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高槻/寝屋川から交野・枚方、そして






[高槻]JR高槻駅で下車して北側に出る。駅そばに高層マンションができ、その下のショッピングモールには、スーパーや書店などがはいっている。そのせいか、南側のグリーンプラザにあったにあったスーパーはなくなり、センター街の書店もいつの間にか消えた。

高槻西武の東側には湯浅の電池工場があったが、その跡地は商業施設などに再開発されるらしい。

古曽部町のなかほどに能因塚というのがある。別所の交差点を北に折れてしばらく行くと、京大付属農場古曽部温室というのがある。このあたり、農地が宅地化されたせいか、狭い道路が複雑にからまっている感じで、ところどころ、道案内の道標が建てられているのだが、肝心な曲がり角にないので、道をはずれてしまい、けっきょく能因塚を通り過ぎてしまったらしい。

能因は平安時代の歌人、『小倉百人一首』にも取り上げられている。古曽部に隠棲していたそうだ。
この近くには、伊勢寺といのがあって、ここは、宇田天皇の寵愛を受けた三十六歌仙のひとり、伊勢姫ゆかりの寺なのだそうだ。伊勢も、もちろん『小倉百人一首』に取り上げられており、古曽部は、『百人一首』歌人ゆかりの地であるわけだ。

大丸の研修センターを過ぎると、奥天神町の住宅街が山の斜面に広がっている。上りきったところにスーパーがある。ダイエー系の「グルメシティ」だけど、レジ袋はもとの「サカエ」のを、そのまま使っていた。

名神高速道路を越えると日吉台という住宅街が広がっている。
町のなかほどに、日吉台教会がある。

最近、渡辺豊和先生の著書『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』という本が出版され、このなかで、毛綱さんの日吉台教会のことが述べられていた。それで、今回立ち寄ってみたわけ。

RC造で、1970年に建てられた建物。角地にあって、コンクリート壁に十字があるので、教会といわれれば、それとわかるが、まったく教会らしくない外観をしている。

毛綱さんの建築としては、能登島ガラス美術館、にしわき経緯度地球科学館に立ち寄っているけれど、それらに比べれば、奇想な造形は、まだ、おとなしい感じ。

渡辺先生の著書によると、この建物は<蒸気機関車>そっくり、ということだったが、そういう感じもするけれど、それほど強くは感じられなかった。ローコストで建てられているせいかもしれない。

並立するコンクリートの2枚の壁と先端の十字があけられた円筒形のコンクリート壁というシンプルな格好だ。側面の窓部、壁面から突き出た筒の列、屋上の煙突のような造形に、その後の毛綱建築につながるものを感じる。

日吉台をあとに西に向かう。並木道の整備された道路は途中で途切れる。将来的には南平台のほうへとつながるのだろう。
高槻市内は住宅地の造成が、都市計画道路の整備に追いつかなくて、けっこう交通量が多いのに、狭い道路とか、道が入り組んでいたりする。

大蔵司という地名がある。<だいぞうじ>と読むらしいが、なにか由緒のありそうな地名である。名神高速道の下を通り、芥川をわたると郡家本町である。郡家(ぐんげ)のあたり、奈良時代におかれた嶋上郡衙があったと考えれているところだ。

しばらく行くと、今城塚古墳がある。二重の堀に囲まれた大きな前方後円墳である。古墳の規模から継体天皇陵という説がある。公園のようになっているが、現在、発掘調査が行われているようで、柵で囲われていた。
そこから南に向かうとJR摂津富田駅にたどりつく。(2006.09.23) 




[コモンシティ]JR片町線の快速電車を四条畷で各停に乗り換え、東寝屋川駅で下車する。この駅は掘り割りにある駅だ。1979年に設けられた駅で、明治時代に開業した片町線の駅としては比較的新しい。

駅前に設置されている観光案内地図の横に姫装束の石像が立っている。「鉢かづき姫」の像で、寝屋川市のマスコット的存在らしいく、市内のあちこちで目にすることになる。

「鉢かづき姫」というのは、御伽草子の一編、臨終の母から頭に鉢をかぶせられた姫君が継母に憎まれて家を出て苦労するが、ついに鉢のおかげで幸福になるという、長谷観音の霊験談をからませた話らしい。継子いじめして没落したのが寝屋長者で、その屋敷跡が、東寝屋川駅から北1kmほどの寝屋地区にあるそうだ。

東寝屋川駅から東へ、山のほうにはいっていくと「石の宝殿」という古墳がある。巨石の横手をえぐって、石棺のようにしたもので、山の斜面にごろんと置かれている。

ここから南東300mほどのとこに「コモンシティ星田」がある。宝殿のほうからクルマの通れる道路はないのだが、遊歩道くらいあるだろうと思ってここまでやってきたのだが、ちょうど、寝屋川市と交野市の市境ということもあって、そんなものはなかった。

無謀にも雑木林のなかを藪こぎして突っ切ることを考えたのだが、すぐそこなのに雑木にはばまれ身動きできず、あきらめた。たまたま、タケノコを取る竹藪だと思うのだが、そこに小道が延びていたのでその小道をたどると、「コモンシティ星田」の住宅街にたどりついた。やれやれ。

1980年発行1/25000地形図『生駒山』を見ると、「コモンシティ星田」のあるあたりは、ゴルフ場とある。ゴルフ場を宅地化して設けられたのがこの住宅街らしい。

奥まった街区は、山の傾斜を活かし、中央部に戸建て住宅がまとまり、そのまわりに集合住宅がとりまいてある。

戸建て住宅街には、斜面を利用して街区のなかほどに水路に水が流れていたり、あちこち、「花舞台」だの「花の十字路」だの愛称が付けられ、「色あざやかな散歩道だ」などといったことが書かれた案内板があったりもする。

集合住宅は5階建てくらいのが、いろいろな向きで並び、落ち着いた雰囲気の色タイルが山の景観とあっている感じ。ただ、戸建て住宅街は、ハウスメーカー的な住宅が並び面白みはまったくなかった。

山を下ってくると、実験住宅的な戸建てが並ぶ街区がある。1階がRC造、2階が鉄骨の混合造、屋根がRのついた片流れ、コンクリート打放ちと金属板外壁、窓のあり方など独特な格好の建物が並んでいる。山の斜面を活かして街区が作られているといった感じ。この街区の設計は坂本一成。1992年の竣工だから、竣工後十年以上たち、2階外壁の金属色が少し汚らしくなっている。金属色平板外壁は一考を要するところだろうね。

さらに下ると、ゴルフの打ちっ放し場があって、これがかつてのゴルフ場のなごりなのだろう。

東寝屋川駅に戻り、線路を越えて、寝屋川公園のほうに進む。ここは野球場などがある公園。
市道を北西方向に進んで行くと打上川治水緑地があって、三井団地に出た。南面する緩やかな斜面に、すこし古びた同じような格好の集合住宅が同じ向きで並んでいる。むかしのスタイルの団地だ。

丘陵を越えると成田町、成田山大阪別院のある町である。このあたり、生駒山系の北端の丘陵部というのか、山、谷のアップダウンがあって、疲れるけれど、地形に変化があって、歩き楽しい。

成田山は千葉県にある不動尊で有名なお寺だが、1934(昭9)年、京阪電鉄が土地を提供して、ここに分祀されたものだ。門前の駐車場のところに鳥が載っかった「皇紀二千六百年」の記念碑が建っている。鳥は、たぶん、「金鵄」なのだろう。

成田山の西側に聖母女学院がある。戦前に建てられた校舎は、登録文化財になっているようだ。

成田山のあたりは閑静な住宅街といったところ。北に向かうと、菅相塚町というのがある。菅相とは、菅原道真のこと、九州に左遷されたとき、道真の姫君がここから行列を見送ったとかいう伝説があるところで、古墳のような塚はないらしい。

この町の北側はもう枚方市である。谷間に擁壁を建て、めいっぱいの敷地に戸建て住宅が建っている様を下側から見ると住宅がそのまま積み重なっているように見える。

香里という地名、京阪電車が、香里園という遊園地を開いたことにちなむらしいが、寝屋川市と枚方市にまたがって、なんとか香里園町とか、香里園なんとか町というのが分布している。

香里園東之町には、渡辺豊和先生の戸口邸がある。ドーム状の造形は「パンテオン」からきているのでしょう。壁面にふたつ並んでいる格好から「オッパイハウス」といわれるらしい。まわりの住宅からすれば、かなり奇抜な外観をした住宅である。

住宅街をさらに山越えして光善寺駅まで行こうと思ったのだが、住宅街の道が、向こうへ思うように通じてないと、あと戻りすることになるので、ここはおとなしく京阪香里園駅前に出ることにした。もうひとつ丘陵を越える気にならなかったせいもあるけど。

香里園駅は以前使ったことがあるので、北隣りの光善寺駅まで歩く。住宅街に迷い込むと行き止まりだったりし、けっきょく、線路沿いを府道を歩いて光善寺駅へ。たいした発見はなし。

光善寺駅は、蓮如上人ゆかりの光善寺にちなむ。寺は駅から北西1kmほどのところにある。

[京都へ]光善寺から出町柳行の各停電車乗る。枚方市駅で特急に乗り換えて京都に向かう。まだ下車したことがない駅ということで、鳥羽街道駅で下車することにした。丹波橋駅で各停電車に乗り継いで鳥羽街道駅下車。

琵琶湖疎水と鴨川の間を通る師団街道を行く。任天堂の工場がある。東福寺駅近くの九条跨線橋という、京阪、JRの線路と疎水、鴨川を渡る橋には、市電が走っていたころの架線柱が残っているように思える。これに隣接する東山橋を渡って、京都駅まで歩く。

藤森照信先生の近著『原・現代住宅再見3』(TOTO出版)に、原広司「自邸」が紹介されている。そのなかで、「この家を1000倍にふくらましたのが京都駅です」という一文があったけれど、その本に紹介されている写真など見て、あらためて、京都駅ビルに行ってみると、なるほど自邸にそっくりだ、と思えてくる。

せっかくなので、駅ビルの美術館で行われていた「アルフォンス・ミュシャ展」を見学。けっこう賑わっていた。

京都駅からJRの各停電車に乗って向日町駅で下車する。この駅北側1kmほどのところでは新駅の工事中。阪急京都線に洛西口駅が新設され、それは工事中の新駅の西数百mのところにあるのだが、それへの対抗というところか。

向日町駅前から競輪場に向かって道路が延びている。500m行くと阪急京都線が走っていて、東向日駅がある。阪急の線路を越えると旧西国街道という、路面を少し装飾した道路が延びている。もともとJRの駅前から競輪場へ向かう道路は旧西国街道だったのかもしれない。

旧西国街道に沿って歩く。あまり古い町屋が並んでいるわけでないが、府道とぶつかったところに、京都府の文化財になっている古い町屋があった。
初めて利用する阪急西向日駅まで歩く。西向日駅と東向日駅、東西というよりは南北に離れているのだが、どうして、こういう駅名になったのだろう。

駅の近くに長岡京の一部だったという史跡がある。ここも古都なのである。いまは、そんな雰囲気はまったく感じられないけれど。西向日駅近くの教会と幼稚園の合体した建物は、このあたりではめだつ洒落た感じの建物だ。
西向日駅から阪急電車に乗って帰る。(2006.09.24)


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