− 北宇智駅と御所市を訪ねて −
[青春18きっぷ]春3月、「青春18きっぷ」の季節が巡ってきた。快速を含む普通列車しか乗れないという条件付きながら、乗りようによっては、割安な切符なので、これを使っての旅行ガイド本まである。
この企画切符、国鉄末期の1982年春、「青春18のびのびきっぷ」という名称で、1日有効券3枚、2日有効券1枚の4枚組切符に「このワッペンをつけて旅行してください」というワッペン(シール)まで付いて、8000円で発売されたことに始まる。このときは、有効期間が5月末まであった(翌年からは、4月10日までに改められている)。
この当時、普通列車の夜行が各地で走っていた。今の「ムーライトながら」の前身にあたる東海道夜行をはじめ、「からまつ」「山陰」「はやたま」「ながさき」と愛称がついた、寝台車を繋いだ普通列車も走っており、青函連絡船の夜行便も使って、車中連泊しながら、おもしろい旅程が立てられたものだ。
それに、当時の国鉄は、「チャレンジ2万キロ」という10年(1980-90)にもおよぶイベントをやいた。各路線の起点と終点で自身を入れた写真を撮って、その路線の乗車を認定してもらうと、乗った線区の数ごとに、賞品などがもらえる、という企画だった。
ワイド周遊券(周遊券制度が廃止されて、かなりになるけれど)のカバーしない地域のローカル線乗り歩きに、「青春18きっぷ」は重宝したものだ。
値段が8000円から10000円に値上げされるとき、1日有効券4枚、2日有効券1枚の5枚組となり、のべ有効日数が1日増えた。
1984年夏のシーズンから2日有効券が1日有効券に替えられ、値段そのままで、実質1日短縮されたことになり、1日あたりでみれば値上げでもある。
切符の形としては、表紙のついた冊子形式のものや、みどりの窓口で発券されるものがあった。端末の違いにより、長々と印字されるものや、一枚一枚がバラバラになったのがあった。
この切符は、手元に残すことができるので、やはり、冊子形式の切符を入手したかったですね。
1986年9月に運賃が値上げされ、その後に発売された「青春18きっぷ」は11000円に値上げされた。その後、1989年4月の消費税導入で11300円に、さらに、その税率引き上げで、11500円になっている。
きっぷの形式も冊子、バラ券方式から、金券ショップでの、ばら売り対策か、最近では1枚で5回、使用日を入れる様式になった。
今シーズン、「青春18きっぷ」が、8000円の特別価格で発売されることを知り、価格設定が、最初の発売額と同じだったので、てっきり、発売25周年を記念するもの、と思ったら、JR発足20周年というものだった。
でも、8000円にしたことは、多少、発売最初の価格を意識したのではないかな。とはいえ、早いもので、国鉄がなくなりJR発足して、もう20年も経ったか、という感慨もありますね。
[北宇智へ]さて、JR大阪環状線、大和路快速奈良方面加茂行に乗車して、今シーズン、「青春18きっぷ」、初日の旅に出る。
西九条駅付近では阪神西大阪線の難波延長工事が、加美−久宝寺間では、大阪外環状線の工事が進んでいるのが車窓から見られる。開業が待たれるな。
かつては、加美−八尾間には竜華操車場があり、その間にあった久宝寺駅は、上下線ホームが、かなり離れた位置にあった。
その操車場もなくなり、線路配線もすっきりし、また駅前広場も整備されたり、跡地に八尾市立病院などができ、大阪外環状線の接続駅としてか、今は快速電車が停まる。
線路は、生駒山系の南端を迂回して、大和川に沿う。トンネル、鉄橋をいくつか通り過ぎて奈良県にはいる。
近鉄電車乗り換え駅の王寺駅で下車する。以前訪れたとき工事をしていた駅北側のビル、立派な商業施設ができている。
ここで和歌山線の電車に乗り換える。2両編成のすすけたワンマン電車である。「青春18きっぷ」の季節でもあり、鉄道ファンがこの電車に乗っている。
今月のダイヤ改正で、北宇智駅のスイッチバックがなくなることも影響しているかもしれない。運転席後ろで、迷惑この上もなく、三脚立て、ビデオカメラをまわす野郎もいる。
沿線は、住宅やら田んぼ、畑などが混在している。高田、御所を過ぎ、掖上あたりまで来ると、のどかな農村という車窓風景。大和棟の農家も少し見える。
近鉄と連絡している吉野口駅を出るとすこし山深くなる。大和川水系と吉野川−紀ノ川水系の分水嶺を越え、土地が開けてくると北宇智駅がある。
北宇智駅で下車する。無人駅。電車は、王寺方面から来ると、駅舎側ホームに停車する。発車するときは、逆向きに少し走り、折り返し側線で停車、また走る向きを変えて、勾配を下っていく。
北宇智駅付近は比較的開けていて、スイッチバックが必要なほどの、山間という感じがしないのだが、蒸気機関車が走っていた頃だと停車できなかったのだろう。
和歌山線の歴史は古く、1891(明治24)年大阪鉄道が王寺−高田間を開業したことに始まり、その先、二見まで、1896(明治29)年南和鉄道が開業した。また、和歌山市−五条間は、1898(明治31)年紀和鉄道が開業し、五条市内で路線変更が行われ、両鉄道が結ばれた。その後、各私鉄は関西鉄道に譲渡され、さらに、1907(明治40)年関西鉄道の国有化で、和歌山線となった。
和歌山線の電化は、1980(昭和55)年王寺−五条間、1984(昭和59)年五条−和歌山間が完成している。電車が走るようになっても、この駅では、むかしのまま、行ったり来たりするため時間がかかっていた。所要時間短縮のため、通過できるような位置にホームを設け、こんどのダイヤ改正でスイッチバックを廃止することになった。ちょうど、いま、ホームの新設工事を行っている。
ホームにはカメラなどかまえた鉄道ファンが数人いる。工事の安全と写真を撮ったりする鉄道ファンの無謀な行動を監視するためか、JRの職員も出ている。ご苦労なことだ。
この駅の東側の山手には、工業団地がある。いろいろな企業の工場が並び、また住宅も建っている。
そこを過ぎると産廃処分場でもあるのか、烏が飛び回っている。御所市と五條市の市境部で、そんなものが設けられる場所なのだろう。しばらく行くと、畑、梨園とか牧場とかもある。
近鉄福神駅に向かう道路を行くと、新興住宅街が現れてきた。「花吉野ガーデンヒルズ」という近鉄系のディベロッパーが開いたニュータウンである。隣家との間隔がゆったりとられて建物が建っている様子は、良質な住環境といえるだろう。
福神駅は、ひなびた駅を想像していたのだが、新しい駅舎で、ニュータウンの玄関駅らしい、しかし安っぽい書き割りのような駅であった。
駅の近くにコンビニがあったくらいで、商店街などない。夜だと寂しげなところだろうな。大阪に通勤することを考えると、福神から大阪阿部野橋駅まで1時間あまりだから、ものすごく遠い、というわけでもない。特急も停まるし。
食事をしたかったができそうなところがなく、ちょうど、吉野行の電車がきたので、下市口まで行ってみる。このあたり、まだ、自動改札が導入されておらず、「スルッと関西カード」は使えない。
ここから天川村ほうへバスが出ている。大峰山系への玄関口である。駅前から南へ商店街が延びている。シャッターを降ろしたままのような商店もあったけれど、このあたりでは賑やかなところなのだろう。駅前の食堂で昼食。
阿部野橋行の電車にぎりぎり間に合ったので、それで吉野口駅に戻る。この駅、近鉄の阿部野橋方面行とJR和歌山線和歌山方面行は同じホームの反対側で乗り継ぎに便利。王寺方面へは地下道をくぐって、隣のホーム。
この電車、和歌山線との接続がよく、3分の待ち合わせで桜井線経由奈良行に乗り継ぐ。和歌山線の電車は1時間おきだから乗らないわけにはいかないのだ。
御所の街を歩こうと、ひとつ手前の玉手駅で下車。田んぼのなか、片面ホームだけの無人駅。駅の案内板に、「水平社博物館」の案内が出ていたので、行ってみる。駅から東へ1.5kmほど、柏原地区にある。
戦前の部落解放運動の中心的組織だった水平社、その発祥の地が御所市柏原なのだそうで、その関係から、ここに博物館が設けられたそうだ。水平社運動の資料などが展示されている。
玉手駅に戻るのも、掖上駅に行くのも、距離的に大差ないので、掖上駅に出る。この駅には駅舎が残されているが無人。
ふたたび和歌山線の電車に乗り、今度は御所駅で下車。市街地の真ん中を葛城川が流れているが、その東側に寺内町という町名があるように、ここはもともと御坊とともに発展した街なのだろう。
駅の近く、線路沿いに煉瓦造の建物がある。屋根が落ちかかっているような建物であるが、鉄道が御所に延びてきた頃に建てられたのではなかろうか。
道幅の狭い市街地に、すでに改変されている住宅も見られるが、古い町屋が数多く並んでいる。千本格子、瓦屋根、漆喰壁に、虫籠窓、袖壁など、いまでは、失われ見られなくなった風情が多く残っている。
御所市は、こういった市街地の建物を、どう考えているのか知らないけれど、きっちり保存していってほしいものだ。それを考えないと、せっかく整った景観をもつ町並みも台無しになってしまうだろう。
こういった市街地に隣接して、ありふれた工務店的住宅が建てられているのをみたが、既存の町並みから浮いた、そんな住宅に場違いを感じてしまう。
御所駅の西側には、近鉄御所線の御所駅がある。その駅前に、「パンテオン」ドームが載った医院がある。豊和先生が関与された建物ではなかろうか。
御所駅から和歌山線の電車に乗る。この電車、桜井線経由奈良行で、高田でJR難波行快速に接続している。和歌山線の列車本数、高田から先は20分おきなので、ここでいったん下車することにした。
JR高田駅の近くにショッピングセンターがある。かつては、ダイエーがはいっていたみたいだが、いまはライフがはいっている。
高田から次の快速JR難波行に乗って帰る。(2007.03.03)
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