夏の日差しが照りつけ、暑い。川べりに張り出した床が並ぶ鴨川を渡る。鴨川べり、というと、等間隔に座る二人連れが有名だが、さすがに、この時期、日中の日陰のない川岸に並んで座っている人はいない。
南座の前から祇園新橋の伝建地区、疎水分流に沿って岡崎まで歩く。
京都国立近代美術館で催されていた「富本憲吉展」を見学。富本憲吉は、奈良県の安堵の生まれで、その安堵には記念館があって、以前訪れたことがある。奈良、東京、京都で制作を行った人なのだが、それぞれの時期の代表作が並べられていた。また、この人は、東京美術学校で建築デザインなどを学んだのだが、卒業制作の図面なども展示されていた。ついでに常設展も。
三条に戻り、昼食を取ってから、京都バスの大覚寺行に乗る。バスは河原町三条から御池通りを西へ、JR二条駅前から千本丸太町を経て、丸太町通り、花園から映画村のそばを通り嵐電の南側を西に向かい、桂川べりに出て、観光客が行き交う嵐山を通って、北に向かい、清涼寺前を通って大覚寺前に着いた。三条京阪から京都市内を横断、50分ほどかかった。
寺の南側には閑静な住宅街になっている。
そこを抜けて西に向かうと、田んぼがあったりもし、そこに、わら葺き屋根の農家が残っている。繁華な河原町界隈的雑踏と、この農村的光景が広がる光景が、バスで少し移動した同じ京都市内にあることに、少し驚いた。
さらに西へ向かうと嵯峨野観光散策道という感じのところに出て、土産物屋や食堂がある。嵯峨野は、五山の送り火のひとつ、「鳥居形」のふもとにあたり、護摩木の受付をやっていた。
化野念仏寺のある界隈が鳥居本の伝建地区である。山間の谷間のようなところにあって、愛宕山への参詣道、門前町のような集落だったようだ。瓦葺き町屋風の民家やわら葺き農家風の民家が並んでいる。
町並みのなかほどに「町並み保存館」がある。明治の初め頃に建てられた建物を利用した施設で、町並みの模型などが置かれいる。
京都内には、伝建地区が、ほかに、清水寺の産寧坂界隈、祇園新橋地区、それと上賀茂神社の社家の町並みがあるけれど、鳥居本地区は地味な感じ。しかし、まわりが山に囲まれて、ほかとはちがった雰囲気を出している。
愛宕神社の一之鳥居を越えて奥に進むと、清滝道に出る。この道、もとは愛宕山鉄道の電車が走っていた。この鉄道、嵐電嵐山駅から清滝までの路線とさらに愛宕山へのケーブル線があって、1929(昭4)年に開業している。しかし、戦時中の1944(昭19)年休止に追い込まれ、復活することはなかった。
愛宕寺の先に清滝トンネルがある。電車が走っていた当時のトンネルが使われている。道幅は、2車線とれる幅がなく、トンネル入口に信号機が設けられ、クルマは交互通行を行っている。歩道はないけれど、人は歩いて通り抜けられる。
500mほどのトンネルだが、少しカーブしているので出口は見えない。トンネル内はナトリウムランプが灯り、少し明るいから、なんとか歩けるけれど、クルマも来るし、あまり、よい気分ではない。
トンネルを抜けたところに清滝駅があったらしい。今は京都バスの乗り場になっている。
坂道を下って行くと清滝川が流れている。営業しているのかどうかわからないような古びた旅館が川沿いにあったりする。この時期、渓流で川遊びしている人も多い。
バス停から10分くらい歩いたところにケーブル線の清滝川駅跡がある。建物はすでにないが、コンクリートの階段が残っており、ホームのあったあたりから山のほうに、軌道が伸びていたような跡が残っている。
バス停に戻って、京都バス京都駅行に乗る。清滝で遊んでいた人たちでさらりと座席がうまる。
バスはトンネルを抜け、かつての電車が走っていた道路をゆき、あいかわらず人で賑わう嵐山を経て、東に向かう。京福嵐山線に沿って走り、西大路通りを南に下り、四条通りを進む。きょうは、西大路四条バス停で下車、ここは阪急西院駅最寄りで、阪急電車に乗り換えた。(2006.08.13)
[堺]JR天王寺駅で大阪環状線から阪和線の快速に乗り継ぐ。大和川を渡り、堺市駅で下車して後続の各停電車に乗り換え、百舌鳥駅で下車する。
百舌鳥駅は、上り下りホーム別々に改札がある。JR線では、改札口を抜けて上り下り、どちらかのホームに行く形式がふつうだが、阪和線は、もとは阪和電鉄という私鉄の路線(のちに南海の山手線となり、戦時中に国有化された)だったので、これはその名残なのかもしれない。
駅の北側には、仁徳天皇陵がある。南側には御廟山古墳という堀に囲まれた前方後円墳がある。その近くに重要文化財に指定されている高林家住宅があるので行ってみる。
高林家住宅は、公開はされてないが、門前の案内板によると、江戸時代、大庄屋だった家柄で、主屋は天正年間に建てられたものらしい。大阪府下でもっとも古い民家のひとつとのことだ。塀越しに大和棟の主屋が見える。
緑色の水をたたえた御廟山古墳をぐるっとまわって駅に戻り、仁徳天皇陵のほうに行ってみる。仁徳天皇陵は、世界最大規模の墳墓、ということなのだが、堀端に立っても、木々に被われた小山がある、といった感じで、いまひとつ実感がわかない。
その南側にあるのが、大仙公園である。市立博物館があるので立ち寄る。まず、博物館の前にあるふたつの茶室を見る。ひとつは、仰木魯堂の設計で1929(昭4)年に建てられた「伸庵」。東京芝公園にあったものを1980(昭55)年、ここに移築されたそうだ。
もうひとつは「黄梅庵」である。もとは奈良県橿原市の今井町、古い町並みが残り伝建地区に指定されている、にあった茶室を、電力王として知られる松永安左衛門(耳庵)が譲り受け、小田原に移築、「黄梅庵」と名付けられたもので、これも1980(昭55)年にここに移されている。
堺は、茶人千利休ゆかりの地ということで、これらの茶室の移築は堺市制90年記念事業として行われたようだ。茶室はともに、登録文化財になっている。
さて、博物館である。正面から見ると四角い普通の建物だが、展示室のほうは入口出口の方向性がはっきりした馬蹄形、室内はヴォールトの広い展示空間になっており、中央部は明るい中庭になっている。建物は、仁徳天皇陵の方位にあわせてあるようで、また、輪郭は、前方後円を意識しているように思われる(前方後円を東西軸で180度反転させた格好)。
展示内容は、仁徳天皇陵を初めとする古墳の紹介、出土品などの展示、それに自由都市として栄えた頃の堺の紹介など。堺の歴史的トピックをひととおり紹介している。特別展コーナーでは「百舌鳥古墳群の造営集団の遺跡と古墳」という特別展をやっていた。市内の遺跡出土品から造営した人々にスポットをあてた展示。
博物館をあとに、炎天下、北の方に向かって歩く。住所表示に「堺区」というシールが張ってはる。今年(2006年)の4月に政令指定都市になって、「区」というのができたらしい。
堺の地図を見ていると、道路は、北東から南西に向かって伸びているのと、それと直交する道路で街区が形成されている。大雑把な見方をすれば、仁徳天皇陵などの古墳の方位と同じなんですね。ただ、なぜか、賑町、永代町などのある街区だけ、道路の方位がずれている。
南安井町付近は、新興住宅街といった感じの、真新しい戸建て住宅が建ち並んでいる。たぶん、工場跡地としてぽっかりあいた広い敷地を細切れにして、宅地開発したのだろう。画一的でまったく面白みがない町並みである。
市立堺病院前の小公園にゾウの銅像がある。阪神高速堺線の下を抜けて阪堺電車の走る通りまでやってきた。
大小路電停かどにある紀陽銀行は、安藤さんの設計だったかな。四角い門形のコンクリートにガラス主体の円筒が組み合わさった格好をしている。建物の間がぽっかりあいている。
惜しいのは、南側に隣接する建物が接し過ぎていて、南側からの、この建物のコンクリートとガラスの構造物という格好がよく見えないことだ。
そのじゃまな建物をつぶして広い芝生広場にでもしてやれば、けっこう感じよいのでは、と思ってしまった。
内川を渡るとイトーヨーカドーがある。それに隣接する堺戎島団地のところに「明治天皇御駐蹕之跡」という石碑が建っている。そこに「旧堺紡績所跡」の案内板が設置されている。紡績所は、1868(明元)年、薩摩藩が設けたもので、のちに新政府が買い上げ堺紡績所となった。鹿児島紡績所についで、日本で2番目の紡績所なのだそうである。
南海本線に近い工場や住宅などが建ち並ぶ町なかを通って、南海七道駅にやってきた。駅前に河口慧海の銅像がある。チベット探検の様子を再現した像のようである。慧海は、幕末、堺の生まれで、1900(明33)年、仏教の源泉を訪ねるため単独チベットに行ったことで知られ、『西蔵旅行記』を著した。
七道駅の北側、ダイセルの工場のあるあたりの町名は、「鉄砲町」といい、堺の鉄砲とゆかりのあるところだ。駅付近にいろいろ記念碑が建てられている。
ダイセル工場内には煉瓦造の建て屋がたくさん残っている。堺セルロイドとして1910(明43)年に建てられたものなどが残っているようだ。南海電車からでも見える。
工場のまわりを一周して七道駅に戻る。暑いので、もう歩く気にもなれず、南海電車に乗って難波に出る。(2006.08.26)