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東大阪・四条畷・大東

[東大阪漫歩]JR大阪環状線鶴橋駅で近鉄電車に乗り換える。きょうは、東大阪市内を歩いてみようと思う。ちょうど、奈良線西大寺行準急が入ってきたのでそれに乗る。

瓢箪山駅で下車する。近鉄電車は、この先、生駒山系を登っていくのだが、その山麓の町という感じ。駅の南北にアーケードのかけられた商店街があって、けっこう賑やか。この道路は東高野街道である。近くに、瓢箪山稲荷神社がある。神社の裏手に円墳が並んでいて、それが瓢箪のような格好からきているらしい。このあたり含め、生駒山麓は、古墳が多い地区のようだ。

東大阪市立郷土博物館の道案内が出ていたので、それをたどる。生駒山系のほうへ、けっこう登ったところにあった。そのぶん、大阪平野の眺望がよい。入場料は50円、かなり年期のはいった施設であるが、良心的な値段だ。

展示内容は、常設展示のほうは、古墳などからの出土品が多数並べられている。出土品など並べやすいのかもしれないけれど、時代が下がるほど内容が乏しくなる。生駒山麓の水流を利用した、漢方薬の粉末作りや針金作りの紹介は、興味深かった。

企画展では、「消えゆくふるさとの風景」というのをやってて、昔の写真などが並べられ、それに関連する収蔵品などの展示。興味深い写真なども多いのだが、写真のサイズをもっと大きくしてほしいものだ。そして、たとえば、現状の写真との比較とかやればいいのに、と思ってしまう。

駅前に戻り、商店街を北に向かう。500mほどいったところに東大阪市東支所がある。東大阪市は、1967(昭42)年、布施市、河内市、枚岡市の3市が合併してできた市であるが、この建物は、もとの枚岡市役所だった建物で、いまは図書館などとしても使われている。

型枠の木目も残るコンクリート打ち放し、深い庇といい、反り返った玄関ポーチの格好に、表現主義的というか、ただものではない建物だと感じさせられる。建物内部、螺旋階段の造形もすごい。1964年に建てられたもので、40年以上たっても新鮮な印象をもっている。

そこから西に向かう。恩智川を渡ると近鉄東花園車庫があって、その北には花園中央公園がある。その一角に「ドリーム21」という児童文化スポーツセンターがある。子ども向けの展示室やプラネタリウムなどがある。ふだんは公園となっている花園遊水池の向こうには近鉄花園ラグビー場がある。

北側に出て、近鉄奈良線と東大阪線の中間を走っている産業道路に出て、そこを西に向かうとイトーヨーカドーがあった。以前は、鳥マークの広告塔が上がっていて、すぐわかったのだが、今は、別のマークに替わっているので、すぐにはわからなかった。そこで昼食。

このあと、北に向かい、あまり立ち寄ることがないだろうな、と近鉄けいはんな線の荒本駅まで歩いた。東大阪は町工場の町として知られるが、工場街と住宅街と隣接してある。

近鉄けいはんな線と大阪市営地下鉄中央線とは相互乗り入れしており、都心に出るには便利なのだが、経営者がちがうので、運賃が合算されることになり、どうしても割高である。(2007.02.10)





[四条畷]JR片町線の快速電車を住道で各停に乗り換え、忍ヶ丘駅で下車した。この付近は高架になっていてる。

駅周辺は、戸建て、集合住宅など建ち並んでいるが、西側の木立の繁るこんもりした丘陵が、忍ヶ丘なのだろう。

駅から府道20号線を南にとる。集合住宅の新築工事が進められている。戸建ての工事もやっている。将来的に金利上昇、消費税率アップなど考えられる今こそ、高額商品である住宅の買い時だ、てな思惑で、盛んに工事が進められているのだろう。

市民総合センターの前に、東高野街道に関する案内板があった。旧街道を拡幅してクルマが走る道路にしたところもあるが、このあたり、住宅街のなかをくねくね伸びる狭い道が旧街道らしい。そちらに歩をとる。

国道163号線と交差してしばらく進むと、四条畷市立歴史民俗資料館があったので立ち寄る。この建物、片町線の電車からでも見える。
展示内容は、旧石器時代から戦国時代頃までの埋蔵文化財を並べるフロアが主で、木棺に葬られた弥生時代の人骨とか、馬の埴輪など珍しいものも並べられている。四条畷あたりは、古墳時代、馬飼いの里だったようだ。

最近、府の文化財に指定された田原城主のキリシタン墓碑は、わが国最古のものらしい。また、昨年(2006年)12月、展示資料室の土蔵が登録文化財になったそうで、それに関する資料なども展示されていた。

この土蔵造2階建ての建物は、もともと裁判所の出張所として1907(明40)年に建てられたもの。1985年、土蔵を生かして、歴史民俗資料館が建てられ、この土蔵は、農具などの民俗資料を展示するスペースにあてられていた(今回、訪れたときは片づけられていたけれど)。

いまの土蔵は、資料館本体に一部取り込まれ、別の建物もとりつき、あまり見栄えのしない状態になっている。せっかく、登録文化財になったのだから、そこらあたり考えてほしいものだ。

ついでにいえば、もともとこの施設、埋蔵文化財展示室としての役割が与えられているのだろうが、四条畷といえば、四条畷合戦、これを紹介するスペースくらいほしい気がする。ただ、この合戦、いまの四条畷市から大東市にかけての一帯が決戦場だったから、ここでは紹介しにくいのかな。

資料館の前の道が旧東高野街道らしいのだが、それをしばらく行って、バス道に出ると和田賢秀の墓がある。賢秀は楠木正行の従弟だそうである。
バス道を南に下ると、四条畷神社の参道と出会う。バス道から500mほど生駒山系にはいったところに神社があり、反対に線路を越えて500mほど行くと楠木正行の墓がある。せっかくなので神社に詣でる。

四条畷神社は、1889(明22)年に創建された神社で、四条畷の合戦で討ち死にした楠木正行が祀られている。四条畷の合戦は、1348(正平3)年1月のことで、足利方武将高師直の軍に相対したとき、正行は23歳だったそうだ。

神社前交差点を少し南に行くと大東市にはいる。そこに四条畷学園があって、鷲か何かの像が並んでいる古いRC造の建物が残っている。たぶん戦前の建物だろう。その横には現代的なガラスを多用して、四角くない建物もできている。

この学校のそばにJR片町線四条畷駅がある。この駅、四条畷市ではなく、大東市にあるのだ。片町(いまは、JR東西線の開業で廃止されてしまったが)−四条畷間が開業したのは1895(明28)年で、当初は浪速鉄道という私鉄の路線であった。

いまでこそ市名にまでなっている四条畷、もともとの地名は甲可村だそうで、それが四条畷村に改称されたのは1932(昭7)年のことらしい。それ以前から、四条畷という駅名だったことは、調べたわけでないが、四条畷神社からきているのかもしれない。

四条畷駅前といっても、四条畷市の中心駅ではないわけで、駅前広場のようなものがなくて、バス乗り場も、どこにあるのかわかりにくく、とまどってしまった。近鉄奈良線の瓢箪山駅前行のバス停でバスの時刻を確認。バスは頻発していることがわかったので、グルメシティで一服する。
その近くには、楠木正行の墓がある。クスノキの巨木が印象的。

 

[ふたたび東大阪]四条畷駅前から瓢箪山駅前行の近鉄バスに乗る。東高野街道、国道170号線を南下する。野崎観音の前から大阪産業大学の前を通る。

大学の構内に路面電車が置いてあるのが目に付いた。

大東市から東大阪市にはいる。石切神社の前を通り、新石切駅前を出て、しばらく走った箱殿バス停で下車する。生駒山系を越える暗峠への国道308号線と交差している。暗越奈良街道である。

バス停から暗峠のほうへと坂道をたどると、大阪東信用金庫豊浦出張所がある。昭和初期に建てられた、もとは枚岡村役場だった建物である。正面にはライオンの顔があったりしてまわりの民家とまったく雰囲気のちがう存在感のある建物である。この建物、先週訪れた東大阪市立郷土博物館の企画展示パンフに紹介されていた。

小雨が降ってきたなか、住宅街の狭い入りくんだ道を東大阪市東支所に向かって歩く。東支所から先週歩いた道をたどり、ドリーム21から近鉄花園ラグビー場のほうへと進む。

ラグビー場の正面入口前には、石で作られた大きなモニュメントのような、オブジェのようなものがある。イギリスにあるスタンディングストーンを意識した造形らしい。東大阪市は、ものづくりの町として全国的に知られているが、また、ラグビーの町でもある。そのラグビーの、発祥の地としてのイギリスと、この造形を関係付けたいようなのだが、なんじゃこりゃ、という気にもなってしまう。

ラグビー場のそばに東大阪市民美術センターというのがある。市民の文化活動の場として10年ほど前にできたらしい。
瓦屋根、傾斜のきつさから大和棟を意識させそうな、そいうい屋根がふたつ並び、全体として民家風な雰囲気をもっているものの、そのわりにはあまりしっくりこない外観である。どこか、バランスがわるいのだろう。

「須田剋太展」をやっていたので覗く。司馬遼太郎の『街道をゆく』挿絵原画展であった。東大阪市内には司馬遼太郎記念館もあって、そういう関係もあってか、毎年この時期、挿絵原画展をやっているらしい。
今回は、10回目ということで、北は北海道から南は沖縄まで日本各地とモンゴルの挿絵原画、100点ほどが並べられていた。

須田の原画、独特の雰囲気をもっていますね。写実的に、うまい絵というわけでないのだが、感じは出ている、というところがいいのだろう。紙を貼り付けたりしたのもあって、いろいろ工夫もみられる。

スケッチするとき、写実的に、格好良く描いてやろう、なんて思うと、なかなか筆が進まないものだけど、スケッチは、こんなのでいいのだ、みたいな思いにさせてくれる絵ではある。
美術センターをあとに雨の中、近鉄奈良線東花園駅まで歩く。この駅付近は、現在、高架工事が進められている。(2007.02.17)





[大東市]JR大阪環状線京橋駅で片町線の各停電車に乗り換え、きょうは、野崎駅で下車する。ここは野崎観音最寄り駅である。片町線の前身浪速鉄道の四条畷まで開業したのは、1895(明28)年であるが、野崎駅は臨時駅として、1899(明32)開業している。野崎参り最寄り駅としてであろう。

野崎参りは、「野崎小唄」、上方落語「野崎まいり」など、いろいろ取り上げられている。その縁日は5月であるが、せっかくなので、野崎観音に詣でることにしよう。

野崎駅前には、水路のような谷田川が流れている。かつては、ここまで、観音まいりの剣先船が入っていたのだろうか。
駅前商店街を抜け、生駒山系への坂道を上って行くと、10分ほどで野崎観音に着く。正式名称は慈眼寺というそうで、けっこう歴史があるらしいが、「野崎まいり」が盛んになったのは、江戸時代元禄ころかららしい。
境内には近松半二作の人形浄瑠璃「新版歌祭文」にちなむ「お染久松の塚」などがある。

野崎観音をあとに、東高野街道の旧道を南へ歩く。舗装の色が、ふつうの黒っぽいアスファルト色でなく、土道のような色調で舗装されている。クルマもほとんど通らず歩きよい。
市水道局の東部配水場がある。ここの建物、少し安っぽいけれど、角張ったところを丸めたところなどを見るに、表現主義的な造形を感じる建物である。

生駒へ通じる府道8号線を横切り、しばらく行くと大阪産業大学がある。大学前バス停のあるほうは裏口のような位置らしい。
大学構内をかすめるように高圧電線が走っているが、その鉄塔の足下に路面電車が置いてある。前回、バスで通り過ぎたとき見かけたものだが、それを見に行く。
電車は、南海(いまは阪堺電軌)の阪堺線を走っていた「モ205型」という車両だった。南海から大学に寄贈されたものらしい。

大学の構内を抜けて、国道170号線バイパスのほうに出る。こちらが大学正面にあたるようである。向かいには、高校野球で有名な高校もあって、こちらの建物の外観は少しキッチュである。

西のほうに向かうと、平野屋という町名の地区にはいる。大和川付け替え後の新田開発で、このあたりを管理した「平野屋」にちなんでいるのだろう。会所跡が残る。

大東市総合文化センター内にある市立歴史民俗資料館に立ち寄る。ここも遺跡出土品などの埋蔵文化財の展示が主で、「郷土のあけぼのから現代へ」というコピーを掲げているわりに、それ以外の内容に関しては乏しい感じ。出土品も特徴的なものは見られなかった。

大東市だと大和川付け替えの新田開発、これだと、東大阪市とかさなるところも多いかもしれないけれど、もう少し詳しく紹介してもいいのではないか。また、野崎参りに関することも、大東ならではの、おもしろい紹介ができのではなかろうか。資料館でいただいた「歴史散歩道大東」というパンフはよくまとめられていると思う。

[ふたたびの東大阪]JR住道駅前から近鉄八尾駅前行近鉄バスに乗る。 三洋電機の工場のある三洋町を過ぎ、東大阪市にはいる。バスが走る府道21号線沿いは、工場、住宅など並ぶ。阪神高速13号線の高架にぶつかり、いったん、バスは近鉄けいはんな線の荒本駅前に寄る。ふたたび府道21号線に戻ったところで、菱江バス停で下車する。

府道21号線の東側は、耕地整理されたあと、工場がたったり住宅街になったりしたせいか、道路も縦横に伸びていて、歩いていてもあまり面白みもないのだが、さらに東に進むと、土地が一段上がって住宅街がある。

その松原地区は、むかしは、大阪と奈良を結ぶ暗越奈良街道の宿場だった。といっても、いまは、その雰囲気はまったくない。藁葺きの家が、ほんのわずかながら残っている。宿場町であったことを示す案内板が建てられている。

松原地区を南側に下ると近鉄花園ラグビー場で、前回は東花園駅に出たので、きょうは、河内花園駅に向かって歩く。
駅への狭い道路は、一段高い尾根のようなところを延びているようで、駅に近づくと古びたアーケード街に行き着いた。シャッターを降ろしたままの商店も見受けられるが、開いている店もある。商売、成り立つのかな、と思いたくなるような雰囲気の商店街である。

河内花園駅前は、新しい商業施設などがはいるらしい再開発工事が進められている。近鉄奈良線の高架工事とあわせ、このあたりも変わることだろう。(2007.02.24)
        

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