このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



江戸東京たてもの園/神奈川県立近代美術館鎌倉

[江戸東京たてもの園]東京駅から中央本線の特快に乗り、三鷹で各停電車に乗り換えて東小金井駅で下車する。中央線は、高架工事が行われており、東小金井駅下り線ホームは高架になっている。

駅前再開発は、高架後に進められる予定なのか、駅付近は、あまり賑やかな感じがなく、コンビニなどあるものの、駅近くに畑があったりもする。戸建て、小規模マンションなどが並ぶ住宅地だ。また、大学などもある。

北に1kmほど行くと玉川上水が流れている。水路の両岸は、鬱蒼とした木々に覆われている。暑い日差しのなか、木立のなかは涼しげ。水路に沿って五日市街道がはしっている。
水路に沿って、すこし西に進むと、都立小金井公園がある。この公園の一角に江戸東京たてもの園がある。この施設は、両国にある江戸東京博物館の付属施設で、都内各地から建物が移築され公開されている。ここを訪れるのは、開園当初に来て以来。

園の玄関になる建物は、旧光華殿、1940(昭15)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために仮設された神社のような感じの建物である。式典の翌年、小金井大緑地(今の小金井公園)に移築されたもので、江戸東京たてもの園開園にあたってビジターセンターとして改修されている。

今回、見てみたい建物は、前川國男自邸である。それで、まず、西ゾーンに向かうと山の手通りに沿って住宅が3棟並んでいる。東側から大川邸、前川邸、小出邸である。
大川邸は、田園調布にあった洋館で1925(大14)年に建てられた郊外住宅のひとつ。全室洋間というのが、当時としては珍しい存在だろう。

真ん中にあるのが、前川邸で、建築資材の入手がきびしい、戦時中の1942(昭17)年に建てられた木造の建物。外観は大きな切妻屋根、山小屋風というか、信州の郊外農家の古い民家に見られそうな2階建て。北側からはいる。まっすぐ行くと建物の壁につきあたり、左に折れると大谷石の塀があり、回れ右すると壁面から半間ひっこんだところに玄関があって、いいアプローチだな、と思えてくる。

建物の東側に玄関、女中室、便所、書斎があって、建物の中央には吹き抜けとなっている居間があって、2階部分は1間ほどの幅しかない。南側と北側に開口がとられ、広い吹き抜けがいい感じ。
2階のむき出しの根太からペンダントライトがつるされ、その下に食卓がある。その奥、建物の西側に台所や浴室、寝室がある。居間の吹き抜けのありようを見ていると、戦後の最小限住宅のプランを思い出す(教科書でしか知らないのだが)。

前川國男は、コルビュジエのもとに1928年から1930年までいた。コルは、吹き抜け空間をもつ住宅を設計しているが、そういった経験、影響を受けたものなのだろう。

この建物の隣にあるのが小出邸で、設計は堀口捨己、1925(大14)年に建てられた。急勾配の瓦屋根の建物に水平連続窓のモダニズムな四角い箱を合体させたような建物だ。かなり不思議な感じがする。
堀口というと、これも教科書でしか知らないのだが、「紫烟荘」という建物が有名。オランダ民家風の丸みを帯びた茅葺き屋根にスティル派のデザインを融合させた、といわれるものだが、ここの小出邸は、茅葺きのかわりに瓦屋根にした、という印象。

これらの住宅の向かいに常磐台写真場という1937(昭12)年に建てられた写真館があり、そのその向かいに戦後すぐに建てられた三井八郎右衛門邸、明治時代京都に建てられた客間などを移築した部分があったりする、財閥の邸宅がある。さらに奥のほうに進むと、江戸時代に建てられた武蔵野の農家などが木立の間にある。

戻って東の方に行くと、なかほどに、2.26事件の現場ともなった高橋是清邸などがあり、東ゾーンは下町の町並みを再現した看板建築や出桁造りの商店などが並び、奥まったところに千住にあった子宝湯がある。

このあたりの建物は、たてもの園開設当初に移築復元されたものだったと思うのだが、商店に並べられた再現品、酒瓶のラベルなどは、日焼けしたもの多く、すこし興ざめ。当時の生活を再現して見せるのは好ましいことなので、定期的に交換張り替えするなりしてほしいものだ。

たてもの園をあとに、小金井街道に出て、こんどは、北に向かって西武新宿線の花小金井駅に向かって歩く。たてもの園は、JR中央線と西武線のなかほどにあって、花小金井駅まで1kmあまりだ。
西武の各停電車に乗り、中井駅で下車する。ここは都営大江戸線乗り換え駅、案内に従って駅から出たものの、人につられて歩くうち、地下鉄の入口を見つけそこね、気がつくと山手通りに出てしまった。大回りしてようやく地下鉄駅に着いた。

何度か乗り降りするだろうからと、一日乗車券を購入し、都営地下鉄に乗る。このあたり乗るのは、新宿から光が丘に路線が開業して以来だろう。地下鉄だから外の風景が楽しめるわけでもなし、おもしろみはない。

新宿を通り越し、六本木で下車する。六本木ヒルズ界隈を訪れるのは2度目だが、初めて六本木ヒルズ展望台に上る。
ここの森美術館で「ル・コルビュジエ展」が行われているのでのぞく。今年(2007年)は、コルビュジエ生誕120年ということで、建築作品の紹介や建築模型、多くの絵画や彫刻も並べられている。また、アトリエやユニテ室内、休暇小屋を原寸で再現していたりもする。著名な建築家の展覧会ということでなかなか盛況である。

そのあと東京シティビューという展望室をひとまわり。250mほどの高さがあるそうで、都内を一望のもとに見ることができる。 下界に降りて、麻布十番駅まで歩く。六本木ヒルズからだと、都営大江戸線の六本木駅と麻布十番駅は、歩くのにそれほど大差ない。

大門駅で下車して、都営浅草線に乗り換え、三田駅まで行く。JR田町駅のそば、建築会館に立ち寄ったあと、こんどは、都営三田線に乗って神保町まで行く。神田の本屋を覗いてまわったあと、小川町駅から都営新宿線に乗り、馬喰横山で下車。そして、乗り換え駅の都営浅草線東日本橋駅まで歩き、隣の人形町駅まで乗る。久しぶりの東京、きょうは日本橋蛎殻町のBHに泊まる。(2007.8.3)





[神奈川県立近代美術館鎌倉]早朝、BHを抜け出して、茅場町駅まで歩く。東京メトロ日比谷線は東急東横線に乗り入れているので、そのルートで横浜に行く。

やってきた電車は、中目黒行だったが、すぐに横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街行がやってきた。きょうは、日本大通り駅で下車。

神奈川県庁舎前を通って、横浜大さん橋国際客船ターミナルのほうへ歩いていく。木のデッキがうねうねが続く国際客船ターミナルができたのは、2002年だが、訪れるは初めてである。国際コンペで選ばれたfoaというイランとスペインの建築家ユニットの作品。

早朝からジョギングしたり散歩したりする人が多い。ぐるっとまわって、横浜地裁など近代建築が多く残る界隈を抜け、横浜スタジアムのそばを通ってJR関内駅まで歩く。

根岸線に乗って大船に向かう。大船駅前から京急バスに乗って鎌倉山に向かう。ここのバスは、鎌倉山ロータリーでバスの乗り継ぎができ、下車するとき、乗り継ぎ券をくれる。鎌倉山ロータリーには、大きな石碑や開発の来歴を示す案内がしてある。乗り継ぎ券をもらって下車したものの、接続のバスまで10分ほどあったので、そのまま鎌倉方面に歩いて行く。建築家の関与した住宅なども見られる。

堀部安嗣先生の「鎌倉山の家」と「由比ヶ浜の家」を見学させていただいたあと、鶴岡八幡宮境内の神奈川県立近代美術館鎌倉を訪れる。

この美術館は、1951年に建てられた美術館で、設計は坂倉準三。境内の池越しのながめ、なかなかよい。隣接して、坂倉の設計になる新館(1966年)がある。
資材の乏しい戦後の建物で、か細い鉄骨で建物本体が持ち上げられている。階下に大谷石の壁があるので、その細さはあまり意識されないのだが、近代建築5原則にならった建物である。

坂倉は、1931年から1936年まで、前川國男の次にコルビュジエのもとで修行した建築家である。コルの美術館の検討というのは、1930年頃より行われいたらしい。そうした影響がこの美術館に流れているだろう。
外壁にはアスベストボードを使い、アルミジョイナーでとめられている。当時としての最新建材が使われている。外装板の割付を見ると、コルのルシォール型住宅のパース(教科書などに紹介されているのしか知らないのだが)を感じさせる。

上野の国立西洋美術館は、国内唯一のコルビュジエの作品だが、ここと雰囲気が似ている。西洋美術館の建設予定地の視察だかで、コルが日本を訪れたさい、坂倉らに案内されて、この建物を見学しているのだそうだ。実際に建ったこの美術館から影響を受けたこともあったろう。

いまから10年あまり前、この建物を取り壊す計画があったそうだ。その後、「日本のモダニズム建築20選」に選定されたりし、当面は、その危機を脱しているらしい。現在、美術館の建つ場所は、鶴岡八幡境内で、神奈川県が土地を借りているらしい。その契約が10年ほどのちには切れるのだそうで、そのとき、どうするか、という問題があるらしい。

八幡側は、建物を残す方向らしいが、傷みがひどく、補修に金がかかるとなると、そのまま残されるか、微妙なところらしい。とくに新館の傷みが激しい。そんな話を、美術館の人からうかがった。
美術館から少しはなれたところに別館がある。こちらは1984年、大高正人の設計になる建物である。(2007.8.5.)


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